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 2004/vol.03

「悔しいっすねぇ。ほんとに」
 開幕以来3連勝を続けていたフロンターレは、アウェイ仙台の地で初黒星を喫した。試合後、木村は開口一番こう言った。
「ずっと攻めていたし、チャンスもあったんで。前半も後半も。負ける相手じゃないと思ったし…」
 無念の表情が浮かんでいた。
 
 
 木村誠は、1979年6月10日、福井県丸岡町に生まれた。丸岡町といえば、「一筆啓上」で有名であり、ベストセラーになった『日本一短い手紙』シリーズ発祥の地である。
 木村は、父親の仕事の関係で生後数ヵ月で丸岡町を離れ、大阪府吹田市に転居をする。そこで8年間過ごし、再び丸岡町に戻り、18歳までの青春時代を過ごした。
 サッカーとの出会いは小学校3年生のとき。少年団に入ったことがキッカケだった。木村自身は、実は野球が大好きだった。だが、丸岡高校サッカー部出身の父親や友達の影響で、サッカーを選択することになった。選択というより成り行きに身を任せた、というほうが正しいかもしれない。丸岡が福井県のなかで最もサッカーが盛んな土地だったこともラッキーだった。丸岡中、丸岡高校とサッカーに打ち込める環境が身近にあったからだ。
 
 高校2年から試合に出ていた木村は、インターハイベスト8、全日本ユース選手権1回戦敗退、選手権2回戦敗退と全国大会の場を踏む。インターハイでのベスト8をかけた試合は、伊藤宏樹がいる新居浜工業高校との対戦だった。ただ、この試合で木村は負傷をしたため、途中交代を余儀なくされたのだが…。
 高校時代の木村は3バックの左ウィングバックや、4バックのときは中盤の左サイドハーフを務めた。独特の間で入っていく突破が得意だった。
「くねくねドリブルするタイプじゃなかったですね。体の入れ方というかタイミングでいく。昔は左サイドのほうがドリブルしやすかった。自分の右側に対面の相手がいますよね。で、相手が誘って足を出そうとしたときに、相手に近いほうの右足でちょんと蹴って抜けるから」
 木村が3年のとき、丸岡高校は選手権でベスト4という成績を残す。1、2回戦、準々決勝と実に3回のPK戦を制して掴んだ結果だった。
「PKを蹴ったのは、1回戦だけです。最初は5人目やれって言われて、『やめたほうがいいですよ』って自分で言った。でも、5人で決着つかなくて6人目にまわってきたときに、じゃあ蹴ろうかなって。先に僕が入れて、相手が外して。でも、やっぱりキーパーのおかげですね」
 準決勝は、優勝した本山(鹿島)率いる東福岡との対戦だった。初の国立での舞台に、全校挙げての応援となった。さすがに木村も緊張したという。
「5分ぐらいで、すごい足が重くなった。高校サッカーやってたら、国立でやるのって夢みたいな感じになるじゃないですか。3対1で負けて、泣いた記憶はないですけど、あぁ、高校3年間が終わったなぁって感じでした」
 
 


 

 先輩から話を聞き、関東の大学へ行ってみたい、という気持ちを強めた木村は駒沢大学に進学する。木村が入学する前年に就任した秋田監督は「ベストポジション・フットボール」を標榜していた。
「ポジショニングについては、いまに通じていると思う。3バックのカバーにもいけるポジションをとったり、自分のマークにふられたときもすぐ動けるように、という感じで意識しています」
 1学年下になる深井(鹿島)、巻(市原)のツートップを擁し、同学年には那須(横浜)、三上(浦和)らがいる錚々たるメンバーがいた駒沢大学だったが、最終戦に勝てば優勝、というところで落としたりと、なかなか優勝に恵まれず、1年の秋から試合に出ていた木村がはじめて優勝を体験したのは4年生の秋も深まった全日本大学サッカー選手権大会(インカレ)だった。
「優勝、うれしいっすねぇ」とパッと笑顔になる。
 大学時代に何度か対戦したことのある中村憲剛は、「駒大は、個人能力の高いチーム。キムさんは、堅実なプレーヤーですね。預けてくれるし、お互いに使いやすい」と話す。
 そして、大学時代を締めくくる最後の大会となった天皇杯で、ジュビロ磐田と対戦したことも忘れがたい記憶だ。
 前半をスコアレスドローで折り返し、後半に磐田が2点リードするも、駒大のストライカー深井が終了間際の同点弾を含む2得点で延長戦へ。そして延長後半7分、駒大のファウルで得たPKを藤田が落ち着いて決め、決着がついた。
「それ、僕なんですよ。PKとられたの。ペナルティーエリアに西がドリブルで入ってきて、もう足がつってて動けなくて、体でいけばいいのに一歩、足が出ちゃって。優勝と、このPK。どっちも大学時代の思い出です」
 
