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そこへたどり着くために。

DF28/板倉 滉選手

テキスト/林 遼平(エルゴラッソ川崎F担当) 写真:大堀 優(オフィシャル)

text by Hayashi, Ryohei(ELGOLAZO) photo by Ohori,Suguru (Official)

小学4年生の時に川崎フロンターレU-12に入団し、そのままU-15、U-18とステップアップ。15年にトップチームへ昇格を果たすと、プロ1年目こそ公式戦の出場は叶わなかったが、2年目のナビスコカップ第6節・仙台戦でプロデビューを飾り、その年はリーグ戦を含めて6試合に出場した。さらに今季はACLやU-20W杯を経験。プロ3年目を迎える板倉滉は日々着実な進歩を遂げている。

 そんな彼のこれまでの歩みは、端から見れば「順風満帆」と言われてもおかしくないだろう。しかし、板倉は頭を横に振って言うのだ。

「自分は全然エリート街道を進んできたわけではないんです」と。

小さい頃から外で遊んだり、友達とワイワイしたりすることが好きな少年だった。父親が野球をやっていたことから幼少時は野球に興味を持っていたが、突然サッカーに転身したのが小学1年生の時だという。

「最初はお父さんが野球をやっていて、4歳ぐらいの頃の誕生日プレゼントもバットだったんですよね。それでずっと野球をやっていました。でも、小学1年の頃に急にサッカーに変わって。たぶんお父さんは野球をやらせたいみたいなのはすごくあったと思います。ただ、サッカーをやりたいと自分が言い出したからだと思いますけど、サッカーをやらせてくれて、何なら一緒にと練習もやってくれました」。

サッカーを始めてからはメキメキと頭角を現していった。小学校1年の時に神戸から横浜に移住すると、あるプロサッカークラブと出会うことになる。家から最も試合を見に行きやすかったチーム。それが川崎フロンターレだった。

友達に誘われて試合を見に行くようになると、すぐにフロンターレの虜になった。そして小学4年生になると、川崎フロンターレがジュニアのセレクションを実施するという話が入ってくる。両親に「やってみるか?」と聞かれた板倉少年は、すぐにセレクションに参加することを決めた。

「セレクションを受ける前はFWでドリブルしかしないけど、取られないし、一番うまい自信もありました。それこそセレクションで一番点を取って、それで上がれたと聞いたことがあります。そこでたまたまジュニアの1期生になったんですけど、最初に合格したのは14人。あの時がオレの全盛期ですね(笑)。今考えてみても周りと比べた時に一番うまかった。今でもそうですけど、点を取るのが好きだったんですよね」。

FWとして川崎フロンターレU-12の門を叩いた板倉だが、そこで「今振り返ると相当大きかった」という一人の恩師と出会うことになる。その人物こそが当時チームを率いていた髙﨑 康嗣氏(現グルージャ盛岡コーチ)だった。

「小4でチームに入りましたけど、タカさんは本当にめっちゃ怖かったんです。でも、そこで人としてというか、すごくいろいろなことを教えてもらったなというのは今でも思っています。毎日泣きながら必死にやっていましたから。言い方が厳しいわけではなくて、サッカーならサッカーのことを話すんですけど、それが本当に怖いんです。今会ったら全然怖くないですけど、その時はめちゃめちゃ怖かった(笑)。それにサッカーに対しても、もちろん厳しかったですけど、私生活にも厳しかった。そこで自立ではないけど、ヘラヘラしていたらダメだという意識が自分の中に芽生えた気がします。それは間違いなく今にもつながっていると思いますね」。

MF18/エウシーニョ選手

 そんな髙﨑氏との出会いによって、板倉はプレイヤーとして大きく成長していく。これまでとは違い、前にボールを運ぶことやリフティングのトレーニングなど、足元の質に特化した練習が増えたことで技術を磨く日々が始まった。

「足元のうまさというのは、小学校の頃のタカさんがいたから良くなったと思う。あの時はそういう練習をいっぱいやっていたし、そこでプレースタイルの土台ができたと思いますね」。

さらに今でも板倉にとって忘れられないエピソードがある。

「最初はFWで入ったんですけど、タカさんと話していろいろなポジションをやるようになったんです。ボランチもやりましたし、CBもやりました。今でも覚えているのは『ちょっと後ろをやろうか』と初めて言われた時、すごく泣いたのを覚えていますね。オレは『前しかやりたくない』という思いだったんですよ。当時は後ろをやっている自分が考えられなかったから」。

