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SEASON 2017 / 
vol.14

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Chinen,Kei

DF29 舞行龍 ジェームズ選手

There is no joy without affliction

テキスト/原田大輔 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Harada, Daisuke photo by Ohori,Suguru (Official)

幼い息子と愛する妻が寝静まったリビングで、舞行龍ジェームズはソファーに座ると感慨に耽った。
「夜になると、特にひとりでボーッと考えるんですよね。もう自分ひとりじゃないから、家族にも活躍しているところを見せたいじゃないですか。試合を見に行ったときもそう。チームが勝つことは、すごいうれしいけど、そこに自分が絡んでいないことが悔しいというか、もどかしいというか。帰りの車の中でもいろいろと考える。どうやったらまたピッチに戻れるのか。どうやったら試合に出られるレベルに、自分のプレーを持っていけるかを…… いいプレーをして、サポーターに恩返ししたい。自分を呼んでくれたオニさん(鬼木達監督)に恩返ししたい。何もできていないから……」

 舞行龍は今シーズン、川崎フロンターレに加入した。プロキャリアをスタートさせたアルビレックス新潟は、期限付き移籍していた期間も含めれば、9年間籍を置いたクラブである。離れるには、それなりの覚悟があった。大きな期待を抱くも、決して不安がなかったわけではない。それでも、彼はすべてを懸けて“ここ”にやってきた。

 だからこそ、手術に踏み切った右膝をひとり眺め、人生を振り返ったのだろう。まるで自分を奮い立たせる原点を探すかのように……。

 ニュージーランドのトコロアという小さな町で生まれた舞行龍は、物心がつくよりも前に、オークランドへと引っ越した。サモア人である母親の親戚はみな、ラグビーをやっていたというが、アイルランドの血が流れる父親の影響もあり、サッカーは子どものときから身近にあった。

「父親もサッカーをやっていて、ニュージーランドにはプロリーグがないので、セミプロみたいな形でプレーしていた。だから、父親が出ている試合をよく見に行きましたよね。公園に行って、一緒にボールを蹴ったりもしました。4歳くらいからは週1回だけど、サッカースクールにも通ってた。でも、当時、本格的にやっていたのはサッカーじゃなくて、水泳だったんです」

 日本とは異なり、ニュージーランドでは、季節によってやる競技が変わるため、サッカーだけでなく、クリケットや陸上も習っていたという。その中でも力を入れていたのが水泳だった。

「水泳はもう週9回(笑)。朝練もやっていたので、学校に行く前に、朝9時から泳いでた。それで学校が終わった後も2時間ほど、練習してましたからね。得意なのは平泳ぎ。でも、正直、水泳は全然、好きじゃなかった。むしろ地獄(笑)。友だちと一緒に泳げることが楽しかっただけで」

 それでも9歳のときには、水泳で国内3位の成績を収めたと言うからたいしたものである。

「性格的には負けず嫌いだったかもしれない。学校でもいろいろなことに負けたくなかったから、マラソン大会も1位だったし。でも、それ以上に親が怖かったんですよ(笑)。水泳でも、一番前を泳いでいないと、普通にプールサイドまで来て、めちゃくちゃ怒られましたからね。サッカーでも試合中に文句が聞こえてくるくらいだった(笑)」

 それまで週1回だったサッカーを本格的にやりだしたのは9歳のとき。母親の勤め先の近くにサッカースクールが新設され、勧められたのである。それが“WYNRS soccer academy”(以下ウィナーズ)だった。かつてジェフ市原でもプレーしたことのある、元ニュージーランド代表FWウィントン・ルーファー氏が立ち上げたスクールである。

「親はずっと水泳をやっていくものだと思っていただろうけど、自分からサッカーにのめり込んでいった。それまで週1でやっていたスクールは、ただボールを蹴って楽しむだけって感じで、ウィナーズに通うようになって、はじめてリフティングがあることも知った。そこで本格的にテクニックを教えてもらって、家に帰ってからも練習したりして。コーチが教えるのが、ホントにうまくて、そこでサッカーが楽しいということを教えてもらった」

