2007/vol.08
1997年、川崎フロンターレ加入。
チーム発足とともにプロ生活を歩み始め、今年で11年目を迎える佐原秀樹。
10年分の思いを込めて、サポーターのみんなへ。
僕は、神奈川県横浜市で生まれました。ふたつ年上の姉はバスケット、父は野球、母はソフトボールをやっていました。だから自然と、僕もスポーツが好きになったのだと思います。母は、僕が幼稚園から小学生にかけてママさんソフトのチームに入っていて、父が監督をしていました。かなり強いチームで、横浜市内でも優勝したこともありました。僕はいつも試合を見に行っていたけれど、キャッチャーをやる母の姿はいまでも覚えています。
小学校1年のとき、『キャプテン翼』に夢中だった僕の誕生日に、父がサッカーグッズ一式と日産FCプライマリーの申込書をプレゼントしてくれました。それが、サッカーとの出会いになりました。でも、小学校2年から3年にかけては、実は野球のチームにも入っていました。ママさんソフトの会場でスカウトされたんです。ピッチャーもやり、相当うまかったと自負しているのですが、サッカーと試合日か重なるようになり、父から「どちらか好きなほうを選びなさい」と言われ、サッカーを選びました。あのまま野球を続けていたら、いまの僕はどんな風になっていたのでしょうか。行儀が悪いときにはよく叱られた父、性格が明るい母、結婚式で僕が号泣してしまった姉、試合をいつも観に来てくれる家族には感謝しています。
小学校時代は全国大会、中学では横浜マリノスジュニアユースで高円宮杯優勝、桐光学園サッカー部時代には、選手権準優勝と気がつけばいつも戦績を残せる強いチームにいました。高校時代はキャプテンだったけど、キャプテンのキャラではなかった僕を、あえて佐熊監督は指名したのでしょう。全体練習が終わるとキャプテンの僕は帰っていましたが、俊輔は夜の9時ぐらいまで黙々と練習していました。あいつは、本当に練習熱心でした。僕は、選手権に出たくてユースではなくて高校でのサッカーを選びましたが、いい経験ができて思い出深い3年間になりました。佐熊監督には、よく怒られたキャプテンだったけれど…。
1997年、僕はフロンターレに加入しました。もらった背番号は30番。でも、当時フロンターレと姉妹チームだったグレミオにすぐに1年間留学させてもらったので一度もつけることはありませんでした。
ブラジルでは寮に入って、向こうのジュニオールチームに所属しましたが、最初はきつかったです。日本人は下手だと思われていたし紅白戦にも出られない状況でした。でも、腐らずやっていたら最後には認めてもらい、コパ・サンパウロの試合にも出させてもらいました。当時、ロナウジーニョがチームメイトにいました。ひとことでいえば、うまくて、速かった! マジで、上手い選手でした。ブラジルでは、みんな気持ちがすごくハングリーな選手たちばかりだったから影響を受けました。
ブラジル帰国後、すでに10年が経つなんて本当にあっという間でした。1997年からいるチームメイトは、昨年、ヤスさんが引退して、ついに誰もいなくなってしまいました。義務教育が9年間なのに、僕はフロンターレで11年目。僕にとって、フロンターレは学校みたいなものでした。人としてどうあるべきかということを教えてくれ、人間的に成長させてくれたのもフロンターレでした。
僕にとってフロンターレで忘れられない試合が、2試合あります。ひとつは、1999年9月10日、J2のときに西が丘でやったFC東京戦です。当時まだJリーグの試合には延長があり、この試合は延長後半までフルに戦って、0対0の引き分けでした。フロンターレはツゥットが退場になってひとり少ない状態で、延長に入っても足を攣らせる選手が続出して、それでも集中を切らせることはありませんでした。スコア上は0対0と地味だけど、ドラマチックな思い出深い試合です。あの試合を観ていたサポーターはどれぐらいいるのでしょうか。きっとみんなも同じ気持ちなのではないでしょうか。
そして、もう1試合──。
それは、昨年のナビスコカップ準決勝のアウェイの千葉戦です。本気で、タイトルが欲しかったのです。試合中、必死でした。僕は周平さんの離脱もあって、それより前からリベロとして試合に出ていました。その試合では周平さんが戻ってきましたが、僕がそのままリベロ、周平さんがボランチに入りました。そう、僕と周平さんは1999年からのつきあいになりますが、2000年、2001年と手術をして長いリハビリ生活を一緒に過ごしてきたことを思い出します。あの頃のことを考えると、ふたりで試合に出られているなんて信じられないです。
フロンターレが3年かかってやっと1回目の昇格を果たして、2000年にJ1に上がって試合に出てこれからっていうときにケガをしてしまって、やっぱり自分のなかでそのことは大きな出来事でした。手術をしたのもはじめてだったし、それから結局、2年間ぐらいまともにプレーできなくてリハビリの毎日。チームもJ2に降格してしまって本当に苦しい時期でした。人にはあんまり、辛いところをみせたくないし苦しかったことをあんまり言いたくないけど、やっぱりああいう経験をしたから、いま頑張れるんだと思います。
話が脱線しましたが、ナビスコのジェフ戦、フロンターレは前半0対2とビハインドで折り返しました。ロッカールームへ引き上げるハーフタイム、僕の耳にはサポーターの歌声が聞こえてきました。
どんな時も 俺たち
そうさ心くじけない
アオとクロの誇り胸に
さあ行こうぜ
KAWASAKI
いつも俺達とともに