 2002年にフロンターレに加入した木村だが、出足は最悪だった。キャンプ前のフィジカルチェックで左足の小指の外側の骨(中足骨)に疲労骨折が見つかったのである。
「キムの場合、骨に傷がついている段階で見つかったんですけど、細かくチェックしないと見つからない場合もけっこうある。痛みもたいしてないし気づかないでそのままやっていたら、ある日バキっと折れてしまうんです」(境トレーナー)
 疲労骨折した部分にボルトを通し、腰から削った骨を使って患部を太くする手術が行われた。
「あんまりいい思い出ではないですね」と木村は小さな声で話し始めた。
「あのときは出遅れて、やべえって感じでした。大卒で入って1年目でダメならやばいって思っていたのに、手術があったから余計に焦って…」
 チームに完全に合流できたのは5月の終わり頃だった。
 昨年は、夏に1試合だけ途中出場をしたが、以来チャンスは来なかった。
「昨年は、それこそ大学時代にやっていたプレスと近かったから違和感はなかったんですよ。でも、アピールが足りなかった」
 木村は、よく「感情を表に出せ。おとなしい」と言われるという。 
「自分では出してるつもりだし、これが自分だし。出すのがイヤというんじゃなくって、普通にそうなってしまう。でも、それがアピールにつながるなら、やらなきゃだめですよね」
 

 

 3年目となる今年、宮崎キャンプで関塚監督が「新しい発見だった」と名前を挙げた木村は、その後の練習試合でもスタメンに名前を連ねるようになった。だが、関塚監督にも「気持ち」の部分を指摘されている。
「清水との練習試合では『それぐらい体使って粘り強くいければいい』って言われたんですけど、鹿島戦では淡白になったって。もっと積極的に自信もっていけって言われました。情けなかったですね。当たり前だけど、100%でやっていきたい」
 すでに変化は、自分で感じとれている。以前より頑張れる自分がいるし、友人に「変わったな。昔は走るイメージがなかった」と言われ、岡山にも「お前あんなに走るんだ。見る目、変わった」と声をかけられた。
 プレーの面でも、本来もっていた守備の堅さに加え、攻撃の意識が加わり結果的に攻守におけるバランスが武器になった。
「大学でサイドバックをやっていたから、後ろから出ていくタイプなんですよね。自分としては、ものすごい攻撃的にやってみたら、ツトさん(高畠コーチ)に『それぐらい攻撃と守備の意識が両方あればいいよ』って言われて、今までよっぽど守備的にやっていたんだなぁって気づきました。アウグストみたいに抜けるわけじゃないから、味方に預けて自分も出て行く。味方を使って、自分も使ってもらおうと考えてプレーしています」
 

 
 高畠コーチは木村についてこんな風に話してくれた。
「もともと能力的には高いものをもっている。大学時代に4バックのサイドをやっていたけど、うちは3バックだったというところで、活かしきれない部分はあった。おとなしいと言われるけど、ここってときはあいつはやる。相手に合わせるだけじゃなく要望を出していくことも大事というのはあるけど、それは本人もわかっていること」
 試合に出ることで課題も見つかった。守備面においては、「強さ」がもっとほしいと木村は言う。
「軽いんですね。敵とボールを挟んでぶつかって、どっちに転がるかってときに相手に転がってしまうときがある。出足の集中力や強さもあるけど、気持ちが絡んでくるんじゃないかと。キレイにやろうとするところがあるから、泥臭くファウルでとめるぐらいガンガンいきたいんですけど。ぶつかるのが恐いっていうんじゃなくて、行こうとしたときに一発で交わされるのが一番イヤなんです」
 
 木村は、最悪のシーンを想定してプレーをする。それが、彼の堅実さを生む原因でもあり、その辺りに次のステップへ進むヒントが潜んでいるのかもしれない。関塚監督も木村への要望として「攻撃になったときに、もっとイニシアチブをとってほしい。横や後ろではなく前へつなぐプレーをもっと意識してほしい」と語る。
「高い位置であればいいんですよ。そこまでいけば一発の逆襲はないしいきます。でも、中途半端な位置だったら取られるぐらいなら、ボールを動かしていったほうがいいかなって。無意味に飛び込んで置き去りにされたくない」
 淡々としているように見えるが、実は相当な負けず嫌いだということがわかってきた。すると本人は、「よく言われます。カンちゃん(神崎)や佐原さんに、負けず(嫌い)だからなぁって」と、いたずらっぽく笑った。
 昨年までは観ていることしかできなかったピッチに、毎試合立っている責任感も肌で感じている。
「今年は全部試合に出たい。チームの代表として試合に出ているので、試合に出ていない人のぶんまでやらないと。情けないプレーはできないです。チャンスに絡んでいきたいし守備でも貢献したいし…。全部っすね」
 
 

2002年、駒沢大学より川崎フロンターレに加入。3年目となる今年、レギュラーを掴み右ウィングバックとして出場する。1979年6月10日生まれ、福井県出身。172cm、66kg。

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