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 2007/vol.14

 「川崎市民で良かったよ!」

 2004年9月26日、笠松運動公園陸上競技場。J2第36節・対水戸ホーリーホック戦。圧倒的な破壊力で快進撃を続けていたフロンターレは、この試合で念願のJ1復帰を確定させた。試合後、ともに抱き合い、涙を流し、子供のように水をかけ合い喜びを爆発させる選手たち。そんななか、フロンターレのサポーターが陣取る一角の前にやってきた1人の選手がいた。地元川崎出身の箕輪義信だった。この頃には恒例となっていた勝利ゲーム後の拡声器によるパフォーマンス。照れながら観客席に向かって感謝の言葉を投げかける選手が多いなかで、拡声器を渡された箕輪義信は、しばらくの間、無言でサポーターのいるスタンドをじっと見つめていた。そして、箕輪コールを送るサポーターに向かってこう叫んだ。「俺、川崎市民で良かったよ」と。

「ジュビロからフロンターレにお世話になることが決まったとき、チームはJ2に降格することがほぼ決まっていました。あれから3年。あの日の試合は、長い年月をかけてようやく目標を達成できた瞬間だったんです。試合を終えて観客席に挨拶に行ったとき、心の奥底からいろんな感情が湧き上がってきました。あの頃はJ2独特の地方巡りの毎日でしたけど、サポーターの励ましがあったからこそ俺たちは頑張ってこられた。だから、J1昇格を選手やスタッフだけで喜ぶんじゃなくて、サポーターと一緒に喜びたいなって。どうしてあの言葉を言ったのか自分でもわからないですけど、自然と出ていたんですよね」

 1シーズンでJ2に降格した2000年途中にチームに加入。再出発を余儀なくされた2001年から主力選手として着実に力をつけていった彼にとって、右肩上がりで成長を続けていった川崎フロンターレというクラブは、みずからの姿を映し出す鏡でもあった。

「あの時期にいた選手はみんなそうでしたよね。俺もそうだし、宏樹もそう。チームの勝利のために必死になってプレーしていました。個人としての評価を気にする以前に、どうすればチームが勝てるのかということばかりに意識が向いていたような気がします。チームの成績に比例して自分のプレーも変わっていったと思うし、いろいろな経験を積むことができた。その成果が、ぶっちぎりのJ2優勝だったと思います」

 クラブとしてJ1再挑戦のシーズンとなった2005年は、チームとしても箕輪義信にとってもチャレンジという意味合いの濃い1年となった。

「当然、J1にはレベルの高いFWがたくさんいる。正直なところ、楽しさ半分、怖さ半分という気持ちでした。どんな結果になるかはわかりませんでしたけど、自分がJ1のレベルでどこまでできるんだろいうという意味では、勉強をさせてもらう試練の年だったと思いますね」

 シーズン序盤戦は勝ちきれない戦いが続いた。だが、2巡目に入ったあたりからは、どのチームに対しても自分たちのカラーを出しながらアグレッシブな戦いを仕掛けられるようになっていた。

「正直、1巡目の対戦は苦しかったですよ。またJ2に落ちるかもしれないという、先が見えない焦りもありましたし。相手のFWがどんな仕掛け方をしてくるのかわからない状態でしたから、様子を見なきゃいけない部分と、勝負しなきゃいけない部分のバランスを取るのがすごく難しかった。でも、2巡目から相手のやり方もわかってきて、じゃあ自分たちも積極的にチャレンジしていこうじゃないかと。そうしていくうちに対戦相手も『このチームはちょっと手ごわいぞ』ということになったんでしょう。チームとしても個人としてもレベルアップした確信を持つことができた1年だった気がしますね」

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みのORIHICA

 その頑丈な体躯を生かしたプレースタイルが当時の日本代表監督・ジーコの目に止まり、8月の東アジア選手権の際には突発性難聴という病気で代表を辞退せざるを得なかったものの、10月の東欧遠征に向けたチームに招集された。これは当時の最高齢での初代表選出であり、フロンターレ在籍選手のなかから日の丸を背負うプレーヤーが出たのも初という、ダブルでの快挙だった。だが、当時の彼は、喜びと重圧のなかで揺れ動く微妙な感情に支配されていたのだという。

「いまだから言えますけど、代表に選ばれたことが嬉しい反面、日の丸を背負うことを重く受け止めていました。当時は代表に呼ばれる選手がチーム内にいなかったから、どんなテンションでプレーすればいいのかわからなかったんです。これが代表を次から次へと輩出しているチームだったら、また違っていたんでしょうけど。変に意識してしまったんですよね」

 それは、長年固定したメンバーでともに歩んできたチームメイトに対しての複雑な感情でもあった。

「確かにあの頃はやることなすことうまくいっていました。いまなら何でもできるんじゃないかというぐらいに、心技体すべてが充実したプレーができていたんです。でも、上り調子のチームから俺1人しか選ばれなくて、勝手に気を遣ってしまった部分がありました。とくにうちはチームの和を大切にするクラブだからこそ、変に考えこんじゃったんですね。こういうときこそ謙虚にならなきゃって強く思ったし、自分1人だけの力だけじゃなくて、隣に周平さんがいて宏樹がいるからこそ選ばれたんだという気持ちがありました。俺は彼らよりも下手だと思いながらずっとプレーしてきたから、『代表? 俺じゃないんじゃないの?』という思いも頭をよぎりましたし。でも、代表としてプレーしたのは結局1試合で30、40分間の話だったし、よくよく考えてみれば代表はそのとき旬な選手が選ばれるんだなって、いまは割り切れるようになりましたけど」

