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2004 / file08

サポーターの存在

向島 建
Mukojima,Tatsuru

1966年1月9日静岡県生まれ。静岡学園高-国士館大-東芝を経て1992年清水エスパルス入団。1993年Jリーグオールスター戦出場。1997年川崎フロンターレへ移籍。以来2001年の引退まで要衝としてチームを支える。2002年から川崎フロンターレフロントスタッフ。2003年にはフットサル日本代表候補に選出。「SUKISUKI!フロンターレ(iTSCOM)」やサッカースクール・サッカー教室・講演・フットサル解説など川崎のサッカー伝道師として多方面で活躍中。

1992年4月、私は東芝サッカー部から清水エスパルスに移籍、プロの世界に飛び込んでいくことになった。外国人を含めた6名のプロ選手しかいなかったアマチュアのチームから監督・コーチ・選手、全てがプロの集団であり、逃げ道はなく、もう言い訳はできない。全てが同じ条件で、本気で戦える環境に身を置き、チーム内のポジション争いに負ければチームを去ることにも繋がる。監督やコーチもいい成績を残せなければ職を失うこともあるため、みんな必死だ。そんな危機感をつのらせながらも、レギュラー獲得に向け、充実した毎日を過ごし、まったく予想もできない来年開幕のJリーグの舞台に向かって走りだしていた。

 サッカー選手が試合をするために欠かせない人達はたくさんいる。監督やコーチングスタッフ・審判員・会場の運営に携わる方々など数え切れない程いるが、その中でも忘れてはならないのが観客でありサポーターの存在である。サポーターは、よく12番目の選手とまで言われ、フロンターレでは背番号12がサポーター番号になるくらいチームの一員的な役割を果たし、選手にとって重要な存在にあたる。
私が現役時代、向島建後援会をはじめ、多くの方々に応援し支えていただいたお陰で、Jリーガーとして長く現役を続けることができた。中でも競技場のゴール裏で個人応援団として活躍していただいたタツルサポートクラブの存在は心強く、いつでも私に大きな力を与えてくれた。

Jリーグ発足当時、清水エスパルスのサポーターをつくるために、当時運営に携わることになった筆頭株主のテレビ静岡と小谷泰介氏(サッカープロデューサー)が立ち上がった。エスパルスが誕生し大阪での初プレシーズンマッチに、応援バスツアーで駆けつけてくれたファンに対して「ゴール裏でフラッグを振って一緒に応援しよう!」と呼びかけた。小谷氏は海外のサッカー事情に詳しく、サッカーの応援の仕方やフラッグの掲げかたなど、自ら進んで指南役になった。そして、納谷聖司氏(三浦ヤス・カズの伯父さん)はブラジルと深く親交があったため、プロのサンバ隊6名を半年間清水に送り込み、日本人にサンバの基本をマスターさせることが目的だった。エスパルスは監督・コーチ・選手などブラジル人が多く在籍していたことからブラジル色が強かったため、サンバのリズムでの応援が一番マッチしていた。最初は30人余りだったサポーターもゴール裏のサンバ隊の明るさや応援の楽しさが伝わったのか、「俺もやりたい!」と見る見るうちに増えていった。その頃、エスパルスのレギュラークラスのほとんどの選手が地元静岡県出身ということもあり、身内や同級生が働きかけ、個人応援団が出来ていった。私の応援団はタツルサポートクラブ『TATSURU SAPPORT CLUB』といい、地元、藤枝市の青島サッカー少年団の先輩でもある滝田隆雄氏が代表を務めた。1992年に草薙競技場で『向島』という旗を振って応援していたのを見て、周りの多くの方々が一緒に応援したいと集まってきたそうだ。Jリーグ人気で盛り上がっていたときには、登録していた会員数だけでも数百人にのぼった。当時のエスパルス応援団の中でも中心的な存在であった。私が川崎フロンターレに移籍してからも、等々力にまで応援に駆けつけてくれた。そして2001年12月29日神戸での現役最後の試合となった清水エスパルス戦まで10年間 『向島建』 『走れ牛若丸』 『TATSURU』 『GET GOAL TATSURU』 の横断幕を競技場に掲げ声援を送ってくれた。応援を通じてサポートクラブ内でも多くの人が結ばれるなど、おめでたい出来事も多く結束は固かったようだ。
 そして、納谷氏が代表を務めるエスパルスの私設応援団シャペウ・ラランジャ(オレンジの帽子)に各個人応援団が連合として集結し、一体となり、まとまったエスパルスの応援が出来上がった。そのサポーター全体の指揮をとっていたのが静岡学園高校時代のクラスメートの中山喜仁くんだ。彼は高校時代、応援団として活躍、その頃から選手と応援団の間柄でプライベートでも気の合った仲間だった。私が東芝サッカー部でプレーしていたときから応援に駆けつけ、清水エスパルスに入団することが決まった時には、心から喜んでくれた。忙しかった私に代わって住まいまでも探してくれたいい奴だ。彼は当初、私の後援会を作ろうと企んでいたが、テレビで私設応援団を募集しているのを見て「どうせなら全員応援した方が面白い!」と思いテレビ静岡に出向いた。一人々自己紹介していく中で、私と同級生という話をしたことから「そういうことなら団長は中山さんにやってもらいましょう」と小谷氏から任命され、彼の道は決まってしまった。
 そんな彼は責任感が強く、エスパルスの応援団長としてホームゲームは勿論、日本中を駆け巡る生活で仕事までをも転職せざるをえない状況に追い込まれ、波乱万丈の一年を送った。そんな中山くんが試合中に指揮をとっているとき一番信頼していたのが、バンド経験があったサンバ隊の岩瀬弘通氏(サザンオールスターズの野沢さんの親友)だ。