髙﨑氏の説得の末にボランチやCBでプレーするようになった板倉は、6年生時に小学生年代の世界一の座を争うダノンネーションズカップに出場。この大会が「世界でやりたい、プロでやりたいという思いを強くさせてくれた」きっかけとなり、プロの世界を意識するようになった。そのまま順調に川崎フロンターレのU-15に昇格。前途は希望に満ち溢れているはずだった。

だが、中学生となった板倉に思いがけない苦難の時が待っていた。身体の成長が遅く、体格で周りに追い抜かれると、試合にも出られなくなった。そこにプラスして友達と遊びたいという気持ちが増し、サッカーへの熱が徐々に薄れていく。その気持ちに気付いた時、板倉は一つの行動をとる。

「中1の時に一度、『辞めたいです』と言いに行きました。サッカーの練習に行くのも面倒で行きたくなかった。じゃあ試合に出たいかと言われても、そんな欲もなかった。サッカーの熱がそんなになかったんでしょうね。ただ何故そうなったのかと言われれば、周りに抜かされて、みんなと同じように出来てない自分がいて、そのことにどこかで拗ねていたんだと思います」。

周りの成長に追いつけないことに焦り、自分自身でどうすることもできないジレンマに陥った。ただ、それでも板倉を突き動かす「ある」ものがあった。

「辞めたいと言った次の日には、普通に練習に行っているんです。たぶん親にも申し訳ないという気持ちがあったかもしれない。それにやっぱり“プロになりたい、等々力でやりたい”という気持ちがあったんだと思います。どこかでそうなりたいという気持ちがあったからこそ、そのまま辞めないでやれたんだと思います」。

サッカーから離れるという決断こそ踏み止まったが、中学の3年間はやはり簡単ではなかった。板倉自身も「気持ちのところでぶれていたというか、サッカーだけに打ち込めていない自分がいた」と振り返っている。中学年代最後の大会となる高円宮杯全日本ユース(U-15)サッカー選手権大会の関東大会でも、ほとんど出場することなくチームも決勝で敗戦。そういった状況もあって「ユースには上がれないだろうなと」思うようになっていた。

しかし、チームとの面談の席で伝えられたのは、板倉の予想に反して「昇格」という言葉だった。

「中学の時に見せていたプレーでは上がらなくてもおかしくなかったと思います。実力的にも厳しかったなと。でも、そこで上がれると聞いた時は驚きましたね。感謝しかなかった。振り返っても、中学校は苦しかったというか嫌々やっていたところもあった。今思うとちょっともったいないなと思う部分はあります。でも、あそこで辛抱強くやっといてよかったなと、今は思うんですよね」。

 川崎フロンターレU-18に昇格した後は、身長が伸び、みるみる周りを追い抜いていった。さらに再び髙﨑氏の下でプレーすることになったのも幸いし、1年生の時から試合に出場。チームの主力として出場を重ねていった。

 高校2年生になると現在も監督を務める今野章氏が就任。その今野監督の一言でポジションもボランチに変わった。身長の高さと足元の技術を兼ね備えていたこともあって、ボランチでのプレーにはすぐにフィット。その年には初めてトップのキャンプにも参加した。そこでトップの選手たちと肌を合わせたことで、より一層プロへの気持ちが高まったという。

 そして高校3年生時に2種登録。トップチームへの昇格が目の前に迫っていた。だが、板倉の考えでは昇格は五分五分だったという。

「正直、自分の中ではプロに上がれるかわからなかったですね。2種登録はしてもらっていたけど、ギリギリまでわからなかった。(同期の)三好は上がるだろうなというのはあったけど、全然わからなかったので、大学の準備もしていました。だからトップチームへの昇格が決まった時は相当嬉しかったです。何の迷いもなく『よろしくお願いします』と言いました」。

 ここで小学校時代から夢にまで見てきた“川崎フロンターレでプロになる”という目標は達成された。そして、プロの一員となった板倉は次の目標として「等々力のピッチに立つこと」を掲げた。

 新たな目標を掲げて挑んだ1年目。板倉の前には“プロ”という大きな壁が立ちはだかった。当時を思い出しながら「1年目は難しかったですね」としみじみ振り返る。

「あまりにも周りがうま過ぎました。やっぱりキャンプに行くのと、チームに入るのとは全然違った。ユースからトップに上がって、あまりの質の違いに正直驚きました。それほどレベルが違かったし、もちろんその中に入れていないことにも気づいていました。紅白戦で一人だけ入らないとなると自分が外れていたので。それはやっぱり今までなかったことだった。だから試合に出たとしても、みんなの中に入ってプレーする自分が想像できませんでした」。

