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 2004/vol.05

「サッカーやっている以上、日本代表になって日の丸つけてピッチに立ちたい」
 頼もしい言葉とともに、彫りの深い目元がさらに力強さを増した。数年前は、「日本代表をめざす」という発言をすることも恥ずかしがっていた我那覇からは想像もできないほど逞しくなった。
「いまでも言ってて照れくさいなぁって思うことはあるんですよ。でも、いまの代表見てると新しい選手が入ったりしてますよね。だから、いつ誰が見てるかわからないし、長いシーズンできるだけ波をなくして、今年は絶対に昇格してJ1でプレーしたい。自分が点とってチームに貢献して昇格できれば、1999年のときより数倍うれしいと思うし」
 
 沖縄から単身、上京して県内3人目のサッカー選手となった我那覇和樹は、昨年の10月4日対新潟戦や最終戦の広島戦、振り返れば2000年のJ1ファーストステージ最終戦でセレッソ大阪の初優勝を阻むことになった1ゴール1アシストの活躍など、大舞台ほど見せ場を作ってきた。本人は、それを「運」という言葉で表現するが、もちろん理由はそれだけではない。
「セレッソ戦のような逆境というか、大舞台になると自分のなかで燃えるんですよね。満員の長居で目の前で胴上げは見たくなかったし、あの地響きはすごかったなぁ。びっくりした」と体感した衝撃を蘇らせた。
「でもね、ほんとにフロンターレに入れたのだって運がよかったからなんですよ」
 
 それは、宜野湾高校3年生となって迎えた春の新人戦・九州大会でのことだった。
「東福岡や国見とか強いチームが出ていたからフロンターレのスカウティングの方が来てたらしいんですけど、たまたまうちの高校も同じブロックにいて、自分が点を取ったので注目してくれたんです。やっぱり運がよかったんですよ」と謙遜するが、実力をしめす材料はある。高校1年からレギュラーとして活躍し、その年の選手権に出場。チームで最も背が高く、フォワードもトップ下もこなせる2列目から飛び出すタイプのシャドーストライカーだった我那覇は、高校2年からすでにJクラブの練習に参加するなど注目を浴びていた。最終的には、フロンターレの話だけが残った。当時のフロンターレはJFLで2位、翌年のJリーグ2部制移行にともない開催されたJ1参入決定戦に敗れて昇格が絶たれ、J2からのスタートが決定していた。
「いま思えばいきなりJ1でやるよりよかったと思う。試合に出られなかったら意味ないし、そのまま結果を出せない選手だっていっぱいいるでしょう。3年の選手権は一回戦で負けちゃったけど、フロンターレに入ることは決まってたから、応援してくれたファンの人もいたんですよね。それがうれしかった」
 1999年、こうしてフロンターレに加入した我那覇だったが、沖縄から上京した彼にとって環境に慣れることは人一倍時間のかかる作業だった。コミュニケーションの基本である“言葉”さえも壁となり、沈んだ表情を浮かべることも多かった。
「標準語は、聞くことはできるんです。でも、返事をするときに沖縄の言葉と標準語を変換しなくちゃいけないから、遅れちゃうんですよね。だから最初は、どう接していいのかもわからなかった。ホームシックもあったし寮に引きこもっていて、先輩にご飯に誘われてもなかなか行かなかったから、たぶん難しいやつだと思われていたんじゃないかなぁ。ほんと、最初の頃は練習やっていても自分だけが浮いている感じがしてひとりぼっちな気がして寂しかったです。でも、リーグ戦に3試合だけだったけど出られてちょっと自信がついて変わった」
 その年、J1昇格を決めたフロンターレの記念写真に我那覇も笑顔でおさまった。


「後ろから見てて全然違う。厳しいボールとか、ハイボールを胸トラップしてキープする場面が多いですよね。もともと能力は高かったけど、スタメンで出てることも大きいと思う」(寺田周平)
「前でキープできるし、自信もってやっている。ジュニーニョとのコンビもよくなっているし、動きの質が全然違うんだと思う」(伊藤宏樹)
「今年の我那覇は動きに集中力がある。ボールもらったら何をすべきかがハッキリわかってるんだと思うよ。練習終わった後に、シュートとかクロスからのヘディングとかよく自主練習しているし。若いうちは練習をやることがとても大事。必ず結果に出るからね」(アウグスト)
 後ろから支えるチームメイトたちの言葉に、我那覇の成長と今年の活躍が端的に表れている。
 振り返ると、2001年からの2年間は不完全燃焼な日々を送っていた。その頃の得点記録を見ながら「あっ、この試合で俺、点取ったっけ…。やばいですよね。自分のゴールを思い出せないなんて」と苦笑する。2002年は、練習試合で得点を量産し、“キングオブ麻生”とチームメイトから命名された。昨シーズンは13ゴールを決めて飛躍の年となったが、リーグ戦40試合出場のうちスタメンは約半数の23試合。開幕以来、ずっと名を連ねているのは実は6年目の今年が初めてのこと。さらに背番号「9」を背負った責任とファンからの期待も力に変えた。
「やっぱりスタメンで出てるのは大きいですね。今年はワントップだし自分が起点になることは監督に常に言われていること。関塚さんは、FW出身ということもあり、いろいろアドバイスくれるし、不甲斐ないプレーをしたら怒られることもある。『得点ランキング上位に日本人選手がいることは大切だぞ』って言われています。自分では、自信というより、遠慮しなくなったというか、いい意味で欲が出た部分はあるかもしれない。ゴールを狙っているのはもちろんだけど、ボールも前にくらべたら要求するようになった」
 
