2006/vol.07
生まれは千葉県だが、3歳の頃からずっと大阪で育った井川祐輔。体が弱かったという理由から親の勧めで地元少年団でサッカーをはじめ、吹田千里FCからG大阪ジュニアユースへと進んだ。
「小学校のときに入ったサッカー部がけっこう強いチームで、周りのみんなは中学に上がったら当時地元で一番強かったOG(オージースポーツサッカースクール)へ行くって話をしていました。でも、俺だけはなぜかガンバに行きたいって言ってましたね。いま考えてみると、みんなと同じなのが嫌だったのかな」
中学3年生まではなかなか試合に出られず、サッカーを辞めることを考えていたというG大阪ジュニアユース時代。しかし『せっかく中3までやったんだから、最後までやり』という親の言葉に励まされて、ボーダーラインぎりぎりでユースチームへの昇格を果たした。
「チームのなかでABCとランクづけされるんですけど、自分はずっとCチームだったので辛かったです。練習もそれぞれ別だったし、頭でリフティングが30回できなくてずっとやっていた記憶があります。中学の頃は体も小さくて、プロになれるなんて夢にも思っていませんでした。でも3年生の春、股関節を剥離骨折してずっと休んでいたら、いきなり身長が伸びたんですよ。上がれると思っていなかったユースにもぎりぎり昇格できたし、人生って不思議ですよね」
ユースチームに上がった高校1年生の秋に当時のレギュラーだった選手が負傷。その代役として出場機会を得てからめきめきと実力をつけ、G大阪ユースの主力メンバーに定着した。当時の先輩には大黒将司(現トリノ)や二川孝広(G大阪)が在籍しており、試合に出られるという喜びだけでプレーしていたと当時の思いを振り返る。
「ユースで試合に出られるようになっても、まだプロになれるとは思っていませんでした。でも高校3年生の春にチームの面談があって、そこで初めてトップチームに昇格できるという話をもらったんです。普通に大学への進学を考えていたのでビックリしました」
意外と知られていないが、井川はプロサッカー選手というだけではなく、関西大学法学部の学生という顔も持っている(現在は休学中)。高校時代はサッカーだけではなく、政治の世界にも興味を持っていたそうだ。G大阪のトップチームに上がってからは、練習に通いながら大学の授業にも通う日々が続いた。
「サッカーの練習が午後からなら朝から大学。午前に練習があるなら午後から大学に通うという生活でした。西野監督(現G大阪監督)には『どっちかにせぇ』とよく言われていました。でも、当時のチームメイトのツネさん(宮本恒靖・現G大阪)や橋本君(現G大阪)は、練習をしながら平行して大学を卒業しているんです。チームにいいお手本がいたので、自分もそうなりたいと思っていました」
大学に通いながらU-20日本代表、U-22日本代表にも招集されるなど、文武両道を地で行きながらサッカー選手としてのキャリアを順調に積み重ねていった井川。だが、肝心のクラブではなかなか出場機会に恵まれないというジレンマがあった。宮本恒靖が日本代表で抜けた試合でもベンチ入りすらままならない状況に、やがて彼は移籍を考えるようになる。トップチームに昇格して3年目、2003年のことだった。
「西野監督と直接話をしたんですけど、まだチーム構想に入っていないと言われました。そこで、他のチームからオファーがあったら教えてくださいとフロントの人に伝えたんです」
そんなとき、かつてU-20日本代表で指導を受けた小野剛氏(元サンフレッチェ広島監督)との縁で、当時J2に降格していた広島への移籍話が浮上する。ジュニアユースの頃からガンバひと筋だった彼にとって、大阪を離れるということは一大決心だったに違いない。だが、「試合に出たい」という一心で、彼は広島への期限付き移籍を決断した。
「子供の頃からずっと大阪だし、いままで1人暮らしすらしたことがなかった。でも、このままじゃ状況は何も変わらないし、せっかく他のチームからオファーをもらえたのでチャンスだと思って広島に行くことを決めました」
慣れ親しんだ大阪を離れ、広島の地へ。生活環境はがらりと変わったが、彼にとってはすべてが新鮮に映った。自分ひとりの力で生きていくことを学び、人間関係の幅が広がったと当時の状況を振り返る。
