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  • ピックアッププレイヤー 2018-vol.03 / MF25 / 守田 英正選手

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Step by Step

守田英正選手

Step by Step

テキスト/林 遼平(from エルゴラッソ) 写真:大堀 優(オフィシャル)
text by Hayashi,Ryohei photo by Ohori,Suguru (Official)

 ファーストインパクトは強烈だった。流通経済大学から新たに川崎フロンターレに加入し、初めてのキャンプに臨んでいた守田英正は、田坂祐介が公式ツイッターで行った同部屋紹介の写真に登場。お笑い芸人アキラ100%の芸を真似て“全裸にお盆”姿を披露し、「守田100%」という体を張った自己紹介をしたことが大きな話題を呼んだのである。

「あの影響は少なからずあって、その影響の大きさに自分自身が一番驚きました(笑)。サポーターの人にもあのことで話しかけてもらえるので、ありがたいです」。

 一気にサポーターの心を鷲掴みにした守田だが、普段からそういうキャラだったのかと聞くと苦笑いを浮かべながら頭を振る。

「(大学のメンバーからすると)『いや、お前がアレやるか』みたいな感じですよ。大学の時はちょっと立場を確立していたところもあったので、流石に自分の手を汚すようなことはしなかったです(笑)。あの後、大学の祝勝会のようなものに行った時は、後輩や同期から驚かれました」。

 大阪府の高槻市で生まれた守田は、5つ年上の兄の影響で幼稚園の頃にサッカーを始めた。「もともとはテニス一家だった」と言うように、両親と姉がやっていたこともあってテニスという選択肢もあったのだが、いつの間にか“打つ”ことから“蹴る”ことが好きになっていたという。

「兄がいたので毎日ずっとボールを蹴っていました。5個上だったので僕は練習相手みたいなものですけど、自分もサッカーが大好きだったので楽しかった。今でも兄とはめちゃくちゃ仲良いんですよ」

 そんな守田の少年時代は「サッカーはもちろん真剣にやっていたけど、結構遊ぶことも好きだった」と振り返るように、割とやんちゃな少年だったようだ。

「チャラチャラしていましたね(笑)。はしゃいだり、人目を気にせず迷惑かけることをしたりして、しょっちゅう怒られていました。両親に怒られても関係なくやっていましたけど、いま考えると迷惑かけたなぁという感じです(苦笑)」

 そんなやんちゃな少年を支えていたのが、サッカーだった。地元の高槻清水FCに加入し、今のポジションと同じボランチでプレーすると、現在とは違い攻撃的なプレーを前面に出すことで、水を得た魚のようにピッチを駆け回っていた。プロを目指したきっかけも小学生時代だったという。

「サッカー選手以外、何もわからなかったんですよね。逆に、何かあるのかなと。直感みたいな感じです。サッカー以上のものが出てこないだろうなと思いました。素直に楽しかったですから」

 中学は高槻市立第九中学校に進学した。昔から好きだったガンバ大阪のジュニアユースの試験は受けたが、結果は不合格。クラブチームに入りたいという考えは、これで一切なくなった。そして選んだのが、仲の良い兄がプレーしていた中学だった。

「全国区ではないけど、大阪では中体連の中で強い感じがる中学校でした。でも、何よりもそこの先生、顧問ですね。サッカーのことをすごく知っているわけではないけど、すごく情熱的で、サッカーに対して本気になれる人だった。自分の兄もその人に教えてもらっていたので、その人の下に行きたいなと思ったんです」

「一番サッカーに打ち込んでいた」と振り返るように、中学時代はサッカーだけに没頭した。毎日朝練があったり、練習試合で負ければ夜まで練習したりするような厳しい環境ではあったが、きついからといって辞めようという考えには至らなかった。その背景には顧問の存在が大きかったと、守田は振り返っている。

「弱音を吐く人がいなかったというか、それだけ付いて行こうと思える顧問でした。厳しいけど、その熱さに惹かれるものがあった。コミュニケーションも取ってくれるし、アフターケアや練習以外のところで寄り添ってくれたり、悩みを聞いてくれたり、サッカー以外のところで勉強会を開いてくれたり。そういうところもちゃんとやってくれた。ピッチの中では厳しいという感じですけど、それ以外の時はそうではなかったんですよね」

