2005/vol.08
新潟県有数の進学校である新潟大学教育学部附属新潟小学校に入学し、中学まで過ごした相澤。小学校時代は、サッカーより先に始めた剣道に邁進し、中学に入ってサッカー部に入り次第にサッカーというスポーツにのめりこむようになった。強豪チームとは程遠かったが、シュート力が抜群にあった相澤は2年生から中盤やフォワードとして試合に出場するようになっていた。 「朝早く学校に行って、友だちにセンタリングをあげてもらって、よくシュート練習してましたね。当時は、アルビレックス新潟の前身チームのアルビレオ新潟っていうチームが北新越リーグに出ていたんですけど、車で1時間かかる会場まで友だちと片道3時間ぐらいかけて観にいったこともあります。懐かしいなぁ」 |
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転機となったのは、高校受験だった。県内の私立高校に進学を決めていた相澤だったが、その受験日に高熱を出し力を発揮することができず不合格となってしまう。そこで、「なんとなくピンときて」自ら選んで入った新潟江南高校が後のサッカー人生に大きく影響を与えることになる。
高校でも、やはりシュート力を買われてフォワードとしてプレーしていた相澤だったが、この年から中学時代、県内の選抜チームに選ばれていた実力ある選手が多数入ったことから、うまい選手たちに囲まれ戸惑いの日々を送っていた。ところが、ある日、その後の相澤のサッカー人生を決定づけるひとことを堀井監督から告げられる。 |
それからは、さらにサッカー 一色の生活になった。2年になると地域選抜にも選ばれるようにもなった。また、10日間のオランダへの遠征も経験し、3年次には高校として初のインターハイ出場も果たした。だが、相澤の心には「絶対にプロになりたい」という気持ちは、まだ沸いていなかった。 |
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結局、それから相澤が再びピッチに立つのは4年後の今年まで待つことになる。毎年、シーズン前に話を聞くと「とにかく試合に出たい」と強い口調で語っていた相澤。トレーニングのなかで地道に努力を重ねて、一歩一歩成長を遂げ、成長とともに「試合に出たい」という口調も強さを増すようになっていった。改めて、この4年間は長かったと感じるだろうか? |
相澤がGKとして身体能力に恵まれていることは言うまでもない。高校からGKをはじめたというある意味ではマイナス要素も、いい方向に転がった。いい意味で、自分の「個性」がなかったぶん、手本となる周囲の仲間やキーパーコーチから貪欲にいろいろなことをスポンジのように吸収していけたからだ。 「あまり有名なところから来てないですし、実績もなかったですからね。それは自分自身が一番よくわかってた。高校からキーパーをはじめてまわりから遅れているいるのは明らかだったので、謙虚にできたっていうか。自分はこんなもんだって客観的にわかっていたから、ここまでやってこれたという感じですね。プロに入ってからは、ガミさん(浦上壮史)には影響を受けました。とにかく、あの人はまじめにやってましたから、同じようにやろうって思ってました。あとは、いままで教えてもらったキーパーコーチにはそれぞれ気にかけてもらっていろんなことを教えてもらいました。自分の形がなかったぶん、のびしろがあるってよく言われましたね。それは自分でもわかってました。オレはこうじゃなきゃっていう気持ちもなかったですから、自分のプレースタイルっていうのもわかんなかったんですよね」 |
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2000年、練習生を経て川崎フロンターレと契約。恵まれた身体能力を活かし着実に成長を遂げ、今季は2001年以来の出場を果たすGK。1982年1月5日生まれ。新潟県出身。190cm、84kg。 |
客観的に自分が遅れをとっていることを認め、できないことをできるように練習を重ねてきた。そして、自分が身につけてきたことを試合で表現できるようになったいま、相澤は自分に対して「自信がある」と客観的に言えるだけの強さがある。 |