 ブレーメンのリーグ優勝に貢献したルーファー氏のツテもあり、ウィナーズではドイツとフランスにも遠征したという。欧州のサッカーに触れた舞行龍が、サッカーに魅了されるのに時間は掛からなかった。

 ニュージーランドでは中高一貫のため、小学校を卒業すると、スクールであるウィナーズと並行して、セントピーターズカレッジのチームでもプレーした。そこでは12歳にして18歳と試合をしなければならず、体が小さかった当時の彼は戸惑ったという。「もともとは俊敏性を活かしたテクニシャンだった」と、舞行龍は笑う。

「身長が伸びたのは15歳のとき。それまでは学校でも前から2番目か3番目に小さかった」

 ただ、そのころからDFとしての素養はあったようだ。

「ボランチでプレーしていたんですけど、守備をして、ボールを奪って駆け上がっていた覚えがありますね。みんな子どもだから、誰も守備しないんですよ(笑)。でも、試合には負けたくないから、自分が守備をしてた。自分が得点するよりも、とにかく勝ちたかったんですよね」

DF29 舞行龍 ジェームズ

 体格差のせいで、最初は通用しなかった上級生たちにも、成長が追いつくと、負けなくなった。いつしか欧州に留学することを夢見るようになり、プロサッカー選手になりたいとの思いを抱くようになった。

「ウィナーズが立ち上がったときにサッカーを始めたから、同年代の選手があまりいなくて、自分よりうまい選手っていったら、弟くらいだったんですよね。だから12〜13歳のときから技術が伸びていないって感じていた。ウィナーズでは、ルーファーさんのツテで、1つ年下の選手がブレーメンに留学していたから、自分も行きたいと思っていたんだけど、なかなか声を掛けてもらえなくて。そうしていたときに、日本に行く話をもらったんです」

 のちに成立学園高校へと留学する舞行龍だが、初めての日本は、そこではなかった。やはりウィナーズでコーチをしていた宮澤浩氏の紹介で、15歳のときに、サンフレッチェ広島ユースに短期留学することになった。

「自分がどこまでできるか楽しみにしていた」と舞行龍は振り返る。ただ、待っていたのは、絶望にも近い、大きな挫折だった。

「すごいカルチャーショックを受けたんですよね。それもサッカーで。あまりに力の差がありすぎて、打ちのめされたんです。ちょうど行ったときのサンフレッチェ広島ユースは、前田俊介や柏木陽介、槙野智章といった一番うまい選手たちが揃っている時期で、全く自分の技術が通用しなかった。ニュージーランドでは自主練も含めて1時間半くらいやっていたのに、日本では3時間、4時間が当たり前。しかも練習の内容も質も違う。おまけに文化も違うから、2カ月間、ホームシックにもなったし、これだけサッカーで力の差が開いてしまっていたら、プロになるのはもう遅いんだなって思った。ニュージーランドに戻って、この差をどう縮めていくかを考えれば考えるほど、厳しいな、きついなって思いましたもん」

 小学生のころ、ウィナーズで欧州遠征に行ったときには、それほど感じなかった差は、わずか数年で、果てしなく広がってしまったように感じた。ニュージーランドに戻れば、スクールでも学校でも、自分がうまく思える。刺激のない毎日に、夢や希望はどんどん薄れていった。

「だから、練習にも実が入らなくなって、遊んだりするようになっていったんです。学校もずる休みするようになって、練習にも行かなくなりました。ちょうど思春期だったというのもあったと思う。反抗期だったんですよ。学校の先生から親に電話が来て、ずる休みしていたことがばれると、鞄に服をつめられて、『出て行け!』って怒鳴られました。こっちも思わず、カチンときて、家を出たんですよ。それで公園に行ったんだけど、暗くなったから戻って謝りましたけどね(笑)」

