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 2007/vol.04

「サッカーも自分自身も、アクション起こしていかないと。自分に期待しています」

shuhei 今年の黒津勝は、変わろうとしている。もともとそれほど表情に感情を出す選手ではないし、どちらかといえば「内に秘めた」思いを大事にするタイプだった。でも、今年は思いを外に向かって発信することで自分を鼓舞しているのが伝わってくる。
開幕直前に話を聞いたときのこと。練習試合で結果も残し調子のよさを保っていた黒津に「目標は、レギュラーになることですか?」と聞いたことがある。瞬時に、即答された。
「それは、当たり前のことです。いまさら言うことではないです」
 瞳が鋭い閃光を放った。それから、すぐにいつもの穏やかな調子に戻って、「昨年は7得点でしたけど、チームでは4人が二桁を取っていましたよね。今年は、絶対に二桁は取りたいんですよ」と続けた。
 正確に言うならば、昨年から黒津は自分を変えようとしていたという。
「サッカー選手として、いちばんいい時期ってあるじゃないですか。それを迎えるときに、いちばんいい状態でいたいという思いがあって。もう若くないし、いまなら間に合うかなと思ったんです。自分が変わろうと思わなくちゃ変われないだろう、と。昨年は、調子もよかったしもっと出たくてうずうずしていました。自分が出たら点を取るという風に思われることは、プレッシャーでもあります。でも、もちろんゴールが決められなかったら悔しいですからね。とにかく、自然に変われるわけじゃないし、自分からアクション起こしていかないと。それはサッカーについても同じ。やらなきゃいけない立場だと思っているし、自分に期待しているんです」
 思いは、実行に移してこそ意味がある。昨シーズン終了後にクラブとの契約更新の場で、自ら口を開いた。
「僕、背番号を7に代えたいんです」
 ダメもと精神で言ってみたが、最初の返事はNoだった。フランシスマールが着ける予定の番号だったからだ。しかし、翌日にスタッフから電話がかかってきて、「フランシスマールは8番になるから、いいよ」とOKが出た。
「フォワードの7番って日本ではあまりいないし、一桁の番号を背負うことで、自分にはっぱをかける意味もありました。最初は、チームメイトから冷やかされましたけどね。ロッカールームの場所も変わって、『お前がそこにいると慣れないな〜』って」

shuhei 背番号が「24」から「7」に変わり、意思表明は十分すぎるほど周囲に伝わった。あとは、自分がやるのみである。シーズンオフに黒津は例年より早く、スポーツジムに通って自主トレをして体をいじめることにした。昨年までは、体がキレるところまで自主トレでもっていけてなかったが、ランニングや筋力トレーニングに取り組んだ結果、自分でも予想外にコンディションは良好だった。毎年、シーズン始めはフィジカルトレーニングからチームの練習は幕をあける。「あれっ? おかしいぞ」と黒津は思った。いつもならば、走ったあとも脈が落ち着くまで多少時間がかかるのだが、今年は、ストンとあっという間に元に戻るようになったのだ。そのぶん、当然のように体は軽く、キレもよかった。
 チームメイトの活躍も大きな原動力になった。昨年、我那覇や中村が日本代表に選ばれたことは刺激になった。とくにフォワードは、得点ランキング上位者が揃って選ばれたこともあり、「誰が見ているかわからない。サッカーやるうえでは上をめざしていきたい」とまで口にするようになった。もうひとり、黒津には大きな存在がフロンターレに加わった。川島永嗣だ。

 黒津と川島の出会いは、高校2年に遡る。当時、埼玉県選抜に選ばれた高校2年生は、花咲徳栄高校の黒津と県立浦和東高校の川島の、ふたりだけだった。川島は、黒津との出会いを鮮明に覚えている。
「クロがいた花咲徳栄高校は全員、坊主頭なんですよ。それもあって、みんなが3年生に見えて、敬語で挨拶したら『タメだよ』とクロが言って、それから仲良くなったんですよね」

