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 2006/vol.06

 陽が落ちかかった練習グラウンドで、抑えてもこぼれてしまう笑顔を必死にこらえる。写真撮影をする間、リカバリーのランニングをするチームメイトたちが、「写真撮ってるの〜。すごいじゃん」「笑顔がいいね〜」と声をかけて通り過ぎていく。冷やかしと照れくささに絶えながら飛弾暁は、カメラマンの要求に応える。チームのなかでも明るく無邪気な性格の飛弾らしさが、そんなわずかな間にも見てとれ微笑ましくなった。

 飛弾暁は、大阪府東大阪市に生まれ三重県松坂市で幼少時代を過ごした。兄の影響でサッカーを始めたのは小学校2年のとき。中学校を卒業すると三重県の名門・四日市中央工業高校に進学。同じ県内といっても1時間30分ほど離れているため、下宿生活となった。中学校では学校生活もサッカーも遊びも、と比較的気ままな生活を送っていた飛弾にとって、高校生活は厳しいものになった。
「朝はめっちゃ早くて5時30分起き。朝練が7時からなんですけど、それまでにグラウンドを全部ならさなきゃいけない。真冬とか超寒くって鉄の持ち手のところはジャージの袖を引っ張って直接触れないようにしてやってました。1年のときは3人だけメンバー入りしてて、他はボール拾いが仕事。同級生のそいつらが打ったシュートを拾いにいくのがイヤだったなぁ」
 2年から試合に出られるようになった飛弾は、この年、「あれがあったから今の自分がある」と振り返る大きな出来事を経験した。それは、国体でのこと。メンバーに選ばれた飛弾だったが、選ばれた17人のうち15人が国体メンバー、残るふたりはチームになにかあったときのためのサポートメンバーだった。ふたりのうちのひとりが、飛弾だった。
「ラインズマンをやったり雑用やったりですよ。もうひとりの3年生は一生懸命やっていたんだけど、オレはふて腐れてたのがわかったんでしょう。監督に呼び出されてものすごい怒られたんです。そこからひとりだけ別行動ですよ。バスにも乗せてもらえなかったり、ご飯も別だったり。最後にみんなの前であやまりました。これで、自分が変わりましたね」

 そのエピソードを話している間、飛弾の脳裏にはもうひとつのシーンが重なりあった。

 2004年のシーズンインの宮崎キャンプでのこと。加入した当時はトップ下として勝負したいと考えていた飛弾だったが、チームのなかではトップ下だけでなくボランチをやったり、現在も取り組んでいるサイドの選手として練習することが多くなっていた。そんなとき、関塚監督に声をかけられた。
「『やる気がないのか?』って。それから、『がんばれ』と言われました」
 それまでの飛弾は、どこかでトップ下にこだわりたい自分を捨てきれずにいた。プロに入りフィジカルを補い、体重を数キロ筋肉で増やした。でも、筋肉で補うよりも軽い体を活かしたプレーをすればいいのだ、と気づいた。同じトップ下で小柄な今野を目標に置き、練習に取り組んだ。だが、与えられるのはボランチやサイドである。そんなときに見抜かれたように言われた関塚監督の言葉で、目が覚める思いがした。
「それからは、試合に出られるのであればどこのポジションでもいい、と思えるようになった。ボランチをやったこともいまになるとすごくためになっていて、例えばサイドにいてどんなボールをボランチの選手と交換しあったらいいのかがよくわかる。他のポジションを経験したことで周りを見られるようになったし。与えられたポジションをしっかりこなして、そのなかで自分のよさを出せばいいんだと今は思えます」


 今年、最初のスタメンは5月17日(水)ナビスコカップ予選のホーム大分戦だった。試合2日前の練習後、シュート練習をする飛弾に関塚監督が「準備しとけ。あんまり蹴るなよ」と声を掛けた。
 あぁ、そうか。
 自然にスタメンに入る事実を受け入れられた。とはいえ、やはり緊張は隠せなかった。試合前のロッカールームでガムを持つ手が震えていることをトレーナーに目撃されていたという。そして、選手入場を迎えた。
「あの瞬間は、ふわーってアドレナリンが出るっていうか、すごい興奮しますよね。サポーターがいて。あの瞬間を味わえるのはスタメンならでは。一気にテンションがあがりました」

