2007/vol.03
川崎フロンターレとFC東京の一戦が、新たに生まれ変わる。
その名も「多摩川クラシコ」。
多摩川を挟んで対峙する両チームには、歴史がある。
クラブ同士で、この伝統の一戦を育て、この先もずっと記憶と記録に残していきたいと願い、さらに、今後もお互いにリスペクトし、高めあっていこうという思いを込めた。
これまで、数々の名勝負を生み出してきた両チーム。遡れば、1997年のJFL時代から激しい試合とドラマチックな展開を繰り広げてきた。とくに、J2元年となった1999年は、語り継がれる魂の入った4試合をみせ、その年、両チームは揃ってJ1昇格を果たした。その後、フロンターレは2000年にわずか1年でのJ2降格となり、再び両チームが顔を合わせたのはフロンターレが再昇格を果たした2005年になる。
これまでリーグ戦で10回対戦し、対戦成績は川崎フロンターレの2勝3敗5分。
2007年5月6日、「多摩川クラシコ」が、いよいよスタートを切る。
そして──
1999年、川崎フロンターレのキャプテンを務め、この伝統の一戦に思い入れのある中西哲生が、あの熱くて忘れられないFC東京との死闘を語る。
FC東京との試合は、どの試合も忘れられない試合ばかりで、いまでも映像が目に焼きついています。
1999年は、とくに。
僕は、この年川崎フロンターレのキャプテンでした。4回の対戦すべてにフルタイムで出場しましたが、すべてがすばらしい試合でした。当時、スタジアムで試合を目撃したサポーターは幸せだと思うし、観ていないサポーターにも、そういう戦いがあったことをぜひ知ってもらいたい。だから、あの伝説となった1999年の4試合について振り返ってみたいと思います。
[第4節 川崎F 2-2 FC東京 等々力]
この年、フロンターレは前年のJ1参入決定戦に敗れ、J1昇格へ向け“3度目の正直”としてスタートを切ったにも関わらず、出遅れが響いて3連敗スタートと苦しみました。もう後がない、という状況で訪れたのが第4節のFC東京戦でした。いわば、「絶望の淵」に立っていたのです。この試合も先制され0対2というビハインドを負うなか、岩本輝雄のループシュートが鮮やかに決まり、1対2。さらに、ロスタイムに高田栄二の泥臭いボレーシュートが決まり、ギリギリで引き分けに持ち込みました。あの試合がなかったら…と考えると、結果的に、FC東京がJ1昇格に向けて僕らに火をつけてくれた。そんな一戦だったのだと思います。
[第12節 FC東京 0-1 川崎F 西が丘]
西が丘は、スタジアムとフィールドの距離が近く、とてもいい雰囲気のスタジアムでしたね。僕は、大好きでした。この試合、フロンターレは浦田尚希のゴールで勝利したけれど、その意味はとてつもなく大きかった。“キング・オブ・東京”と呼ばれるアマラオは僕らにとって、超えられない壁のような存在でした。FC東京サポーターのみならず多くのサッカーファンからリスペクトされているアマラオが出場した試合で、フロンターレが勝てた初めての試合が、この一戦だったのです。
FC東京は、4-2-3-1というシステムを当時から採用していました。いまでこそ主流となりましたが、当時はかなりモダンなシステムだったし、とても斬新でした。そのぶん、やりがいもすごくありました。僕は、FC東京を攻略するために何度も繰り返しビデオを観ました。彼らのシステムを崩すことは、すなわち僕らの勝利につながるからです。FC東京に勝つために考えたことは、自分たちがボールをもたず、あえて相手にもたせて支配させようということでした。FC東京は堅守、速攻のチーム。ならば、逆手にとって彼らに攻めさせておいて、こちらが堅守速攻で勝とう。そして、そのとおりに実践できたのが、この試合でした。
[第24節 FC東京 0-0 川崎F 西が丘]
昨年、フロンターレ10周年記念の企画で、記憶に残る思い出の試合を募集したところ、スコア上0対0という地味なこの試合が1位に選ばれたと知り、うれしかったですね。僕は、この試合は歴史に残る一戦だと思っています。それぐらいにドラマチックな試合でした。
予感はありました。選手入場をするときから、この試合はなにかが起こるんじゃないかと感じていましたから。夕方からの試合だったけれど、傾きかけた陽が強烈に差し込み、気温が下がらず熱気となってスタジアムを覆うような、ものすごい暑い日でした。この日、アウェイの洗礼も受けました。ツゥットが厳しい判定で退場となったときは、「なんでだよ」と思いました。さらにはその後、僕がバックヘッドで決めたゴールは「ノーゴール」の判定に。いまでも、あのゴールはオフサイドじゃなかったと思っています。決まっていれば、僕にとってこのシーズン初ゴールでした。