 ただ、その「旬」なときにもう一度チャンスが巡ってきていたら、そんな悩みを抱えることもなかったのかもしれないと続ける。

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ORIHICA「ジーコからオシム監督に代わってから代表にも世代交代の波が押し寄せ、周りの若い選手がどんどん代表に入っていきました。正直、うらやましかったです。自分はといえば、最初の召集がかかった8月の東アジア選手権のときには病気で参加できず、10月の東欧遠征でも自分のプレーをアピールすることができなかったんですから。もし俺たちが1年早く、つまり2003年でJ1に上がっていたら、フロンターレから2人、3人が代表に選ばれてドイツワールドカップの代表メンバーに定着できたんじゃないかって、チームメイトと話したこともあります。出場時間は短かったですけど、実際に代表の最終ラインに入ってみて、改めて『うちの3バックってすげーな』って感じましたからね。だからこそ、うちの最終ライン3人で一緒に代表に行きたかったです」

 2006年。チームはJ1の水にもしっかりと馴染み、一時はリーグ戦の優勝争いに絡むほどの躍進を遂げた。この年は最終節でC大阪に勝利し2位に入り、リーグ戦優勝の浦和がこの年の天皇杯も制していたため、すべりこみでACLの出場権も手に入れた。我那覇和樹、中村憲剛といったチームはえぬきの選手が日本代表に選ばれるなど、クラブには相変わらず追い風が吹いていた。

「2006年は、最初からチーム内に『今年はやってやるぞ』という意気込みがありました。迎え撃つんじゃなくてこちらからチャレンジしていくんだと。チームの勢いもありましたし、みんな自信を持ってプレーしていました。対戦相手もJ1で2年目のチームにやられてたまるかという気持ちがあったでしょうけど、それでも怖いもの知らずでチャレンジを続けていきました。やっぱり勢いって大事だと思います。技術、戦術の差は当然あるけど、小手先だけのうまさで勝負をしても、どうしようもならないときがある。J2で優勝した2004年もそうでしたけど、この年は本当に波に乗っていたし、スペシャルなシーズンを送れたと思います」

  J1に上がって2年目のチームがリーグ2位に入るというインパクトを残した2006シーズン。2001年から積み重ねてきたものが、ここにきて花開いた。川崎フロンターレ、そして箕輪義信という名前は、川崎だけではなく全国のサッカーファンに浸透していった。クラブのもとには、数年前とは比べ物にならないほどの大量のファンメールが送られてくるようになったという。

「お客さんもどんどん増えていますし、自分たちのサッカーを見にきてくれているんだという幸せをひしひしと感じます。フロンターレのサポーターは家族連れが多いし、選手との垣根が低いから余計にそう感じるんですよね。本当にありがたいことです」

 そして2007年。昨シーズン2位に入った実績からフロンターレを優勝候補の一角と評する専門家も増え、クラブもタイトルを獲るという目標を打ち立てた。しかし、それは他チームからのマークがよりいっそう厳しくなることを意味する。対戦相手は「川崎は手ごわい」という印象を持ち、入念にフロンターレのサッカーを研究し、わずかな綻びを見つければそのポイントを徹底的に突いてくる。昨シーズンにフロンターレが仕掛けてきたような戦い方を、今シーズンは逆にやり返されている印象が強い。

「対戦相手の見る目が変わったのは確かに感じますね。偶然じゃなくて何回も同じプレーをやってきますから。ということは、意図的にピンポイントで狙ってきているということです。でも、やられっぱなしじゃ嫌だし、いつまでも同じパターンでやられるわけにはいかない」

 強豪と呼ばれるクラブは、栄光と挫折の歴史を繰り返しながら強くたくましくなっていった。フロンターレはその礎を築き上げている段階といえる。箕輪義信もその基礎を作った1人であるのは間違いない。揺るぎない自信、揺るぎない心。チームとしての強固な土台は完成しつつある。

「チームのパーツとしてもっと動きたいし、もっと良いサッカーをしたいというのは当然ですけど、個人的にはさらに燃えられるような何かを見つけたい。タイトルもそうなんですが、それとは別のモチベーションが欲しいんです。例えば2004年や2005年の頃ならば、代表になりたいという目標を持ってギラギラしながら毎日を過ごしていました。いまは年齢的なものもあるし、また代表にというのは違う気がします。でも、そうやってもがき苦しみながら先の見えない道を一歩一歩踏みしめていくということが、いまの自分に課されている永遠のテーマなのかもしれません」

 [みのわ・よしのぶ]
地元川崎出身の大型DF。1対1での攻防、
驚異的な高さを駆使した空中戦では
絶対的な自信を持つ、川崎が誇る"壁"。
>詳細プロフィール

www.orihica.com

ORIHICA's FASHION NOTE

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トップス

2ツボタン
コットンジャケット
16,800円

インナー

メタルボタンシャツ
6,090円
(ネクタイ 2,940円)

ボトムス

コットンパンツ
8,190円

オリヒカ担当者から

今回は秋に最適なコットンセットアップスーツです。メタルボタンが特徴のBDシャツにナロータイを合わせ、全体的にモード感を表現しました。ジャケット・パンツは単品での着用が可能なセットアップで、ビジネスからカジュアルまで幅広いシーンで活躍するアイテムです。箕輪選手ということで、一番心配してたサイズも何とかクリア。ご本人も自分のサイズにあう服があることに驚いていました。

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