 ただ、中学で充実の日々を送った影響で、一転して進学した金光大阪高校では難しい時間を過ごすことになる。守田は当時の思いを正直に証言する。

「中学に3年間没頭し過ぎたこともあって、例えばちょっと朝練はキツいなと思い始めるようなことがあった。金光は家が近くて、ある程度強くて、自分の中学の1個上の10番でキャプテンをやっていた選手が行った高校だったし、プラス朝練がないというのがあって、そういうのが少しずつ積み重なって金光にしようかなと思ったんです。どこに行くかというより行ったところで全国に出ればいいやと強気で思っていました。まぁ行けなかったんですけど(笑)」

MF25 / 守田 英正選手

 高校では初めて壁にぶつかった。高校1年生の頃から少しずつ試合には出るようになっていたが、結果的に3年間で全国大会出場はゼロ。ベスト4が限界という状況に、プロになるという小学生時代からの夢に対して気持ちが揺らいだ。

「3年間通してプロってどれだけ遠い存在なんやろなと思いました。やっぱり全国に出られないというので、まず他の人に知ってもらえない。だいたい高校選抜やアンダーカテゴリーの代表などは、そういうところに出て、優勝を争って初めて呼ばれるもんじゃないですか。自分たちは大阪をかける争いもできないぐらいの高校だったので、かなり厳しいなと思いました。国体もほぼガンバとセレッソのユースで固められているチームだったので、やっぱり無理なのかなって思いましたね」

 当時のガンバ大阪ユースには現徳島の内田裕斗、セレッソ大阪ユースには現山口の丸岡満や関西学院大を経て今季からセレッソ大阪に戻った魚里直哉らが所属しており、彼らのレベルの高さには「やばかった」と言葉が漏れる。ただ、そこまで彼らに対してネガティブになるようなことはなかった。なぜなら「こいつらに勝てないレベルではプロは無理だと思っていたから」だ。

 それでも守田自身、プロに行くことを無理だと思ったことは一度も無いという。そこに絶対的な自信があったわけではない。ただ、諦めるという選択肢もなかった。

「無理だと思ったことはないんですよね。いつかやっていればたどり着くかなと思っていて、プロになれないなというのはなかった。難しいなと思うことはあっても無理だとは思わなかった。それが何でかはわからない。親にもずっとなれると言っていて、親は割と自分よりも現実的で『そんなんじゃ無理、無理』と言ってくるけど、『うるさいなー』と思ってました(笑)。絶対見返してやろうと思っていましたね」

 昔から守田は割と現実的に物事を捉える癖があったという。もちろん「あくまでも負けず嫌いなので、裏ではめちゃくちゃ練習するタイプだった」ようだが、いろいろなことを現実的に考えることで自分の道を決めてきた。

 その分かりやすい答えが流通経済大学を選んだ理由だ。「プロになるなら、ちゃんと名の売れたプロを輩出するような伝統のある大学に行かないといけないと思った」という言葉には、まさに現実的にプロへの行き方を模索する守田の考えが透けて見える。

 ただ、流通経済大学を選んだ理由は、それだけではなかった。高校2年生の時に対峙した流通経済大付属柏高校のインパクトが大きかったことも影響している。

「高校2年の時に流経大柏と試合をしたんですけど、これちょっとやばいなというふうに衝撃を受けたんです。強すぎるわと。もう勝手に自分の中でライバルにしたんですよね(笑)。全国でやるのもこいつらと試合をしたいと勝手に思っていました。そのメンバーだった青木亮太(現名古屋)と小泉慶(現柏)の二人はプロに行ったんですけど、その他は全員大学に上がるという話を聞いたので、もうこのメンバーとやりたいなと思いました」

 守田にとっては新たな挑戦だった。サッカー推薦をもらったわけではなく、セレクションを1から受けて入学。大阪を離れて、新たな土地に飛び込むのも初めてだった。

 流通経済大学に入学してからは「サッカーが楽しくて仕方がなかった」。自分よりはるかに上手い選手がいっぱいいる環境下に身を置いたことで、もし芯がブレているようならば周りに付いていけない可能性もあっただろう。ただ、守田はそうではなかった。そういった環境に刺激を受け、自分のパワーに変えることを得意としていた。

