Tatsuru'sチェック!
2004 / file04
教わるのではなく学べ!
向島 建
Mukojima,Tatsuru
1966年1月9日静岡県生まれ。静岡学園高-国士館大-東芝を経て1992年清水エスパルス入団。1993年Jリーグオールスター戦出場。1997年川崎フロンターレへ移籍。以来2001年の引退まで要衝としてチームを支える。2002年から川崎フロンターレフロントスタッフ。2003年にはフットサル日本代表候補に選出。「SUKISUKI!フロンターレ(iTSCOM)」やサッカースクール・サッカー教室・講演・フットサル解説など川崎のサッカー伝道師として多方面で活躍中。
現役生活を終えてよく聞かれることがある。「なぜJリーガーになれたんですか?小柄なのに凄いですね~」と・・・。
私がJリーグでプレーしていたとき、それほど体格を気にしたことはなかった。勿論小柄だったことは自覚していたが、ボールは地面にあることの方がはるかに多いし、そんなことより、ドリブルで大きい相手を交わすことや味方が私を生かしてくれたり、逆に私が味方を生かしたりすること、自分のゴールでチームメートやサポーターが喜んでくれること、チームの勝利のために自分が貢献することに喜びやサッカーの楽しさを感じていた。なぜJリーガーになれたのかは、いろんな要素があり、簡単には言い表せない。しかし、あえて自分なりにポイントとしてあげるならば、まず一つ目には『どんなことよりもサッカーが好きだったから!』。これは基本的なことだが、小さい頃からボールを夢中で追いかけ蹴り続けることで、上手になりたいという気持ちが芽生える。上手になりたいからトレーニングをする。上手になりたいから厳しいトレーニングにも耐えられ、人のアドバイスにも耳を傾けることができる。耐えられることで乗り越えることができ精神的にも身体的にも強くなり成長する。プロというサッカーが仕事になってからでも、当然サッカーが好きな気持ちは変わらない。仕事はやっぱり楽しくなければ続かないし、やる気も出ないし向上しない、当然、成長もできない。楽しくて夢中になって、生活の中心になったのがサッカーだった。けっして楽(らく)をしたい、楽(らく)をしてきたわけではなく、楽(たの)しんできたのだ。
二つ目に『自分自身を知っていた!』。小さいながらも性格を含め、サッカー選手としての長所・短所を知っていた。知っていただけではなく、直ぐに行動に移すことができた。自分のいいところは伸ばそう、足りないところは補おうと、直ぐにトレーニングに入ること、例えばスタミナが無いと気づいたときには、「明日からランニングを始めよう!」は普通だが、「今夜からランニングを始めよう!」と、直ぐにトレーニングを始める強い意志が小学生の高学年時にはすでにあった。三つ目には『いろんな人の支えがあってプレーすることができた!』。選手はピッチの上に乗っているだけの状態にすぎない。例えば、サッカーをやりたいとき、スパイクやウェアーは両親から買い与えてもらうなど、家族の協力がある。サッカーを教えてくれる指導者もいる。チームメートもいて相手もいて始めて試合ができる。ピッチなどその場所を提供してくれる人や管理している人もいる。プロになってもチームのスタッフやサポーターの支えがあって選手としてプレーできる。だから選手がやらなければいけないことは、グラウンドで一生懸命プレーすることだ!一人では絶対にJリーガーにはなれない。
サッカーという専門のスポーツにおいて指導者の影響力は大きい。特に私は静岡学園高校で井田勝通監督に出会わなかったら、Jリーガーにはなれなかっただろう!私はサッカーというスポーツを続けていくことで、他の選手たちと体格の差を痛烈に感じたのは中学時代でした。個人差はあるが、身体的に成長著しい時期でもあり、ボールも小学生のとき使用していた4号球から5号球に変わり、当然、身体に負担がかかる。そして、これまで選手として順調に駆け上ってきた矢先のケガで、3年時は、ほとんどプレーした記憶はない。試合に出場していないことで、当然スカウトの目には留まらない、中学の先生からは藤枝の高校を進められたが、この中学時代を不完全燃焼で終えたことに、上手になりたいという気持ちをますます強くさせた。