延長に入るときに、「ひとり少なくても、ひとりが1.5人分の働きをすればいいんだ」とみんなに話をしました。体力的にはみんなギリギリだったけど、あきらめる選手は誰もいませんでした。延長に入るとティンガも長橋康弘も足を攣らせたなか、それでもフロンターレは最後まで集中を切らさなかった。僕は、本気で勝ちたかったし、勝てると思っていました。
[第32節 川崎 3-2 東京 等々力]
「1万人大作戦」とクラブ総出でキャンペーンを張ったこの試合、会場には1万3812人が詰めかけてくれました。いまでこそ、満員のスタジアムも経験しているフロンターレですが、当時の1万人という数字は、満員と同じくらいの意味がありました。それぐらいに熱気がものすごかった。この日の天気も快晴で、真っ青な空の色が鮮やかでした。
先日、実家に戻ったときに、この試合のビデオを偶然にも観る機会がありました。選手たちの表情は本当に引き締まっていました。「絶対に負けない」という闘志がみなぎっていましたね。FC東京は僕らにとって、そういう闘志を引き出してくれる特別なチームなのだと改めて感じました。
この日の試合は、開始わずか3分で先制されましたが、桂秀樹によるヘディングシュートで同点に。一進一退の攻防を繰り広げ、フロンターレが3対2で勝利をおさめました。不思議なのは、FC東京との試合は、どの試合も相手のミスに乗じて勝った試合はなかったということ。技術や気迫で相手を上回ったほうが、最後に勝利を手にしていたのだからドラマチックな展開になるはずです。もちろん、すべてのゴールには魂が入っていたし、ゴールの形もひじょうに美しかった。
このとき、FC東京は4連敗中で、J1昇格に向けて苦しんでいました。僕らはこの年J2優勝とJ1昇格を先に決めたけれど、FC東京は最終節、自分たちが勝って大分が負けることでしか昇格の可能性がなかった。僕は、本音を言えば、FC東京と一緒にあがりたいと思っていました。やっぱり、それまでの歴史のなかでお互いがお互いを高めあってきた存在だったから。だから、一緒にJ1に昇格できて、本当にうれしかった。J2は強いんだっていうことを一緒に証明できるという喜びが心を満たしていました。
2000年、ともにJ1昇格を果たした両チームでしたが、くっきりと明暗を分けました。圧倒的な強さでJ2優勝を果たしたフロンターレは、この年ガラリとチームが変わってしまい、結局、歯車は狂ったまま、たった1年でJ1降格。そのシーズンをもって、僕は現役生活を引退しました。一方のFC東京は、前年までをベースに積み上げ、旋風を巻き起こしました。
フロンターレがJ1再昇格を果たし、再び両チームが対戦したのはそれから時が流れ2005年の年。僕は、ピッチの外から試合を観るようになりましたが、それ以降も、やはり一筋縄ではいかない均衡した試合ばかりが目につきました。
記憶に新しいところでは、昨年のシーズン終盤、味の素スタジアムでの一戦です。フロンターレは4対1と一度は大量リードをしながらもまさかの逆転負けを喫してしまいました。やはり、試合というのは、ホイッスルが鳴るまでなにが起きるかわからない。ドラマは、続いていたのです。
川崎フロンターレとFC東京は、これまで本当にフェアな戦いをしてきました。それは、お互いを認め合いリスペクトしているからだと思います。だから、この対戦に凡戦なんてひとつもない。いつも、なにかが起きる。なにかが違うんです。僕自身、FC東京と対戦するときはイヤだなぁと思いながらも、楽しみでしょうがなかった。いつもワクワクしていました。それは、真正面からぶつかると、真正面から受け止めてくれたからです。川崎フロンターレにとってFC東京は、“ライバル”だと僕は、思っていますし、そういうチームが存在することに感謝しています。
サポーターも同じ気持ちなのではないでしょうか。現役時代、僕はFC東京サポーターからずいぶんと野次られましたが、全然イヤじゃなかった。敵ながらもFC東京のサポーターは盛り上げるのがうまいから、野次をバックに戦うことさえも楽しんでいました。両チームのサポーターにとっても、こんなにも熱く燃えられる対戦チームがあることは、とても幸せなことだと思います。
川崎フロンターレとFC東京。ともに、魂があるチームです。現役選手たちには、これまでの歴史を意識して戦ってほしい。そして、ひとつひとつを積み重ねていき、いつの日か、本当の意味で「クラシコ」と言えるような伝統と重みのある戦いをみせてほしいと思います。
5月6日、等々力でそんな一戦が観られることを願っています。
スポーツジャーナリスト。1969年9月8日、愛知県名古屋市生まれ。プロサッカー選手として、名古屋グランパスエイトを経て、川崎フロンターレへ。2000年末をもって現役を引退。現在は、テレビ、雑誌、著書などメディアで活躍するほか、子どもたちのサッカー教室なども積極的に行っている。今年、川崎フロンターレクラブ特命大使に就任。“中西哲生シート”を設置するなど、様々な角度から川崎フロンターレとサッカーの普及に努めている。