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 2007/vol.10

プレーで雄弁に語る大橋正博が考え、突きつめていること。
それは、サッカーを極めることだ。
大橋がサッカーを追求していく、
その過程の延長線上にフロンターレとの出会いがあった。

  J1リーグ第10節対FC東京戦、前半43分。ジュニーニョが倒されて得たペナルティエリアすぐ手前の位置からのフリーキックのチャンス。ボールのそばに立ったのは、キッカーを務めている中村憲剛と大橋正博の二人だ。少し後ろに森勇介がいる。壁の位置も決まり、FKの準備が整うと、大橋は中村に「僕、いいですか?」と問いかけた。さらに、「ファーサイドがいいですかね?」と中村に相談した。森勇介が助走を始めるかのようなフェイントをはじめた刹那、大橋正博のスピードに乗ったFKは、ゴールネット右隅に突き刺さった。

「ケンゴさんが蹴ると思われていただろうけど、壁もできてボールも置いてキーパーの準備も整ってパッとみたときに、これはいけるな、と。イメージができたんですね。後でビデオで確認したら弾道はよくなかったんですけど、スピードがありましたね。もちろん、周平さんやタニがいい場所にいてくれたこともあります。よかったです」

 大橋はFKのときに壁を置く練習を好まない。たくさんのボールを横1列に並べて、いろいろな場所から蹴るイメージを作っておきたいからだ。もちろん、壁があることを想定して蹴るコースを考える。さらに試合では、以前にくらべキーパーとの駆け引きもするようになった。FC東京戦でのこのシーン、すべてが整った瞬間に「いける」と感じたとおりに決めてみせたのはさすが、である。これがフロンターレ移籍後、初試合だったが、開始早々に決めたゴールも含めて2得点の活躍は、サポーターに大橋の存在を十分に印象づけた。

 試合後、「これが初試合でしたが?」と聞かれた大橋は、「フロンターレではデビューですけれど、これが初めての試合ではありませんから」と切り返した。だが、すぐにいつもの穏やかな調子で続けた。

 「もちろん、これまでAチームのメンバーとは少ししか絡んでいなかったので不安は少しはありましたけど、同じ感覚でプレーできる選手も多く、楽しくやれました」

 確かに彼は、何度かの移籍も、様々な経験もしてきた。
 2000年にユースから横浜F・マリノスに進んだ大橋は、その翌年にはJ2の水戸でフルシーズン活躍し、翌2002年にマリノスに復帰したが、シーズン途中で当時、J1昇格をめざしていた新潟に期限付き移籍をしている。2003年からの3年間は横浜F・マリノスで岡田監督の下でプレーをした。マリノス黄金期にはなかなか試合に出るチャンスに恵まれなかったが2005年にはフルシーズン、トップ下を務めた。長い間在籍したマリノスを離れたのは2006シーズンのこと。J2の東京ヴェルディ1969に移籍する。そして2007年、フロンターレに期限付き移籍をすることになる──。

2 大橋正博に一番最初に影響を与えた人物は、彼がずっと目標に掲げている中村俊輔だったというから驚きである。そもそも幼稚園のとき、ピアノをやってみたいと思っていた大橋は、友だちに誘われてサッカースクールに入る。それまでサッカーのことは、まったく知らず、クラブに入り「インサイドキックとアウトサイドキック」を教えてもらったことが最初のサッカー体験となった。そのまま横浜市内の小学校に入っても同クラブでサッカーを続けた大橋だったが、そこに3歳年上の隣の小学校に通う中村俊輔がいたのだ。

「僕が3年生のときに俊輔くんが6年生だったんですけど、めちゃめちゃうまかったんですよ。まだワールドカップなんかも観ていなかったし、近くにいたお手本でした」
 大橋は、中村俊輔に憧れにも似た気持ちをもち、常に近くにいて中村のプレーを見ていた。FKの話題に及んだとき、大橋があるエピソードを思い出し、楽しそうに思い出を振り返った。

「当時、俊輔くんがFKのような練習をしていたんですよ。でも、まだ小学生だしゴールまで届かないじゃないですか。だから、土のグラウンドにマウンドのような山を盛ってそこから蹴るんです。その山を作る係りを僕がやっていたんです。山ができたらパッとそのてっぺんの土を払って平らにするんですよ。『こうやるんだよ』って俊輔くんに言われてね」