 Jリーグが開幕してから、エスパルスの大応援団が見守る中、選手たちは必死でプレーし素晴らしい結果を残し、見ていて楽しい攻撃的サッカーを展開した。それは、ただたんに監督や選手の能力が高かっただけでなく、戦術がよかっただけでもない。オレンジ色の大応援団の力が影響していた。試合中、エスパルスの選手が相手ボールを奪い攻撃にかかったとき、エスパルス得意の流れるようなサッカーを展開できるようサンバ隊のテンポのいいリズムが選手たちを乗せてくれる。逆に相手ボールになったときはスローサンバに切り替わり相手の攻撃をゆっくりさせてくれる。選手も応援団も一体になり「今は攻撃!守備!」と試合の中に入っている。ピッチ外にボールが出るか、セットプレーになって試合が止まる以外はリズムが続く。ボールが動いている間は一回々そのリズムが途切れることはほとんどない。「サッカーは流れだから!いつでもリズムがある。試合が途切れるまでリズムは続ける!」それが中山くんたちの考えであり、その指揮をとる中山くんの合図で岩瀬さんがサンバを叩く、時には岩瀬さんの研ぎ澄まされた感覚からの判断でテンポが変わる。彼らの信頼関係が当時のエスパルスの大応援団を動かし、選手たちを気持ちよくプレーさせてくれていた。私自身もその応援とリズムは耳に響き、身体で十分感じていた。試合を重ねるごとに、サンバのリズムが自然と選手に馴染むとともに観客にも今は攻撃だ!今は守備だ!と教えてくれていた。自らの「ゴール!」の瞬間、大応援団が歓喜し、ビッグフラッグが大きく左右に揺れる!今度は中山くんと滝田さんで合図が交わされ、タツルサポートクラブ中心にタツルの応援歌の大合唱と「タツル!・・・タツル!・・・」の祝福のコールがかかる。それに答えるようにタツルサポートクラブ、そして中山くん率いるサポーターに向かって両手を高々と掲げた。自分のゴールでみんなが幸せになる。とても気持ちがよく、サッカー選手であってよかった瞬間でもあった。
 サッカーの応援も様々だが、中山くんたちの基本の応援姿勢は選手のために応援することだった。先日のアジアカップでの中国のような野次は飛ばさないマナーのある応援、相手チーム・選手を尊重し、自分のチーム・選手を精一杯応援することだった。中には甘すぎるといった声もよく聞かれたそうだが、その姿勢は崩さず、彼ら応援団もゴール裏でサンバや応援歌などでみんなが楽しめることが目的だった。「選手がプロだから見るほうもプロになってほしい。うっぷん晴らしじゃ困る!」というのが中山くんの言い分であり、決して特権意識で言っている訳ではなく、競技場がグランドとスタンドに分かれてはいるが、気持ちが一つになった時に初めて感動が生まれることを彼はよく知っていた。そしてゴール裏がみんなで応援することで楽しいものでなくてはいけないのだと彼は願う。

 今回、私がエスパルスの応援団について、なぜ書いたのかというと、選手にとって応援というものが、いかに重要だったのかを言いたいからだ。そして引退した今でも当時一緒に戦ってくれたサポーターたちのことは忘れられない思い出となり、強く印象に残っているからだ。私がフロンターレに来た1997年、JからJFLでは応援の仕方も人数にもだいぶ差があり、フロンターレサポーターに対して少し物足り無さが正直あった。しかし、サポーターも年々増え応援にも変化が現れていった。2001年には、たくさんのフロンターレサポーターの方々に温かい声援を最後まで送っていただき引退することができて、幸せだった。現在ではサポーターの方々自信でアウェイツアーを組んで遠方まで応援に駆けつけていただいている。サポーターエリアも以前より拡大するなど、着実に人数も増え成長している。川崎フロンターレは、現在首位を直走っている。そこには川崎華族をはじめとした心強いサポーターの力が選手たちを後押ししてくれていることは間違いない。レッズのように力強い声で応援するサポーター、エスパルスのように南米ブラジルのサンバ風であったり、エスパルスにはエスパルスの応援の色や形があるように、フロンターレにはフロンターレの応援の色や形があっていい。応援団は数が多ければいいというわけでもないが、選手たちがプレーしやすく力を与えてくれる存在が一人でも多ければ心強いし嬉しい。Jリーグでもフロンターレのサポーターはマナーも良く、選手たちに野次をとばすこともなく温かくなおかつ熱く応援してくれている。スタジアムも試合を重ねるごとに、家族連れの子供から大人までが一生懸命選手を励まし、応援できる環境になっている。青さも一層増し、まとまりのある応援が等々力での試合を盛り上げてくれている。スタジアムで応援することで、本物のフロンターレサポーター・本物のサッカーファンになってほしい。チームとしての目標を達成できたとき、選手とサポーターが一緒に喜びを味わえなければ意味がない。サッカーにサポーターの存在は必要不可欠なのである。
等々力競技場が毎試合2万人の青いサポーターで埋めつくされ、フロンターレの選手たちに力を与えてくれることを願っている。永遠に!

中山くんは1994年8月で応援団長を引退し、現在はエスパルスのホペイロ(用具係り)として、トップチームに常に帯同し、欠かせないスタッフにまで登りつめている。チームの集合写真には必ず納まっている恐るべし男だ!

2004年09月16日 向島 建

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