 成立学園高から留学の話が来たのは、ちょうどそのころだった。

「パンフレットを見たら、寮も綺麗だったし、グラウンドも充実していたからすごいなとは思いましたけど、めちゃめちゃ行きたくなかった。だから、最後まで一度も自分から行きたいとは言わなかった。マジで嫌だったんですよ。だから、めっちゃ泣いてましたもん。家族も集まってくれて、パーティーをやってくれたんですけど、そのときはもう覚悟を決めていたのに、それでも泣いてました。空港でも。ずっと泣いてましたね」

 親が半ば強引に留学を決めたのは、反抗期だった息子が手に負えなかったからでも、追い出そうとしたからでもない。その答えは、舞行龍自身が誰よりも分かっている。

「僕に後悔してほしくなかったんだと思うんですよね。サッカーにおいても、人生においても。だから、留学するときも、本当にダメだったら、3カ月で帰ってきていいって言われていた。日本に来てから、ほぼ毎日電話していて、3カ月経ったときには帰りたいって言ったんですけど、そのときは『もう3カ月がんばってみろ』って言われた。ようやく9月になって、会いに来てくれたときにはうれしかったのを覚えてますね。反抗期が終わったのは留学してすぐのころ。いろいろと自分でやらなければならなくなって、親に感謝の気持ちが芽生えました」

 ただ、「こんにちは」くらいしか日本語を覚えていなかったという舞行龍は、当然、日本の学校生活に戸惑った。

「朝5時半に起きて、朝食用にみんなの分のお米を炊くんですけど、炊き方も分からなかったですし、何より朝から米を食べる習慣もなかった。食文化も違えば、サッカーも土のグラウンドだったから、それが一番きつかった。なんせ土でやったことなんて、それまでなかったですからね」

 言葉が分からないことから、同級生やチームメイトにも、いじめられていると誤解していた。

「僕が部屋に入ってくると、みんなが笑っているんですよね。何を言っているか分からないけど、『マイケル』だけは聞き取れる。そのあと、笑っているから、自分のことをからかっているんだ、悪口を言っているんだって想像して、すごく暗くなっていた」

 寮の部屋で、布団を頭まですっぽりと被り、気づかれないように、泣いたことは一度や二度ではない。そんな舞行龍を救ってくれたのが、同部屋の久保征太郎くんだった。「今も誕生日には一番最初にメールを送ってきてくれる」という久保くんは、舞行龍の苦しみに気づいていたのだろう。

「本当にやさしくしてくれて。そのおかげで、みんなが僕をいじめてるのではなく、コミュニケーションを取ろうとしてくれているというのも知った。生活に慣れてきたのは、サッカー部でAチームに入ってからかな。サッカーがうまく回りはじめたことで、気持ち的にも余裕が持てるようになった」

 転機は2年生のとき。たまたま右SBが不在だったため、ボランチだった舞行龍が務めることになった。これがうまくはまり、レギュラーへと定着。右SBとしての活躍が認められ、高校3年の夏には、新潟からオファーが届いた。思い出に残っている試合を聞けば、高校最後の選手権予選決勝を挙げる。

 「自分が1年生のときは、全国大会に出場していたけど、その後は一度も出られなかった。だから、最後は絶対に全国に行こうって、みんなとも話していた。それなのに帝京高校との決勝で、前半9分に2枚目のイエローカードをもらって退場してしまったんです。責任を感じて、めっちゃ泣いていたら、ハーフタイムにみんなが、『絶対に勝つから!』って声を掛けてくれて。0-1から同点に追いついたんです。試合はPK戦になったんですけど、5番目のキッカーが決めれば勝ちという状況で、その人が外して、結果的に負けてしまって。当初、5番目のキッカーが自分だったんですよね。それでやっぱり責任を感じたし、退場したことも引きずって、新潟に行ってからも、しばらくは自信を失っていましたね」