 中村俊輔が小学校卒業後、日産のジュニアユースに進んだことで、大橋ははじめて「下部組織」という存在を知ることになる。そして、自身も日産からマリノスへと名前がかわったタイミングで、後を追うように5年生のときにマリノスプライマリーに入った。
「僕にとって、これがはじめての移籍でした」

 リフティングやキックなど技術的なことに長けていた大橋は、マリノスの環境に入りさらにその才能を磨き、サッカーの楽しさにのめりこんでいった。とはいえプロ選手になることに具体的な目標をおいていたわけではなかったという。
「置いたボールを蹴る自信はありましたけど、試合のなかではパスがうまく通らなかったりすると、やりたいこととのギャップが出てイライラすることもありましたね。でも、練習自体はすごく好きでした。それは、いまでもそうです。ただ、この頃は感覚だけでサッカーをしていましたね」

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久木野 聡ORIHICA

 圧倒的にテクニックの面で秀でていた大橋は、中学3年の卒業式前日にはサテライトに参加し、高校3年のときはトップで試合デビューも果たしている。マリノスユースからトップに上がれた同期は、大橋のほかに石川直宏(現FC東京)だけだった。ポジション柄も“王様”のようなプレーに徹することができていた大橋もマリノスのトップチームでは洗礼を受けることになる。

「感覚だけでサッカーをやってしまうと、うまい相手に対してはまったく通用しなくなってしまう。それまでボールをもらう前に周囲を気にしなくても触れたのが、井原さんや小村さんに後ろからこられて、ボールを触る前に取られてしまったりする。これはもう、紅白戦でもチームに迷惑をかけてしまうので、どうしようかと考えました。いまでは想像つかないと思いますけど、当時の僕はこねこねとドリブルをしたりしていたんですよ。それをダイレクトでプレーするように意識して。技術的には通用することも感じていたし自信もあったので、ボールがないところの動きを考えるようになりました」

 実は、大橋は高校2年のときに自らの意志でマリノスを離れてフリューゲルスに人生で2度目となる移籍をしている。結果的にその後、マリノスとフリューゲルスの吸収合併にともない、期せずしてマリノスに戻ってくることになった。それは、縁としか言いようがないだろう。各ポジションに代表クラスがひしめきあい、試合を組み立て、パスの出し手もたくさんいるなか、大橋はマリノスのなかでの自分の存在意義について突きつけられる時がくる。それは、当時の岡田監督のひとことがキッカケだった。

──お前は、なにで生きていくんだ?──

「プロ4年目か5年目だったと思います。自分では考えているつもりだったけど、まだ感覚でやっていたんでしょうね。当時のマリノスはパスを出せる選手がたくさんいた。大ちゃん(奥大介選手)やアキさん(遠藤彰弘選手)とか、もっといえばマツさん(松田直樹選手)なんか最終ラインからもパスを出せますし。そういうメンバーのなかで僕が足元でしかもらいませんよ、というプレーをしていたらダメですよね。それじゃあ自分がどうしようかと思ったときに、パスのもらい手になってみようと思ったんです。初めての試みですけれど。それを練習のなかで実践して、よくなっていった僕を岡田監督が見ていてくれたんですよね」

 2003年、横浜F・マリノスが完全優勝を果たした年、セカンドステージ第14節仙台戦でフォワードとして先発に起用された大橋は、見事にゴールを決めて岡田監督の期待に結果で応えた。

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 大橋は、根っからのサッカー小僧で、自分なりのサッカー観をしっかりともち、なによりサッカーが大好きなことが話をしてみるとストレートに伝わってくる。サッカーのことで、はちきれそうな程つまった大橋の頭の中には、自分だけのピッチがあり、そこを覗いてみることができたらばファンタジスタたちによるスペクタクルなサッカーシーンが際限なく繰り広げられているはずだ。「そうなんです。僕の頭のなかではバルサやレアルのようなハイライトシーンが流れているんですよ。こういう風にできたらいいのになぁというプレーは頭のなかにいっぱいあるんですけど、実際は、なかなか頭のようにはうまくいかないのが現実ですよね。サッカーには同じ場面がないし、だからこそ面白いわけだし」