ぶちかませよ
Just Going Now
あ、あの歌だと思って、心にじーんと響きました。確かめたことはないけれど、あの歌は、僕たちがピンチのときにサポーターが歌ってくれる歌なのです。手拍子とともに。ハーフタイム、サポーターの前を通って引き上げていくとき、歌詞がすとんと心に入ってきて染み込んできました。本当に、その歌で僕の心が奮い立ってきたのです。 でも試合は、延長後半のロスタイムにPKを取られて負けてしまいました。終わったあと、目がかゆくなって、それで涙が出ていることに気づきました。プロになって試合に負けて悔しくて泣いてしまったのは初めてのことです。チームメイトも悔し涙でした。終わった後にサポーターのところに挨拶に行くと、サポーターも泣いていました。ロッカールームはしんと静まり返ってみんな座り込んでしばらく立てませんでした。それだけ、あのときみんな本気でタイトルが獲りたかったのです。うれしいことよりも悔しいことのほうが忘れないことを知りました。
2003年の最終戦、試合には勝ったのにチームが勝ち点1差昇格できなかったときも僕はすごい泣きました。あの涙は、試合に1試合も出られなくて「俺はチームのためになんにもやってないなぁ」という不甲斐なさが込み上げてきたからです。いま、試合前のロッカールームで、僕だけの時間というのが一瞬だけあります。円陣を組む前にブラジル人はお祈りをしているし、ふと見ると周平さんも目を瞑って集中しています。僕は、ユニホームを頭にのせて気持ちを整えます。そのときに試合に出られなかったことが頭をよぎり、だからこそ今を頑張ることができるのだと気持ちを高めます。僕のモチベーションになっているのです。
僕は今年でプロ11年目ですが、ブラジルに1年、ケガで2年、試合に出られなかったシーズンもあったので、実質は6年ちょっとなんですね。いま、試合に出るチャンスをもらったときにはきちんとそのチャンスを生かして結果を出さないと、という気持ちがすごくあります。実際、そうやって誰が出ても同じパフォーマンスを保てているから、チームが強くなったわけだし、選手層は実は厚くなっているのです。途中から試合に入ることは難しいけれど、すんなりと試合に入っていけるように心がけています。もちろん最初から出ることが一番だけれど、与えられた仕事をきっちり果たすことが僕に求められていることだから。ディフェンダーは経験が活きるポジション。僕も関さんからリベロの仕事も与えられて、プレーの幅が広がったことを感じています。もう、若いときのようにがむしゃらにガツガツとしたプレーはしないけれど、行くべきところと引くところを意識できるようになったのは経験が身についたからです。いまは駆け引きとかもするようになったし、経験を積んだことで少しずつだけど余裕も生まれてきたと思います。
若い選手には負けたくない――。
これが、僕の最大のモチベーションです。気づけば年下の選手がほとんど、18歳だった僕が29歳になったのだから当たり前です。でも、年下には負けたくないっていう気持ちがすごくあって、紅白戦でもガナやクロには負けられないと思ってプレーしています。一緒に練習してて、若い選手たちがうまくなっていくのがわかるから、余計に。それが相乗効果となってチームにいい影響を与えていると思います。その気持ちがある以上、僕はサッカーをやり続けるでしょう。
若い選手といえば、ACLのバンコクの遠征試合は、若手中心で臨んで勝って帰れたのは貴重な経験でした。キャプテンらしいことはなにもしなかったけれど、ロッカールームで円陣を組んだとき、「日本からサポーターも来ているから絶対に勝って帰ろう」とみんなに話しました。ここまで来て、負けて帰るわけにはいかないという気持ちが重なりあって、本当に若い選手たちも頑張っていました。あの試合、僕は試合中にケガをしてしまい、試合後もそのまま空港に直行、さらには飛行機が2時間遅れるとハプニングもありましたが、雰囲気はとても明るくみんなの表情も疲れを感じさせないものでした。
いま、サポーターも本当に増えてきて、目に見えてそれがわかりうれしいです。水曜日のナイターでも観客動員が1万人を超えるようになったなんて昔を思うと信じられません。3000人ぐらいしか入らなかったときを知っているからこそ、ありがたく感じます。フロンターレの歴史はうれしかったことよりも、悔しいことや苦しいこと、悲しいことも多かったから、そういうことをたくさん共有してきたから、絶対にサポーターとタイトルを一緒に獲って嬉し涙を流したいです。悔し涙じゃなくて、今度は嬉し涙を。日本のトップリーグでタイトルを獲ることは簡単なことではありません。それは、わかっています。だってリーグ戦では18チームの頂点に立たなければいけないわけだから。でも、せっかくみんなで長い間一緒にやってきたわけだし、チームも強くなりました。僕は、フロンターレでタイトルが獲りたいのです。
それだけです。
最後に、今年の誕生日にたくさんのメッセージをもらいました。
その前に甲府戦で今年初先発があり、すぐに誕生日だったので、両方の意味での「おめでとう」メッセージをたくさんのサポーターの人からいただきました。
どうもありがとう!
from ヒデ
1対1の強さ、高さなど天性のディフェンダーとしての素質をもつ。加入以来、チームとともに成長し続けるチームの顔だ。1978年5月15日生まれ、神奈川県横浜市出身。184cm、76kg。
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