 
 昨年、石崎前監督が我那覇について「あいつは優しいところがあるからなのか、ゴール前でここっていうときにボールから離れてしまうことがあるんだよねぇ」と言っていたことがある。昨シーズン当初は、ほしいタイミングでボールがまわってこないというジレンマもあった。
「最初の頃はブラジル人でボールをまわしている感じがあったけど、(10月4日の)新潟戦ぐらいからボールがまわってくるようになって自分のなかでもふっきれた感じがあった。今年は、よくボールがまわってくるし、ジュニーニョからのアシストも多くてやりやすいですね」
 ジュニーニョがトップスピードで相手DFを複数人引きつれ、シュートを放つ寸前のタイミングで横にいる我那覇にパスを選択する。ジュニーニョの走るスピードとパスのタイミングに合わせることは至難の技だ。
「ジュニーニョはものすごいスピードがあるから自分がもらいたいタイミングよりちょっと遅れ目になるんですよね。俺も感じて動いてるけど、速すぎていけないときはあります。でも、それだけDFつってくれるからフリーになれるし、あとは決めるだけ。今年はマルクスもいてFWはどうしても外国人と争うポジションだけど、それは気にしてないですね。外国人だからということで負けたくはないし、そういうことでは全然あきらめてない」
 

 より近い位置でプレーをする今野章の目からは、我那覇の姿は、こう映っている。
「余裕と自信でしょう。もともと能力はあったけど、今年は一瞬で振り向けたりする場面がよくある。あと、45度の角度からのシュート。あれは、絶対外さない自信があるよね。自分のものにしているし、コースも周りもちゃんと見えてるんじゃないかなぁ」
「ふっきれた」と我那覇がいう昨年の新潟戦や最終戦の広島戦も得意の45度の角度から放たれたシュートだった。
「自分が得意なところはどんどん高めていきたいし、その角度でシュート打ったら入る自信がある。打った瞬間に体で『入るな』ってわかるから、すぐサポーターに向かって走りだしてましたね」
 ストライカーとしての実感がもてずにいた時期を超え、昨年の悔しさを経験し、我那覇は生まれ変わった。というより、秘めていた力や能力を最大限に発揮できるようになったのかもしれない。悔し涙にくれた昨年、最終戦の前日に、「いままではみんなについていくっていう気持ちだったけど、いまは自分がっていう気持ちが強い。試合前日のミニゲームで点とると縁起がいいんですけど、きょう取ったから明日は必ず点取って勝ちますよ」と穏やかな表情で語り、その通りに実践してみせたことが思い出される。
「昨年は、出たり出なかったりで気持ちの揺れが大きくて、自分では悪くないと思っているときに出られないと、モチベーションが難しい時期もあった。でも、それを乗り越えて昇格できなかった悔しさを経験したから今年があるのかなっていうのはあります」
 

 2002年7月に入籍した温子夫人とは、その年のシーズンオフに沖縄で結婚式をあげた。プロ入りし、新しい環境に慣れず落ち込んでいた我那覇に外の世界や人とコミュニケーションをとる大切さを気づかせてくれたのは当時、知り合った温子夫人だった。
「もっと外に出て世間というのを知ったほうがいいって、よく言ってくれました。それから徐々に楽しくなっていったんですよね。いまは、落ち着けるし栄養管理もしてくれるので、家族のためにも頑張りたいって思う」
 親孝行も欠かさない。昨年、10月18日の札幌戦に両親と妹を等々力に招いた際には、ゴールを決めてメインスタンドにいる家族にガッツポーズを送った。
「親には、感謝しています。沖縄って九州大会に行くにも飛行機だから遠征費もすごくかかるんですよ。それに、宜野湾高校は2時間かかる遠い学校だったんですけど、行きたいって言ったら『最後まで続けられるなら任せる』って尊重してくれて。父の職場が途中にあったからそこまで毎朝車で送ってもらってたんです。宇栄原FCでサッカーをはじめたときからずっと応援してくれていて、本当にありがたいですね」
 
 まだ高校生だった頃から現在に至るまで、地元メディア「琉球新報」では我那覇の活躍を何度も取り上げてきた。遠い故郷で見守ってくれる人たちに確実に届けられる記事の存在は、我那覇にとってなによりうれしいことだという。
 今年5月2日(日)の朝刊に掲載された「がんばれ、我那覇選手」と題したコラム(金口木舌)の終わりは、こんな風に綴られている。
 
──03年8月現在、県内のサッカー人口は小学生、中学生合わせて約7,275人、高校まで合わせると約1万人。プロで活躍する我那覇選手らは、県内のサッカー少年にとって手本であり、あこがれの的だ。
 J2で2位以内に入れば来季はJ1に昇格する。サッカー少年たちの夢のためにも頑張れ、我那覇選手。──

 
 


 


1999年、宜野湾高校より川崎フロンターレに加入したストライカー。
1980年9月26日生まれ、沖縄県出身。
182cm、75kg。
 

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