 具体的な話をすると、例えば大橋が永遠の課題として取り組んでいるテーマがある。それは、「背後のプレー」なのだという。それを丁寧に説明してくれた。
「簡単に言うとボールをもっている人に対して、僕は正面に入っていっちゃうんですよ。そうすると角度がなくて背後が見えないですよね。でも、角度をつけて立つと、視野が広がりますよね。敵の位置もわかるし。それが背後のプレーの意味です。それは、きょうの練習でもありました。また、やってしまったな、と。その話で思い出すのは、マツさんがジダンと当たったとき、ほんのちょっとだけ空けていたらあっという間に前を向かれて取りにいけなかったそうです。小村さんからもマークをしていて前を向かれるのはイヤだと聞いたことがあります。そういう意味で、背後のプレーは大事なんです。僕は、どんと構えて、というタイプではないし、むしろプレッシャーをいやがってちょんちょんとボールを触りながら逃げていくんですけど、そうしながらも前を向くプレーを意識してやっていきたい」
 さらに大橋の説明は続いた。自分は、ボールに寄っていってしまう癖があるのだ、と。
「出し手との関係で、自分のタイミングでボールが来ないと寄っていっちゃうんですよ。どんと構えて待てない。相手が出してくれなかったときに寄ってしまうと距離が近すぎてしまったり、スペースが狭くなってしまいますよね。そういうのは、いまでもあります」

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ORIHICA とはいえ、今シーズンフロンターレに加入した大橋は、すぐにあることに気がついた。それは、初出場のFC東京戦の試合後に語った「フロンターレには、同じ感覚でサッカーをやれる選手が多い」ということだ。その感覚を試合のなかでも確かなものにしていくため、練習ではできる限りプレーの確認をして、コミュニケーションをとろうとしてきた。そして、「もっともっとチームメイトとサッカーの深い話をしてみたいんですよね」と照れくさそうに話した。

89「フロンターレで、思い描く形ができるというのは感じますね。僕ひとりじゃサッカーはできないですけど、僕を引き出してくれる選手がまわりにいる。もう半年ぐらいになるので僕のプレーもみんなわかってくれましたし、それぞれのやりたいプレーを僕もわかってきたので、もうちょっとうまくいけるんじゃないかと思ってるんですけど、結果がなかなか出てないので…。いくら紅白戦でいいプレーをしても試合で勝たなかったら意味がない。チームが勝つことが一番ですね。試合のビデオを観ると、ああすればよかったと思って、また僕の頭のなかでサッカーが始まるんですけど、反省ばかりもしていられないですし。フロンターレは注目もされて、勝たなければいけないチームなので、負けてしまった試合の後にもサポーターがバスを拍手で迎えてくれたときは申し訳ない気持ちになりました。でも、試合のなかで毎回違う課題も見つかって、ほんとにすごいちょっとですけど、フロンターレに来て自分が成長しているんじゃないかと感じています」

 そして、フロンターレで大橋の目指す先にあるもの、イメージはなんだろうか。
「サッカーを極めたいんです。自分のほしいタイミングでボールが来て、出したいときに味方がそこにいる、というのが簡単そうで一番難しい。あとは、ぽんぽんとパスを出しながらボールを走らせること。僕はトップ下しかできないと思うし、そこを極めていきたいんです。味方からも信頼されて、サポーターからも、もしかしたらセットプレーは期待されているかもしれないけど、それ以外にも僕がボールもったときになにをするんだろう?って思われるようになりたい。例えば、ロナウジーニョってなにするんだろうってワクワクするじゃないですか。それが、大きな意味での理想です」

「いま、本当に楽しくサッカーをやれています」とインタビュー中、大橋は繰り返した。
 二度と同じシーンはない、たった一度のプレーで最高の選択ができるように。それを繰り返すことで、大橋はフロンターレでサッカーを極めていく。

 [おおはし・まさひろ]
優れたパスセンスと精度の高いキックが持ち味の攻撃的ミッドフィルダー。4年連続ACL出場を果たすJリーグ唯一の選手でもある。1981年6月23日生まれ、神奈川県横浜市出身。168cm、65kg。
>詳細プロフィール

www.orihica.com

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ポロシャツ
5,040円が「2,990円」

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8,190円が「4,990円」

オリヒカ担当者から

今回で夏のコーディネイトは最終になりますので、最後はORIHICAの今季を象徴するプレッピースタイルです。きれい目のポロシャツは衿がクレリックカラーになっています。英国調のグレンチェックカーゴパンツを合わすのがいいでしょう。大橋選手は暑い中、お疲れ様でした。とても爽やかに着こなしてくださいました。

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