「正直、周りに腐っていく選手が山ほどいて、そういう選手を目の前で見ているからこそ、負けないぞという気持ちでしたね。大学は“サッカー”って感じです。高校の時にぐっと落ちたので、自分の気持ちが落ちた分、大学ではもう後がなかった。大学で結果を残せなかったらプロは絶対無理なので、そういった緊張感や危機感もあったと思います。本当に“本気”という感じでした」

 しかし、流通経済大学で1年生の時から順風満帆なサッカー生活を送っていたのかというと、そうではない。「1年の全日本大学サッカー選手権からトップチームに上がったけど、出ていると言えるのは3年からだった」と振り返るように、なかなかチャンスを掴めない時期もあった。だからこそ2年時は「出られないことがわかっていたので、体をでかくすることを考えた」と、1年間の多くを筋トレの時間に費やしている。

 転機となったのは、自身のボランチ像を変えたことだった。小学校時代からずっとボランチでプレーしてきた守田だが、それまでは「本当に攻撃ばかりの選手でした。全体を動かす、人を動かす、自分は手を汚さないという感覚でやっていた」ようで、周りを動かせることがボランチの魅力だったと証言している。

 ただ、大学ではそれが通用しなかった。攻撃面で決定的な仕事ができなければ、守備面での貢献度も低い。試合に出るためには超えなければいけない高い壁がいくつもそびえ立っていた。

 そこで守田は自分の意思で思考を変えることにした。大学が守備に重きを置くチームだったことも手伝って、攻撃ではなく、守備に針を大きく振ることを決断したのである。

「攻撃面でスタッフから言われていたことは、お前はラストパスも出せないし、シュートも打てないし、決定的な仕事が本当できないよねと。自分でもそれはずっと課題だったんですよね。それは中学、高校も一緒。練習しても上手くならなかったのが現状で、正直ボランチは無理かなと思う時もありました。それができないボランチなんていないじゃないですか。じゃあオレがボランチで売っていくためにはと考えた時に、完全な潰し屋というか、ボールは配給できるけど、ラストパスの一個前。奪ってからの一個目のパスだったらボランチとして成り立つのではないかと思って、もっと今より守備できないと、そういうふうなキャラは確立できないなと思いました。それを考え始めてから守備に特化したというか、そういう選手で自分を売っていこうという感じになりました」

 すると、その効果は着実にピッチへと現れていった。「自分でもどのタイミングで出来るようになったかはわからない」と語るものの、気が付いた時には「ボールを奪えることがどんどん楽しくなっていた」。攻撃型ボランチから守備型ボランチに進化を遂げた守田は、大学で自身の地位を確立していったのである。

 そしてもう一つ、大学サッカーを振り返る上で守田にとって忘れない人物がいる。それが流通経済大学の中野雄二監督だ。影響を受けた指導者として名前を挙げる中野監督には「人としての考え方、あるべき姿を学んだ」と語っている。

「2年の頃から毎日のように怒鳴られまくっていましたね。ただ、今だから思いますけど、それぐらいのキャパがあるというか、そういう人としての厚みがあるからみたいな感じに言われたことがあって、そういうのも受け入れられるようにならないといけないなと思ったんです。だから一回も文句を言ったことがないんです。それは監督にすごいと言われます。今でも後輩などにそういう話(守田は文句を一つも言わなかったこと)をするらしいんですよ。そこから何か良い方向にいくようになりました」

 こうして大学No.1ボランチとして成長を遂げていった守田は、大学4年生時に全日本大学サッカー選手権に優勝。大会最優秀選手賞を獲得するまでに至ったのである。

 そんな守田は、いつしかプロのクラブから声を掛けられるようになっていた。目指していた夢の舞台。いくつかのオファーを受け、悩み抜いた末に守田は最終的に川崎フロンターレを選んだ。その理由は明確だ。

「ボランチが基本ですけど、大学ではSBなどで出されることも多かったんです。最終学年になってからはCBで出るべき選手が調子上がらずに、自分がCBに入ってということもあってSBとCBの両方を経験しました。そういうことを含めて、他のポジションをこなせるというのが自分の強みだと思っていたので、そういうところをフロンターレは理解してくれてすごく嬉しかったですね」

 もちろん本人としては「ボランチ一本で勝負していきたいという気持ちは自分の中にある」というのだが、それは今ではなく先の話で、あくまで現実的な守田は、今はそれよりも大事なことがあると考えている。