 試合に出たい欲求がなかったわけではない。もちろん等々力のピッチに立ちたい気持ちも強かった。ただ、いざ試合に出るとなった時にどうすればいいのか。そこに答えを見出せずにいた。目の前で試合を行っている先輩たちの背中は近いようで遠く、届きそうで届かない差をひしひしと感じていた。

「『今日も練習か』となっていた時期もありました。緊張もそんなにしているとは思っていなかったけど、ユースの時にしないミスを平気でしてしまう。それは気持ちのブレからくるもので、どうしても硬くなっている自分がいましたね。プレーにズレが生じているのをみんなに見られているということは、自分のプレーはこれだけしかできないぞと見せているようなもの。それも嫌だったし、もちろん俺は『もっとできる』と思ってやっていたので。だからその辺のギャップが難しかった。とにかく毎日必死に練習をやっていました。常に全力で」。

 ただ、小さい頃から何度も壁にぶつかってきた男は、そこで投げやりにはならなかった。ピッチにはお手本となる選手たちがたくさんおり、成長できる条件は揃っている。試合に出ることが成長への一番の近道だったかもしれないが、練習から学べることは同じぐらいあった。

「動きのスピードもそうだし、判断のスピードもそう。そのスピードに慣れるまでが大変でした。何で自分が入れていなかったのかと考えると、やっぱりスピードに慣れるのに時間がかかったなというのがあります。そんな時に例えば(中村)憲剛さんなどは、やりながらアドバイスをくれていました。そういうのを聞いて、見て、どういう動き方をしているのかを学んでいましたね。憲剛さんだけではなくて、近くにそういう人がたくさんいたのはすごく嬉しいことだと思います。そういう雰囲気には助けられました」。

 果たして、1年目が過ぎ、2年目の5月26日。ナビスコカップ第6節・仙台戦で、チャンスは不意に訪れた。板倉は公式戦のデビューと共に等々力のピッチに初めて立つことになる。チームとしても勝ち抜けの可能性が残された状況。試合の前日は不安だけが募っていた。それでも等々力のピッチに立った時にはそんな不安も消えていた。

「いざ出てみたらわりとできました。もちろん修正点や細かいところを見ればいろいろありますけど、なんとなく自分のプレーができていたなという感じがあります。しかも余裕があったなと。たぶんサポーターの声援もあったと思います。こんなに応援してもらえることは初めてだったので。それに等々力のピッチはやっぱり最高だった。そこで実際に公式戦に出るのと出ないのとでは全然違うなと思ったし、気持ちの面でもできるぞと思う自分がいた。そこから精神的にもちょっとずつ自分の中で上向いていった気がしますね」。

 この試合を契機として、この年は公式戦で6試合に出場を果たした。本人も自信と手応えをつかんだことで「自分の中で2年目はいいステップだった」と語っている。1年目の苦労があったからこそ、2年目の成功があったのである。

 プロ3年目となった今季、板倉は「絶対にレギュラーを取る」という目標を掲げ、新たなシーズンを迎えていた。そして今季初出場となったAFCチャンピオンズリーグ第2節・イースタンFC戦ではチームの敗戦を救うプロ初得点を奪取。最高のスタートを切ることに成功した。

 しかし、またしても大きな壁が立ちはだかることになる。AFCチャンピオンズリーグの第3節、アウェイの広州恒大戦。先発出場を果たした板倉だったが、前半途中に交代を余儀なくされてしまう。怪我ではなく、内容の悪さが主な交代の理由だった。

「初めて試合でうまくいかなかった。今まで試合に出たらボールをしっかりつないで自分の良いプレーができていたのに、そういったプレーができなくなった時に修正が効かず、気持ち的にも焦っている自分がいた。あの試合に関してはシンプルに、パウリーニョの立ち姿にやられたと思います。いつもだったら距離が遠いなと思って落ち着いてできるところが、見えただけで捕られると焦ってしまう。自分の中では『落ち着け、落ち着け』と言っているんですけど、ボールがそこから全然足元についてこなかった。あそこからあまり自分の中でうまくいっていない感じがあります」。

 世界的にも有名なブラジル代表の選手と対峙して痛感した差。そこで受けたショックは決して小さくなかった。その後はチャンスこそ与えられるものの、なかなか自分自身の特徴である落ち着いたパスさばきが安定しない日々。いろいろと頭で考え過ぎるようになったことでプレーに迷いが生じ、チームが好調を維持する中で出番も少しずつ減っていった。

 それでも幸いだったのはU20日本代表からは声を掛けられ続けていたことだ。当落線上ではあったもののU20W杯にはチームメイトの三好と共にメンバー入り。さらに本大会前の直前合宿でボランチを試されると、相手の高さを抑えるために大事な初戦の先発にも抜擢されることになった。大会前から「選ばれたとしても出なければ何の意味もない」と語っていた中で、しっかりと有言実行を果たしたのである。