 0対0と膠着した試合展開を終了間際の中村憲剛のゴールで決着をつけたフロンターレ。その決勝ゴールに絡む活躍もみせた飛弾は、運動量の多さとフレッシュさが光り、久しぶりのスタメンということを感じさせない落ち着きもみせた。
 2ヵ月後、奇しくもリーグ戦での初スタメンもアウェイの大分戦だった。短い間に同じチームと2度対戦したことは、飛弾にとって貴重な経験となった。
「ナビスコのときは自分のプレーが出せたなって思えたんですけど、リーグ戦のときは(対面の)根本選手が上手(うわて)だった。経験の差を感じました。駆け引きとかもそうやし、攻撃になかなかいけなくて守備にまわってしまった。負けたなぁって自分のなかに残りました」 
 スタメンで出ていれば同じ選手、同じチームとお互いを知り尽くした状況で再び相まみえることになる。その経験が、飛弾の新たな課題を見いだすことになったのだ。
「お互いの駆け引きのなかで、その裏をもっとつけるようになりたい。それができなかったことが超悔しかったから。もう一回、根本選手とやるときは裏をがんがんとって仕掛けたいですね」
 
 それからも、飛弾はリーグ戦の名古屋戦、大宮戦、そしてナビスコカップ準決勝ホームの千葉戦と3試合にスタメン出場を果たした。試合後の飛弾は、「やれた」という気持ちが前に出ることもあれば、「課題がある」気持ちが濃く残ってしまうときもある。前半の勢いあるアグレッシブなプレーを90分という流れのなかでムラなく出せることが次なる課題になるだろう。
 とはいえ、ナビスコカップ準決勝のロスタイムに入ったジュニーニョの引き分け弾は、西山の頑張りとともにゴール前に入っていた飛弾の泥臭いプレーがあったからこそ生まれたものだ。試合後、飛弾はこう言った。
「憲ちゃん(中村)に上がれって言われてたからね。ああいうプレーは練習でもしているので。枠にボールも行ったのでよかったです。でも、シュートをうったシーンはオフサイドで、ラインを見ていただけに悔しかったです」

アシストよりもゴール?
 飛弾の口から何度も出てくる言葉だ。サイドの選手としては、ボールを前線に供給することももちろん仕事である。名古屋戦の前日は、全体練習後に我那覇に「お願いします」と声をかけ、エジソンコーチを相手選手に見立てて、ドリブルで抜いてクロスボールをあげる練習を繰り返した。でも、ゴールが見える状況であれば、自分が打っていく。そこにこだわりたい、と飛弾は言う。
「もちろんガナさんやジュニーニョがフリーで待っていればクロスを上げます。その辺は森くんやヤスさんのクロスボールも参考にしながら練習しています。でも、クロスよりシュートなんですよね、やっぱり。シュートにいきたいんですよ」  そして、サッカーのもっとも魅力に思っている点について語った。
「一番はやっぱりゴール。ゴールが無理やからパスになるわけで。自分でシュート打ってゴール決めたいんですよ。そこは、こだわりたい。理想は、長い距離を走ってキーパーと1対1になること、あとクロスとみせかけてシュートを打つとかね。サイドでもテクニックをみせたり起点になって楽しませるプレーだったりっていうトップ下みたいなサイドをめざしているんです。だから、ゴールがほしいんですよね」

「1試合1試合が勝負だから、練習から1分も無駄にできません」と飛弾は言う。チャンスを掴み取り結果を出すため、ゴールを追い求める日々は続く。


2003年、四日市中央工業高校より川崎フロンターレに加入。トップ下、ボランチ、サイドと中盤ならどこでもこなせるユーティリティープレイヤーに成長した。1984年4月18日生まれ、三重県松阪市出身。

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