 プロ1年目の2008年は、カップ戦も含めて公式戦の出場は一度もなかった。

「高校2〜3年生のときは充実していて、うまくなった感じはあったし、プロの練習に参加したときもやれている感覚はあったけど、いざ、本当にプロになってみると別世界。思い通りにいかなくて、余裕もなかった。今振り返ってみても、ただプロの世界に入っただけで、プロサッカー選手になったわけではなかったと思います」

 武者修行の旅にでも出るかのように、ここから舞行龍は、期限付き移籍で幾つものチームを渡り歩く。プロ2年目は今で言えば5部リーグに相当するJAPANサッカーカレッジでプレー。2010年と2011年はJFLを舞台にツエーゲン金沢で経験を積んだ。

「高校までSBだったけど、プロ1年目のときにCBをやったことがきっかけで、JAPANサッカーカレッジでもCBをやってほしいって言われた。金沢では右膝の半月板を損傷して、はじめて手術をしました。ただ、このときのチームには久保竜彦さん、山根巌さんら経験ある選手がたくさんいて、かわいがってもらったし、たくさんの刺激をもらいました」

 2012年は金沢と同じく、JFLだったV・ファーレン長崎に活躍の場を移した。

「金沢時代に長崎と対戦したとき、強いしうまいなって思ってたんですよね。それに長崎はJ2に昇格できる資格を持っていたことも大きかった。チームを昇格させることができるならばと思って、長崎に行ったんです」

 ここでもやはり出会いがあった。往年の川崎フロンターレサポーターならば、FC東京時代の彼に苦しめられた記憶も残っていることだろう。

「佐藤由紀彦さんですよね。プロの鏡のような人でした。当時36歳くらいだったと思いますが、練習も試合も一番がんばっていた。その姿を見て、若い自分はもっとやらなければって思った。本当にすごい人ですよ」

 奮起した舞行龍はボランチとセンターバックの両方でプレーし、31試合4得点と活躍。同時にJFL優勝とJ2昇格という達成感も味わった。2013年はいよいよJ2でプレーできる。希望に満ち溢れていた舞行龍だったが、シーズン当初に足の甲を骨折して出遅れると、ポジションを失った。

「練習に復帰したとき、ちょうどチームは11試合負けなしと好調で。なかなか出場するチャンスが得られなかった。それもあって、新潟に状況を連絡したら戻ってくるかって言ってもらえて。幸運にも、そのタイミングで日本国籍が取得できたことも大きかった。まるで奇跡のような話です」

 6月に日本国籍を取得すると、間もなくして移籍ウインドーが開く。チーム間の話し合いも成立し、舞行龍は4年半ぶりに新潟へと帰還した。

「純粋にうれしかったですよね。それ以上にびっくりしたのは、新潟に戻って最初の練習で、途中からレギュラーチームのCBに入ってやったんです。自分でも『えーっ!』って思いましたよ。そうしたら、いきなりヴァンフォーレ甲府戦でメンバー入りして、しかも残り20分のところで起用された。それが新潟で初の公式戦。対戦相手にはパトリックがいて、空中戦で5回くらい競り合って、全部勝ちました。そのイメージが監督の中に残っていたんでしょうね。次の鹿島アントラーズ戦からスタメンになった。ずっと試合に出ていなかったから、67分に足を吊って交代しちゃったんですけどね。あっ、自分にとっての新潟での初勝利は、フロンターレ戦だったかもしれない。その後もずっと試合に起用してもらって、最後の5試合は5連勝。この半年で、CBとしてもかなり自信がつきましたよね」

 そこから3年間、新潟の主力CBとしてプレーし、2016年には空中戦での勝率No.1と言われるまでになった。

「あまり意識していなかったので、うれしかったですよね。ただね……守るだけではなく、やっぱり試合に勝ちたかったんです」

 川崎フロンターレへの移籍を決めたのは、子どものときから変わらぬ童心であり、サッカーへの信念があった。

「理想を言えば、(中村)憲剛さんみたいにひとつのチームでずっとプレーしたかったのはある。新潟はすごく好きだったから、新潟に残ってチームを強くしていきたいという気持ちもあった。でも、やっぱり自分ひとりでは限界があると思ったし、勝つことを考えたら、本気でタイトルを狙うって考えたら、フロンターレでプレーしたいと思った」