「自分の世界がかなり広がりましたよね。移籍というとマイナスのイメージを持つ人が多いかもしれないけど、地元にいたら知り合えないような人たちとも親しくなれたし、違うチームで練習することによって新しい可能性が見えた。環境を変えることでプラスになることも多いんだなと感じました。移籍して良かったと思っています」
折しもこの年のJ2はサンフレッチェ広島、アルビレックス新潟、そして川崎フロンターレが三つ巴でJ1昇格を争っていたシーズン。前半こそ首位を走っていた広島だったが、井川祐輔が加入した時期は新潟と川崎の追い上げを受け、1年でのJ1復帰が危ぶまれていた第3クールに入ったときのことだった。
「チームの調子が良くない頃だったので、呼ばれてすぐに試合で使ってもらえたんです。するとチームが7試合連続完封とトントン拍子にいってしまって、当時はシンデレラボーイのように言われていました。そして最終節前の試合に勝って『次はフロンターレか』とチームメイトと話していたら、『川崎が引き分けたぞ!』ってチーム関係者の人が走ってきて。よくわからないうちにJ1昇格が決まりました。もし最終節のフロンターレ戦までもつれていたら…、昇格はかなり厳しいものになっていたと思います」
試合に出られる喜び、そしてJ1昇格という経験。広島へ移籍して得たものは非常に大きかった。だが翌年の2004年は、またしても苦難のシーズンとなってしまう。パフォーマンスが落ちたという理由から出場機会を失ってしまったのだ。すると、今度は名古屋グランパスエイトから声がかかった。出場機会に飢えていた井川は再び移籍を決断する。
「知り合いもいないし、まったく初めての土地でした。でも当時の監督だったネルシーニョは良い指導者だったし、アキさん(秋田豊)、ナラさん(楢崎正剛)、途中から入ってきたトシヤさん(藤田俊哉)とか、世界を経験している人たちからいろんな話を聞くことができました。メンタル的な部分でもすごくプラスになったし、いろんなものを吸収できました」
世界の舞台を知る指導者や選手と一緒にプレーすることによって、さらにプレーの幅を広げた井川。そして2006年、4チーム目として選んだのが、J1・2年目で即戦力を探していた川崎フロンターレだった。
「ここいらでガツンと自分をアピールしたいし、しなきゃいけない年齢。フロンターレから声をかけてもらえたからにはチームに定着したいし、その期待に応えたい」
いくつものクラブを渡り歩いて得たものは彼にとって大きな財産となった。だが、今年で24歳。武者修行の日々もそろそろ終わりにしたいとも考えるようにもなったという。
「最終ラインのレギュラー争いに割って入るのが難しいのはどこも同じ。でも練習からパフォーマンスを落とさず継続すれば、いつか試合に使ってもらえるかもしれない。いまは自分のやれるべきことをやっていくしかないかなと」
本職はDFだが、アウトサイドやボランチでも起用されており、フロンターレではユーティリティープレーヤーという印象が強い井川。使う側からしてみれば、非常に助かる存在だ。しかし現段階では、どのポジションでもレギュラーを奪うまでには至っていない。
「本職はザゲイロ(ストッパー)だと自分では思っていますが、やっぱりいろんなポジションができた方がいい。チームが上位争いをしているなかで、試合に絡めているのはなかなかできない経験です。でも、ベンチを温めていることが多いのも事実。紅白戦でも調子が良いし、いつでも試合に出られる準備はできています。もうひとつ、カベを超えたいですね」
井川祐輔の好きな言葉は『継続は力なり』。地味なことでもこつこつと積み重ねれば、必ず結果としてはね返ってくる。大阪でサッカー選手としての基礎を磨き、広島で人間的にも成長。さらに名古屋でプロ意識を学んだ苦労人は、ここ川崎でひと区切りをつけたいと願っている。
「もう6年もプロでサッカーをやらせてもらっていますからね。力がついてきていると実感しているし、そろそろ自分の居場所を見つけたい。地道な努力が必ず実を結ぶと信じてやっていくだけです。『あいつを使っても大丈夫や』と言われるような選手になりたいですね。…輝きたいです(笑)」
2006年、名古屋グランパスより川崎フロンターレに加入。スピードとカバーリング能力に優れ、アグレッシブなプレーを武器にしたDFのユーティリティープレーヤー。1982年10月30日生まれ、千葉県成田市出身。