自分のサッカーがしたい!体格の差を感じていた私にとって技術を身につけることで、大きな選手と対等に戦えるはずだと思った。自分のサッカースタイルを求めて挑戦したい。上手くなるためには藤枝の高校ではなく当時、全国高校選手権大会などで高い個人技のサッカーで旋風を巻き起こしていた井田勝通監督の静岡学園高校だと即座に思い、周囲の反対を押し切り受験し、静岡学園高校サッカー部に入部することができた。井田監督は厳しいことで有名だったが、入学前の春合宿に参加したとき、その厳しさを既に味わうことになる。深夜12時過ぎ、ハードな練習の疲れで、みんなが寝静まっているとき、新一年生だけが起こされ、体育館に集合させられた。個人技で有名なこともあり、一人ボール一個用意し、ボールリフティングやボールリフトのトレーニングが永遠と続いた。深夜に起こされるだけでも普通ではないのだが、トレーニングがこんな時間から始まるとは新一年生の誰もが予想していなかった出来事だった。ここは普通じゃないところ、サッカーが本当に上手になりたい奴が来るところで、ボールリフティングなどのボールコントロールはサッカー選手にとって一番重要な基本的な技術なんだということを身を持って感じさせられた瞬間だった。井田監督は妥協することなく厳しかったが、サッカーにかける情熱は人一倍強く、それは選手たちに直ぐに伝わってきた。入部して一番最初に言われたことは、お前たちは『教わるのではなく学べ!』だった。たえず言われてきたことですが、教わるということと、学ぶという態度では大違いで、学ぶという態度では「積極的に学ぶ・研究する」という意味が表され、これは姿勢が違うのです。学ぶことは創造的なもので、その姿勢からサッカーに大切な「ヒラメキや洞察力」が生まれるという。これはほかのどのようなことにも言えると思いますが、主体性をもって練習に当たる。つまり、自ら進んで技術なり戦術なりを学ぼうとする姿勢が大切だということです。教えられているだけでは、何も生まれないんだということを、いつも選手たちに伝えていた。リフティングなどの基礎的な技術というのは、積極的に学ぼうと思えば、いくらでも学ぶべきお手本が上級生にいます。自分がやる気になれば、やるべきことは多いし、できるようになることはいくらでもあるわけです。学ぼうという意識を持つためには、自分に足りない部分を客観的に見抜く力と、それを補おうという強い意志が必要です。それがあって始めて実になっていくものでしょう。井田監督の指導は選手の個を生かすこと。自分に足りないものを補っていくという点でも、手の届かない、ないものねだりではありませんでした。つまり私の場合だと、スピードだけに頼るのではなく、それをより生かすために、ドリブルなどの技術を磨くことで、プレーの幅を広げることをめざしました。つきつめてゆけば、チームは個人の集合体。個々の技術をチームに生かすためには、自己のレベルアップが条件です。これがチーム力を高めることにつながります。自分自身の個性をいかにチームの中で発揮していくかは、サッカーを続ける選手にとって永遠の目標です。再び新たなチームのなかで自分の存在場所を築いていこうとするとき、この高校時代に身につけた個人技は、絶えず自分の自信となり、プレーの土台となっていきました。自分が自分を信頼できるだけの技術があってはじめて、個性を生かし、自己の目指すサッカーをすることができるのです。
静岡学園高校の練習の雰囲気は、選手たちが普段からあたりまえのように、積極的に取り組む姿勢ができ、個人技の高い選手が生まれている。
井田監督は、その場かぎりの結果や、なりふりかまわず勝利だけを目指すのではなく、あくまでも個人を育てることが将来の日本のサッカーに重要なことだと考えている。サッカーは年々変化しているが、井田監督のスタイルは今も変わらない。
フロンターレユースチームの選手たちも、日々努力しているはずだ。この3年間がとても大切で、やるべきことはたくさんあり努力次第ではトップにつながる選手が生まれる。フロンターレ下部組織から一人でも多く、Jリーガーとして活躍できる選手が育つよう期待している。
2004年03月17日 向島 建