 自分の理想でもあったパスサッカーを体現するチームは「まるで生き物」みたいだった。新潟なら、まず先発できていたポジションにも競争があった。

「CBには(谷口)彰悟、奈良(竜樹)、エドゥ(エドゥアルド)、イガさん(井川祐輔)もいて、(板倉)滉もできる。その中で勝負したいと思った。憲剛さん、(小林)悠さん、アキさん(家長昭博)と代表クラスの攻撃陣もいて、DFとしてもまだまだ伸びると思った」

 だから、AFCチャンピオンズリーグのグループステージで先発出場の機会を与えられた2試合は、チャンスを活かさなければと思っていた。ただ、少し前から違和感を感じていた膝は、限界に達していた。

「ちょっと前から痛かったんですけど、自分の中では我慢すればできるかなって思っていたんですよね。でも、検査してみたら、手術をしたほうがいいという話になった。自分自身も思い描いているプレーとはほど遠かったし、無理してやって迷惑を掛けるなら、ゼロからスタートしたほうがいいのかもしれないなって……」

 家に帰り、妻である和代さんと、時間の許す限り話し合った。

「奥さんに相談していたとき…… 思わず泣きましたね…… 泣いたのは昨年の12月以来かな。祖母が病気でほぼ動けない状態なんですけど、自分も弟も子どもが生まれたから、孫を見せにニュージーランドに帰ったんです。それで子どもを見せたときに、思わず泣いちゃいましたね。それ以来かなぁ」

 3月16日、舞行龍は右膝の手術を行った。それから長く苦しいリハビリに励み、今はボールを蹴れるまでに回復すると、全体練習にも合流している。雨の中、幼い子どもを抱き、舞行龍が出場する練習試合を眺めていた和代さんに話を聞けば、こう教えてくれた。

「何度も何度も話し合って、今、焦って無理してプレーするよりは、今年1年は治療に専念することになるかもしれないけど、しっかり治そうという話をしました。あんなに落ちこんだ彼の姿を見るのは初めてでした……私が聞いている限り、こんな長期間、サッカーから離れた経験は初めてだと思うんです。ましてや移籍してすぐのことで、子どもも生まれたばかりで、いろいろなことが彼の中で変わった1年だったと思います。でも、そばにいて感じるのはすごい強くなったというか、精神的にステップアップしたんじゃないかなって感じるんですよね」

 舞行龍に聞けば、照れながらも「奥さんに一番、迷惑を掛けた」と笑う。

「優勝したいとか、タイトルを取りたいとか、口では言えますけど、今はとにかく早くピッチに戻りたい。ただ、それだけです。きっと、自分が元気にプレーしている姿を見せられたら、サポーターも喜んでくれるんじゃないかなって思うんですよね。それと、今は息子も歩けるようになったし、抱っこして一緒にピッチに入場したいんですよね」

 間もなくシーズンは終わろうとしている。舞行龍の希望が叶うのは、来シーズンのことかもしれない。愛する妻であり、子どものころから見守ってきてくれた親が、彼に語りかけてきた言葉を、今一度、贈りたい。

「何かを乗り越えたら、必ず良いことが待っているんだよ」

 そして舞行龍は言う。

「いつも奥さんや親がそう言ってくれるんですよね。自分もその言葉を信じてやっていきたい」

 そう言った舞行龍の背中を見て、ソファーから立ち上がる彼の姿を想像した。

profile
[まいける・じぇーむず]

新潟から完全移籍で新加入。ニュージーランド出身の屈強なDF。高校進学をきっかけに来日し、地域リーグ、JFL、J2といったカテゴリーのクラブでプレーしながら着実に力をつけ、ニュージーランド代表にも選出された。

1988年9月17日
ニュージーランド、オークランド市生まれ
ニックネーム:MJ

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