「絶対にU20W杯では試合に出たいと思っていたし、ボランチでやらせてもらって、そのままスタメンで出られたことは良かったと思っている。やっぱり初戦は大事だったし、あの試合は気合が入っていましたね。それに大会も全試合行くつもりでいましたから」。

 しかし、球際でのバトルや後方からのビルドアップで存在感を発揮していた板倉にアクシデントが襲う。試合終盤にふくらはぎを痛めてしまったのだ。

「怪我をしたのが本当にもったいなかったですね。試合が終わった後に全然痛みが治まらなくてMRIをとったら出血していた。でも無理言って、いろいろやらしてもらいました。練習は抑えた方がいいと言われても『今はW杯だし、それじゃあ間に合わないですよ』って。トレーナーも結構大変だったと思います」。

 決死のリハビリによって状況は日に日に良くなっていた。そして迎えたベスト16のベネズエラ戦。チームは延長戦の末に敗退することになるのだが、板倉は途中出場を果たしている。試合後は悔しさが口をついたが、すでに次の課題を見据えていた。

「どの相手とやっても組織的には守備や攻撃で通用するなと感じました。ただ、これよりも上に行くためにはと考えると、もっと個人で打開できる選手にならないといけない。そこは帰ってから取り組まないといけないと思っています」。

 U20W杯から帰国した板倉を待ち受けていたのはクラブ内での競争だった。世界大会で先発の座を手にする試合はあったが、自チームの中では若手の一人。レギュラー組の壁は高く、試合に出られない日々が続いた。それに加えて、同じくU20W杯でプレーしたチームメイトがJリーグの舞台で活躍し、海外移籍を果たす姿を見ると、焦らないわけがなかった。

 それでも「そんなことを言っている暇はないんです」と板倉は前を向く。

「ここまで全然チームに貢献できていないので、まずは本当に試合に出たいという思いが強いです。焦らずに、もう一度自分を見つめ直して、やるべきことをしっかりやって、試合に出てチームに貢献できるようにしていきたい。頑張るだけです。試合に出た時のために、今は準備するだけです」。

 先日のルヴァンカップ準々決勝・FC東京戦では、ホームとアウェイの2試合に先発出場を果たした。どちらもCBでの出場となったが、第2戦では途中からボランチのポジションに移動。エウシーニョの得点につながる突破を見せれば、守備では球際で厳しく対応してボールを奪い切るなど、チームの準決勝進出に貢献した。「今回は間違いなくチャンスだと思っていました。だけど、まだまだこれでアピールになったとは思っていない。本当に出続けないと意味がないので、またしっかり練習からアピールしていきたいです」。久々の出場は本人の中では全てが納得のいくプレーではなかった。それでも試合に出た意味は大きく、確かな一歩を踏み出せたことに違いはない。

 誰もが羨むようなエリート街道を突っ走ってきたわけではなかった。時に壁にぶち当たり、時にその壁を乗り越えながら、一歩一歩前に進んできた。そしてこれからも困難な状況に直面することになるだろう。しかし、そこで立ち止まる気はない。これまでと同じように前に進んでいくだけ。今までの出来事を振り返りながら、屈託のない笑顔で板倉は言う。

「過去のことはプラスに変えていくしかないんです。マイナスに捉えても何も変わらないので」。

 目標とする東京五輪、そしてA代表という舞台にはさらに険しい道のりが待っている。それでも板倉の辞書に「諦める」という言葉はない。

「まずはチームでしっかり結果を出さないと、そういうところにはつながっていかない。もっと試合の出場時間を増やして、スタメンに定着できるぐらい頑張らないと。自分には身長という生まれ持ったものがある。そこに足元のうまさがついて、パスやドリブルができて、ゴールを奪うこともできて、それでいて守備もできたら、そんな嫌な選手はいないですよね。そういう選手を目指したいんです」。

 見据える頂きは高い方がいい。理想の自分に近づくためにやるべきことはまだまだある。板倉は日々進化を遂げながら歩みを進めていく。

profile
[いたくら・こう]

川崎フロンターレ・アカデミー出身。上背を生かした空中戦の強さと足下の技術で勝負する大型DF。ボランチに入った際には、厳しいチェックで中盤の守備を引き締める。昨シーズン、先輩たちとの地道なトレーニングを続ける中で大きく成長。プロ2年目でついに公式戦デビュー。同期の三好とともに、U-20日本代表の中心選手として大きく育ってもらいたい。

1997年1月27日
神奈川県横浜市生まれ
ニックネーム:コウ

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