「長谷部(誠)選手や今野(泰幸)選手などは、どこでもできるじゃないですか。誰かが怪我をした時にポッと入っても何不自由なくできてしまうという選手になりたかったんですよね。そういうところを踏まえて、フロンターレは理解してくれたと思います」

 川崎フロンターレに加入後、ここまでは大卒新人として順調な歩みを進めていると言っていいだろう。開幕前のキャンプで結果を残すと、FUJI XEROX SUPER CUPにはいきなり途中出場。公式戦初戦でプロデビューがやってきた。

「ちょっとビックリしました。出る準備はしていたので、出るとなった時は別にミスしてもいいから何かできることをやろうと思っていました。途中から出る時は走ることや勢いが大事なのでそういうところを意識しましたし、ちょっとしたアクセントにはなったかなと思います」

 しかし、やはりプロの世界は簡単ではないということを痛感する出来事もあった。それはAFCチャンピオンズリーグ第2節、アウェイでの蔚山現代戦のことだ。

 この日、初めて先発出場の機会を得た守田は、前半から精力的なプレーを披露していた。だが、問題の場面は42分に起きる。後方からボールを持ち出そうとしたところでボールを奪われると、そこから繋がれて失点。チームも結果的に1-2で敗れてしまった。

「期待を裏切ったなというのが一番でした。自分の何でもないようなミスで失点して、それで試合を壊してしまった。あれは二度とあってはいけないというか、もう自分にすごく反省しましたね。学生だった時は、ああいうのではなかなか点が入らないんですよ。失い方が悪くても一発のチャンスをものにしないから。でも、プロなのでああいうミスをすると決められる。それはこういう世界なんだというふうに思いましたし、簡単じゃないなと思いましたね」

 それからは一つひとつのプレーに責任を持って取り組むようになり、徐々に自分の中でも手応えを得始めていると言う守田。もちろん技術面等、まだまだな部分も多いことを付け加えるが、ここまでは想像以上の働きができていると言っていいだろう。

「僕は周りができることができなくて、周りができないことをできると思っているんです。それこそつなぎの部分などは周りの選手に比べれば劣りますけど、それでもみんなが疲れてきた時間帯に個人で奪って、もう一回攻撃につなげたり、人一倍走ったりするようなプレイヤーになりたい。自分はそういうところでチームに貢献したいと思っています」

 出番を得ている状況もあって、守田の中で今季の目標は大きく変化を遂げた。「最初はA契約を勝ち取ることだった」ようだが、今では「ボランチでスタメンを取る」ことを掲げているのだという。

 ただ、それ以上にまずはしっかり試合に絡むことでチームの一員として戦っていくことが大事だと強い言葉を残している。

「1年目だからという言い訳は自分の中ではしたくないんですよね。もっともっと試合に絡んで行かないといけないと思っています。(谷口)彰悟さんや(車屋)紳太郎くんなどは1年目からバンバン試合に出て、今はああいう立場にいる。自分もそういう姿を描いてここに来たというのもあるので、いいお手本がいますし、そういうところを目指しつつ頑張りたいです」

 あくまで現実的な思考の元で、目の前の目標を一つずつ作りながら、それを超えては新たな目標を作るというルーティンを続けていた守田。そのルーティンは、プロの世界に入っても変わることはない。

「これまでも一個一個という感じでやってきました。あまり高望みはしない。高い目標も設定はしますけど、とりあえずまずは目の前という感じです。それがいいことなのかはわからないですけど、明確な目標がなくてブレてしまう時期もあったりしたので。そういう思考は続けていきたいと思います」

 周りの声や環境に惑わされず、ただまっすぐ前に突き進んできた。その末にプロサッカー選手という夢の舞台にたどり着いたのである。

 だが、ここは終着点ではない。新たな冒険はまだ始まったばかり。一歩一歩、これからも未来に向かって、前だけを見て走り続ける。

profile
[もりた・ひでまさ]

流通経済大学からフロンターレに新加入。ボランチを主戦場とするが、複数のポジションをこなせる守備のスペシャリスト。大学4年生時ユニバーシアード代表。全日本大学選手権では主将として優勝を果たし、大会MVPに選出された。セカンドボールへの反応が鋭く、球際の強さはすぐにでも通用するレベル。複数のクラブが獲得に乗り出すなど、その潜在能力は高い評価を受ける。

1995年5月10日、大阪府高槻市生まれ
ニックネーム:ヒデ

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