モバイルフロンターレ

OB'sコラム

鬼さんと一緒

2008 / file01

忘れられない日

鬼木 達
Oniki,Toru

市立船橋高校を卒業後、鹿島アントラーズに加入。1998年、当日JFLに所属していた川崎フロンターレに期限付き移籍。わずか1年で鹿島に戻るも、在籍中、サポーターから「川崎の宝」とまで呼ばれ愛された男は待望の復活。以来、無尽蔵のスタミナでピッチを走り回り、キャプテンとしてチームを強烈に引っ張る。現在、フロンターレ育成普及コーチとしてピッチを走り回る。
1974年4月20日生まれ、千葉県船橋市出身。

2008年1月22日は、僕にとって一生忘れることのできない日となった。指導者として約一年、一番多くの時間をともにしてきたフロンターレジュニアチームとの別れの日となったからだ。

今年の2月からユースのコーチ就任が決定していたため、この日が最後のトレーニングとなった。子供たちにはトレーニングの前に今日で最後だと伝えた。しかしトレーニングはいつものように始まり、いつものように終わった。トレーニング後の最後のあいさつでは、いろいろな事を話したかったが外は寒くて、風邪でも引かれてはと思い自分の気持ちの半分も言えないまま終わった。あっけなかった。

楽しいことも、辛いことも、いつも一緒だったから本当に離れるのが辛かった。しかし子供たちはいつも通りで、僕の中で自分の気持ちは伝わっていなかったのかなと、少し寂しさも感じた。

そしていよいよ帰るという時、数人の子供たちに手を引かれ事務所に連れて行かれて、「後ろを向いていて」と言われた。そして「いいよ」と声がかかり振り向くと、ジュニアの子供たちが全員集合していた。花束を渡され、一人の子供が作文を読んでくれた。読んだら泣くから読みたくないと言っていたが、せっかくだから読んでほしいとお願いした。そして泣きながら最後まで読んでくれた。みんなも泣きはじめ、僕は必死でこらえたが目は潤んでいたと思う。

 一昨年の引退セレモニーで泣いたときに、この先もう自分のことで泣くことはないと思っていたからすごく意外だった。

そして指導者になってはじめて出会ったのが彼らであったことを心から感謝したいと思います。夢や希望を与えようと一年間必死で接してきたが、その全てをもらったのは僕の方でした。夢も希望もそして勇気ももらいました。どんな時も本気で向き合うことで想いは届くと信じることができました。指導者としてどうして行けば良いかを教えてくれたのは子供たちでした。ユースへ行っても気持ちを大事に、ありのままの自分でやっていこうと決心させてくれました。そして彼らからの最後の言葉で、「ユースで待っていてね」と言ってきたのが最高にうれしかった。

僕は指導者というのは、子供に何かを与えるものだと思っていたが実際には違った。子供から受け取るものの方が大きく多かった。

昨年一年は僕にとって、とても貴重だったと思う。
この経験をユースへ行って活かしたいと思います。育成という枠の中でユースは子供たちの目標にあります。ですから、ユースをプライドを持った戦う集団にしていければと思っています。

そして2008年は子供たちに負けないくらいのパワーを持って臨みたいと思います。

2008年02月15日 鬼木 達

>ページのトップへ