2008/vol.01
Jリーグでもトップ級の手腕と評価される指揮官となった関塚隆監督。2008年もフロンターレで指揮を執る同監督を語る上で、欠かせないキーワードが「絆」と「情熱」だ。スタッフとの信頼関係を大切にしながら「チーム関塚」で勝利をものにする。サッカーに対する熱さを選手に伝え「闘える選手」を育て上げた。今年の新しいフロンターレも、関塚監督が熱い指導と采配で引っ張っていく。
それは「大安」の日だった。晴天に恵まれた11月の練習後。関塚監督がフロンターレの担当の記者を集めた。クラブ側に数日前に返答はしていたが縁起の良い日を選んで、2008年シーズン、もう一度挑戦する決断をしたことを明らかにした。「自分にチャンスをもらえるのは光栄なこと。みんなで作ってきたものをさらに来年、ステップアップできる一年になるようにしたい。それだけのパワーをこのチームは秘めている。全力でやりたい」
J1に昇格して2007年が3年目だった。関塚監督の頭の中に「3年がスパン」という考えがあった。だがクラブ側に迷いは無かった。関塚隆以外の人物は考えになかった。リーグ戦5位、ナビスコ杯2位、天皇杯4強。そしてクラブとして初めてのACLで日本チーム初の8強入りも果たした07年。タイトルこそ取れなかったが、フロンターレが「強豪」であることを改めて印象づけたシーズンでもある。チームの力は確実に上がった。鄭、久木野、養父という若手がJ1のトップレベルで活躍できるまで育った。黒津や森という新しいメンバーが日本代表候補に呼ばれた。
続投の要請オファーを受けてから決断をするまでに数日間の時をようしたが「成績の上でクラブとしての目標もある。やってきた路線で結果を残すこと。レベルアップしながら結果を残したい」と意欲的だ。そしてこう続けた。「07年は自分の中でいろいろ悔しい思いをしたというのがある」と来季へ向けた思いがもう次の1年へと駆り立てた。
成績でいえば就任後から右肩上がりだったといえる。しかし07年は悔しい思いをした年でもある。2月には左サイドとして期待したフランシスマールが左ひざじん帯断裂といういきなりのアクシデントに見舞われた。「村上がいい仕事をしてくれていたけど研究された時、リスクを負っても得点に持って行けるところの強さや、攻撃と守備のバランスをどう持っていこうか考えていた。それが過密日程によってうまくいかないところがあった」。
ACLがあり週2度の試合は当然のように続いた。戦術練習の量は減った。過密日程に音をあげる選手はいなかったが、疲労はピッチ上に表れた。負傷者が出て、球際での争いにわずかな遅れが見えるようになった。それが失点につながった。夏には7試合連続で勝ち星が奪えないときもあった。指揮官は正直に「悩んだ」という。戦術を変えるか、選手を変えるか。動くべきか、我慢をするべきか。「我慢だと思った。結果が出なくても、自分のやり方は変えたくないというのはあった。やるべきことと信じてやってきたんだから」と振り返る。どうやら”覚悟“も決めていたようだ。「それでも結果が出ないなら『指揮官を変えるしかない』と、クラブは判断するべきだと思った。そう考えていたよ」苦しい経験を振り返った。
しかし関塚監督の率いるチームは持ち直した。信じぬいた。自らを。自らが作った「絆」を。「このスタッフと優勝をめざしたい」とシーズン前から語っていた。関塚監督の仕事はまず自らのスタッフを100%信頼するところから始まると言っていい。「スタッフの結束は一年間やっていく上で絶対的に必要なものだと思う。スタッフが一枚岩になっているか。クラブのため、そのチームが結果を残すために。それが一番必要だと思っている」。
「絆」を大切にするエピソードもある。Jリーグで監督という仕事をスタートしたのはフロンターレでの04年からだが、数年前からその意志はあった。1993年から務めた鹿島アントラーズでのコーチの経験は長く、すでにJリーグで監督ができるS級ライセンスも取得していた。しかし02年には里内猛フィジカルコーチらスタッフがチームから離れることになった。「何人も一気にチームを出るわけにはいかない」。鹿島でスタッフの結束を作ってきたからこそチームに残る決断をした。
「絆」の大切さは鹿島で感じ、得たものだ。トニーニョ・セレーゾ監督らブラジル人監督らの下、選手に監督の意図するものを選手に伝え、選手の思いを監督に伝えた。「コーチとしてもやりがいがあった。お前はその役割をやれ、と言われたら責任を持って当たれた。監督と選手の間でうまくいかないところ、細かいところから監督の目や耳に入らないことは多分にある。大きくなってからじゃつぶせない。この問題はどこに問題があるか明確にする。変なこと伝えてしまったら監督ともっと信頼関係を作らないといけないと思ってやっていた」。
07年ナビスコ杯準決勝、10月10日の横浜F・マリノス戦。なかなか勝ち星が取れなかった夏期とは違うフロンターレの姿があった。敵地で2-1で完勝。相手の弱点をスカウティングし、分析を繰り返しそれを選手が遂行した結果だった。その2週間前敵地で得点を取れずACLは敗退してしまった。「相当悔しかった。相手の映像を見たときもう一つ上に行けると踏んでいた」。だがリーグ戦とカップ戦は違う。それを学び、生かしたからこそ、横浜に差をつけられた。勝利の後、関塚監督はこう言った。「高畠、今野の両コーチがしっかりと分析してくれたおかげです」。結束が生んだ完勝だった。
「自分が一人で全部できるとは思っていない。(スタッフに)自分の足りないところを補ってもらいたいと思っている。鹿島が強い時にはスタッフにまとまりがあった。確固たる組織が出来てきて監督やフィジカルコーチの役割が固まっている。何か問題が起きればどこに責任があるのかを明確にしていた」