寺田周平ORIHICA

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 ふたりは、ときには対戦するライバル校の選手として、ときには選抜のチームメイトとして切磋琢磨してきた。「いつか同じチームでやれたらいいね」と夢を語りあったこともある。その後、川島は大宮、黒津は川崎に加入する。どちらも当時はJ2のチームだった。そして、6年が経過して、J1でタイトルを目標に掲げる川崎フロンターレでチームメイトとしてピッチに立つことになったのである。黒津は、川島について語るとき自然と優しい笑顔になる。
「あいつは、高校のときホントに頑固で超がつくほどマジメなやつでしたね。いまのほうが、ずいぶん丸くなったかな。まさか、本当に一緒のピッチに立てるとは思わなかったからうれしい。来てすぐにエイジも代表にも入ったし、それも刺激になりましたね」

shuhei 2007年J1リーグ開幕戦。調子を保っていただけにもしかしたら…という思いも黒津のなかにはあっただろう。だが、ベンチスタートで出番はなかった。チームはそのままインドネシア遠征へ。そして、ACL対アレマ・マラン戦の1対1という拮抗した展開で後半に入り、やっと関塚監督から声がかかった。前半から相手の勢いに押されがちだったフロンターレだったが、黒津が確実にチームのリズムを生み出した。結果、3対1の勝利だった。
「インドネシアでは、緊張もまったくなくてとにかく楽しかったんですよ。試合にも飢えていたし、思い切ってプレーできました。外から観ていてリズムが悪かったので、自分が入って徐々にリズムがフロンターレにきたのがわかった。とにかく、すんなりと試合に入れたのがよかったんでしょうね」
 帰国後、中2日で第2節神戸戦が控えていた。セットプレーの練習で、ホペイロからAチームを意味する黄色いビブスを渡された。
「えっ? 間違ってないですか? って確認しちゃいましたね」
 練習後に関塚監督から「明日いくから準備しておけ」とだけ告げられた。その瞬間から、キックオフが待ちきれないぐらいに試合が楽しみだったという。アップしているときも、あともう数十分でピッチに立てるというスタメン特権の喜びを感じて、気持ちが高まった。試合は、落ち着いて入れたが、後半早々に谷口が退場となったこともあり、黒津はフル出場することは叶わなかった。仕方のないことだが、もっとやりたかったという思いが残った。

 1週間後、第3節横浜FC戦で再びスタメンの座を掴んだとき、黒津は「この試合が自分にとって鍵となる一戦になる」と感じていた。ホームということも重なり、気合いは十分すぎるほどに高まっていた。
「ホームはやっぱり気持ちいい。久しぶりだったし。とにかく、点がほしかったから積極的にいったし、『俺んとこに来い!』という気持ちだった」
 実際、チームメイトに向かってボールがほしいというジェスチャーを珍しいぐらいにアピールしていた。周囲もこれまでの彼の頑張りを認めているからこそ、なんとか黒津にゴールを決めさせてやりたいという空気があったように思う。
そして──。森が退場し、ひとり少なくなってから4対0とリードする手をゆるめることなく、2ゴールを決めたのが黒津だった。
「1点目はジュニーニョからパスが来る前にゴールを見ておいて、逆サイドに打てば弾くなり、最悪コーナーになるだろうと思ってとにかく枠に飛ばそうという意識でした。2点目は、狙いましたけど自分でもびっくりするぐらいキレイに決まりました」

 10人になってからは左サイドにまわり、守備の面でも運動量が必要とされたが、相手が人数をかけて前に出てこないぶん、チャンスは生れるだろうと考えていた。 「あのとき、思い出していたんですよ。2003年って僕、1試合しか出ていないんですけど、その頃は紅白戦でもフォワードじゃなくて左サイドをやってたんです。意外なところで、そういう経験が活きるものだなぁって思いましたね」 Bチームの“左ウィングバック”として煮詰まっていた日々は、後の第7節浦和レッズ戦でも生かされることになる。

 話は、第3節横浜FC戦に戻る。 
 試合終了とともにチームメイトたちに祝福されていたのは、黒津だった。本人も「安堵感でいっぱいだった」という。同時に、寒気と体の痛みを感じた。この日、試合終了後、記者たちの質問から逃れるようにふらふらとバスに乗り込んだ黒津だったが、ロッカールームで熱を測ったところ39度にも上がっていたという。
「なんか、知恵熱みたいですよね。とにかく、どんな形でもいいから1点が早くほしかったからよかった。ホントによかった」