スタッフとのコミュニケーションが取れているからこそ関塚監督の采配は的中する。4月の浦和戦では黒津を左サイドで起用する采配を披露。ホーム負けなしを続けていた浦和に対し、慣れないポジションだった黒津だが左サイドのドリブルから我那覇へゴールをアシストしている。8月の千葉戦では憲剛が激しいマークを受け、攻撃がうまく回らないのを見ると大橋を途中起用。大橋がフリーでボールを受け、カウンターからチャンスを作り試合を動かした。
「交代のタイミングというのは試合の中に入っていてその時、その時に感じるもの。シミュレーションは持っているけどまあ一番難しいよね。相手との兼ね合いで考えないといけないから。自分のチームの選手を良く知ることが大事。苦しくなったときにどうなのか。いろんな面で選手を把握しているかどうか。そこから割り出されて決断していくものだと思う」
関塚監督の頭には高畠コーチなどから得た相手情報や、マルセロフィジカルコーチから得た選手のコンディションが頭に入っている。「足りないところがあれば俺は選手ともスタッフとも直接話をする。すべてをインプットしていて選手の輝ける場面を作り上げることが仕事。それをサポーターも見たいのだから」。
指揮官がS級のライセンスを取得する際には舞台や映画の演出家や自衛隊の戦術家の講義も聞き、レポートも書いたという。「俳優とかをどうやって輝かせるか。一つの物を作り上げるという意味では共通の部分があった」と語る。仕事は違えども、選手の特徴や調子を細かく把握するのは一人だけではできない。そういう意味では関塚監督も一人の“演出家”と言える。
今年は新たにスタッフが1人加わる予定だ。新しいスタッフとの絆は、今年フロンターレが強くなるかどうかカギを握る1つの要素であることは間違いない。「俺はフロンターレがJ1に上がる時、このチームの組織を構築した上で結果を残せればいいと思った。俺がこのチームからいなくなって『関塚はあの時期にやったことは何だろう』と考えられた時、チームに何か残せればというのはある。こういうものを手がけてやったな、というのがあれば」。
ただ戦術や技術だけでは試合には勝てない。関塚監督が強いチームを作り上げられるのはサッカーに対する「情熱」があるからだ。それは宮本征勝さん(鹿島の初代監督。2002年肺炎のため死去。享年63)による影響が大きいという。まだ現役の頃、早大に入学した関塚監督が出会ったのがコーチの宮本さんだった。「宮本さんから得た一番大きいものは“情熱”だね。ここまで来れたのもあの人のおかげ。浪人して早稲田に入ってすごい存在感だった。あの出会いは俺にとって大きかった」。後に本田技研でプレーする時の監督であり、その後鹿島にコーチとして引っ張ってくれたのが宮本さんだった。結婚する際の仲人をしてくれた人でもあり、現在でも時を見てお墓参りをしている。
学生時代のある日、関塚監督がパーマをかけて練習場に現れると、一喝された思い出がある。「宮本さんは“パーマネント”って言っていたよな」と笑いながら振り返る。「頭をそんなにいじくるな。余計なところに神経をやる必要はないだろ」と怒られた記憶は今でも鮮明に残っている。 選手ならサッカーのみに、ピッチのみに全勢力を注げということだった。「選手は自分にマイナスのことはするな、サッカーマンとして成功したいならそこに没頭しろとよく言われたよ。練習と学業、仕事をしっかりやって、遊びたいときは遊べ、メリハリをつけろともね。ジーコ(元鹿島総監督、元日本代表監督)が鹿島で言ったことと同じだったね」。
「日本人はフィジカルが弱い」と練習後は週3回の厳しい筋トレを続けさせられたことも覚えている。だがそれが自らのプレーにプラスになり「継続は力になる」という教訓も得た。フロンターレでは週に1度。ゴールを至近距離で向かい合わせてのシュート練習を繰り返している。就任してから継続してきたことだ。それが我那覇や黒津、鄭というシュート力のあるストライカーを育てることになった。
07年は休む時間もなく情熱をサッカーに注いだ。9月までのハード日程の間に夫人と2人の子供を遊びに連れて行ったことは「1度もできなかった」という。試合が終わればまた2日、3日後に試合。家でのDVDを見て反省点を洗い出すことに負われた。時には欧州のサッカーを見て、「世界のサッカーの流れ」を選手に伝えたりもした。
08年。今年も関塚監督はサッカーに対する情熱をフロンターレに注ぐ。選手も誰もが「熱い」と言う関塚監督の情熱があるからこそフロンターレのサッカーはサポーターを引きつける。最後に同監督がフロンターレのファンへ新年最初のメッセージを寄せてくれた。
「明けましておめでとうございます。昨年は監督としてはタイトルを取って、サポーターの方と、一緒に喜び合いたいということを目標にしていましたが実現できなくて本当に申し訳なかったと思います。昨年は本当に苦しいときもサポーターの方が支えてくれたということをすごく感じました。サポーターとの距離がすごい近くに感じました。内容的なことを言ってくださるのは力になりますし、実際チームに力は付いたと思っています。これは全力で戦ってきたことの証しだと思っています。昨年実現できなかったことを今年新たに挑戦します。今年なお一層の声援をよろしくお願いします」
鹿島コーチなどを経て、2004年フロンターレ監督に就任。
1年でチームを昇格に導き、2006年はJリーグ準優勝、翌2007年のACLでは
浦和とともに日本チームとして初のグループリーグ突破を決めた。
1960年10月26日、千葉県船橋市生まれ。身長175cm、体重72kg
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