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 4月15日、フロンターレは清水エスパルスからはじめての勝利を手にしていた。1点ビハインドだったハーフタイムのロッカールームには、関塚監督の怒号が響き渡っていた。ピッチ上でアップしていた黒津は、そのことを知らない。後半13分、ピッチに登場した黒津は、そのわずか3分後、相手の不用意なバックパスを見逃さず、GKからボールをかっさらうようにそのまま利き足ではない右足でシュートを放った。速度がゆっくりだったのが気になっていた。「入ってくれ!」と願ったボールは、相手DFのクリアがほんのわずか及ばずゴールへ。そのボールを走って取りにいき、そのまま全速力でハーフウエーラインまで到達した黒津は、まるでトライを決めるラグビー選手のようにボールをポンとセンターサークルに置いた。直前のACL韓国遠征では出番がなかったぶん、体力は有り余るほどにあった。「黒津の気持ちが全員に伝わった」と関塚監督は記者会見でコメントした。
 この日、黒津は気分転換のために、スパイクを変えていた。それまでの真っ赤なスパイクから、白にフロンターレカラーと同じ青と黒っぽい色味のラインが入った1足が、いい仕事をしてくれた。

 黒津を変えた最大の原因は自分に対する「自信」だろう。そこに至るまでは長い道のりがあった。なにより、失敗から這い上がれるうようなメンタルの強さを手に入れたことは彼の成長を大きく前進させた。
「昔は1対1とかで、ちょっと引いてしまう自分がいたし、いい意味でも悪い意味でも相手を見てしまってた。でも、変わりましたね。絶対に負けたくないと思うようになりました」と、「絶対」を強調した。
「例えば、悪かった試合があったらもちろんその日は反省するんですけど、次の日は切り替えられるようになりました。前の僕だったら、きょうがダメだったら次もダメかもしれないなぁと思ってしまうところがあったから」

shuhei

 サッカーの試合を頻繁に観るようになったことも客観的に自分のプレーを分析できることにつながった。
「いまは多いときは1日3試合とかサッカー観てますね。前は、ぜんぜん観なかったんですよ。自分の試合も観るようになりました。実際に観て、判断が遅かったりコントロールが悪かったり、中盤がボールをもったときの動き出しがほんの少し遅かったりと、自分のプレーのダメだったところを客観的に理解してから練習すると、ぜんぜん違う感じでできるんですよ。それから、海外の試合も観ると自分のプレーを照らし合わせて、もっとレベルアップしたいと思うし。僕が好きなのは、アンリなんです。シュート、パス、フリーキック…。なんでもそつなく、クールにこなすじゃないですか。それがすべてトップレベルだし。まだまだ欲があるし、もっともっとレベルアップしたいんですよ」

 スタメンに入っても、またサブからのスタートになっても、その繰り返しであっても、自分の気持ちをコントロールできるようになった。
 第4節新潟戦で敗戦し、続くガンバ大阪戦で再びスタメンからサブにまわったとわかったときも、「僕、慣れてるし、強いからぜんぜん大丈夫ですよ」と、さらりと力強く言ってのけた。
「絶対にまたチャンスは来るから。それに、やることはスタメンでもサブでも変わらないですから。いま、自分の軸みたいなものが試合に出るなかできて、明確な目標ももっているから、そのふたつが重なり合って自信がついてきたと思う。どこで誰が見ているかはわからないから、それだけはしっかり頭において、どんな状況でも自分のパフォーマンスは出せるようにしていきたいですね」

[かわしま・えいじ][くろつ・まさる]
左足からの決定力の高いシュート、一瞬のスピードなどを武器に結果を残してきた。今季は、さらに上をめざして邁進している期待のフォワード。1982年8月20日生まれ、茨城県古河市出身。179cm、69kg。
>詳細プロフィール

www.orihica.com

ORIHICA's FASHION NOTE

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ジャケット

2ツボタン
コットンジャケット
13,650円

インナー

カットソー
3,990円

ボトムス

グレンチェック
カーゴパンツ
7,140円

オリヒカ担当者から

今回はG.Wのお出掛けを意識して、ボーダーのカットソーと英国テイスト溢れるきれいめカーゴパンツで今季トレンドのマリンテイストを演出しました。ご協力いただいた黒津選手にはとても爽やかに着こなしていただいて感謝です。

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