2008/vol.05
ピックアッププレイヤー:MF4/山岸 智選手
今シーズンの補強の目玉として、ジェフ千葉からフロンターレに加わった山岸智。「まだまだです」と本人も語るとおり、完璧にチームにフィットしたとはいい難いが、それでも“走る”ことをベースにした献身的なプレーは、フロンターレの左サイドに新しい風を吹き込んでいる。トータルバランスに優れたサイドアタッカーがチームと完全融合を果たしたとき、フロンターレは唯一無二の武器を手に入れる。コンビネーションが熟成されてこそ、イビチャ・オシムの申し子の本領発揮といったところだろう。
「兄の影響で小学校の頃からクラブチームには入っていましたけど、プロを意識したのはジェフの下部組織に入ったときぐらいからですね。当時はジュニアユースとユース、そしてトップチームすべてが同じ場所で練習していたんです。僕らが人工芝で、トップチームの選手が芝のグラウンドで練習をやっていました。クラブハウスも一緒だったのでプロの練習を間近で見ることができたし、ただ漠然とですけど、この環境でサッカーを続けたいなと思っていました」
ジェフ千葉のセレクション受けてジュニアユースへ入団した山岸。当時のチームのレベルは全国トップクラスで、夏の大会で全国優勝、冬の大会でも準優勝を果たした。当時FWだった彼は「天才」と評され、中学3年生にしてトップチームのサテライトリーグに出場。サテライトといえども、ジュニアユースの選手がトップチームの試合に呼ばれるのは異例のこと。山岸自身は「結果もついてきていたし、単純に楽しかった」と当時を振り返るが、この頃からチーム関係者の期待を集めていた事実がうかがえる。そんな山岸はジュニアユースからユースへと昇格し、プロサッカー選手への階段を一気に駆け上がっていく。
「市立船橋からも誘われていたので、高校でサッカーをやるかユースに行くか迷っていました。高校は高校で、また違ったポジティブな面もあるので。でも、高校サッカーだとプロの選手と接する機会がないし、クラブに残った方がプロの世界を身近に感じられるので、ユースに行くことを決めました。プロのスピードやフィジカルの強さに早く慣れるには、やっぱりユースでやるのが一番だと思ったので」
ジェフ千葉ユースに昇格した山岸は順調に成長。FWからトップ下にコンバートされ、2列目からの飛び出しという現在のプレースタイルの下地を身につけた。高校3年の夏にはトップチーム昇格が決まり、迷うことなくプロへの道を選んだ。
だが、エリートコースを進んできた山岸に、プロの壁が立ちはだかった。「それまではとんとん拍子に進んできましたけど、多くの選手がそうであるように、僕もプロ1年目は思うようにプレーができませんでした。当時の監督は紅白戦のような11対11の実戦練習を多く取り入れていたんですけど、その22人にも入れずにピッチの外でひたすらボール回しとシュート練習をしているだけの毎日。チームの輪のなかに入れない状況が続いて、このままじゃダメだと思いながらやっていましたね。あの頃はまず22人のなかに入ってやろうと、悔しさをバネにひたすら練習に取り組んでいた気がします」アマチュアからプロになり、サッカーに対する心構えにも変化が出てきたという。
そんな彼に、サッカー人生を大きく左右する出来事が起こる。イビチャ・オシム氏の監督就任だった。「オシムさんに抜擢されたのが最大の転機だったのは間違いないです。これは断言できますね。もう、それに尽きるといってもいいぐらい。あの人が日本に来なかったら、たぶん僕はここにいなかったでしょう。オシムさんの最初の印象ですか? 当時、開幕前のキャンプを韓国をやっていて、そこでオシムさんが合流したのが初対面だったんですけど、会ってみたら白髪であの形相でしょ。のそっのそっとあの調子で、僕らの方に歩いてきたことを覚えています。迫力ありましたよ」
イビチャ・オシム氏がジェフ千葉に来てから、練習メニューはがらりと変わった。それまでは標準を試合に合わせて練習は軽めだったのが、逆に練習の方がハードと思えるぐらいのメニューになった。イビチャ・オシム監督は地道な練習を積み重ねて走ることをチームの基盤とし、選手一人ひとりにオシムイズムを植えつけていったのだ。
「走れるようになったら、そこから選手それぞれが持っているものを徐々にプラスしていくことを、2年ぐらいかけて叩き込まれました。実際にめちゃめちゃ走らされたし、ここまで体を追い込んで大丈夫なのかなというぐらいハードでしたよ。でも、その練習が実を結んで結果として表れたので、これまでやってきたことは間違いじゃなかったんだなって。あの頃は90分間を通して相手チームよりも走ることができれば、必ず勝てるという意識を選手みんなが持っていました」
山岸は、じつにオシム監督らしいエピソードを話してくれた。「あの人の場合は一人を呼んでどうこう指導するタイプじゃない。練習のなかで、自分の発する言葉を自分で理解しろという感じでした。いわれてやるのは誰でもできる。いわれたことを理解して、さらに自分のアイディアを混ぜてプレーしろというんですね。でも、『こういうプレーもあるぞ』とアイディアを出してくれて、いざ同じようなプレーをすると『どうして同じようなプレーをするんだ!』って怒るんです。『俺のいったことをやっただけじゃ、お前のアイディアが何もないだろ』って。言葉の意味を深く考えること、それがオシムさんの“考えて走るサッカー”なんだなと思いました」
そんなイビチャ・オシム監督に潜在能力を見初められた山岸は、03シーズンの開幕戦でスタメンに抜擢される。プロ入り2年目、19歳のときだった。デビュー戦は「緊張しまくって、ボロボロだった。自分のところにボールがきたら全部ミス。前半の頭には僕のパスミスから失点してしまい、『これはダメだ』と思いながらプレーしていました」という。コーチ陣もすぐに他の選手をアップさせ、『山岸を代えよう』とイビチャ・オシム監督に進言していたそうだ。だが、監督は山岸を交代させず、そのまま後半も使い続けた。この決断が、彼のその後のサッカー人生を大きく変えることになる。前半はなかなか自分のプレーを出せなかったが、後半立ち上がりにゴールを決めて見せたのだ。プロ入り初出場の試合で初ゴール。ど派手なデビュー戦は、真の意味で山岸のプロ生活がスタートした瞬間でもあった。
「監督はたぶん僕のことを信じてくれていたんでしょうね。『前半最後の方でだいぶ良くなってきたから、後半も見てみよう』とコーチに話したらしいんです。ゴールを決めたときは頭が真っ白になってしまいました。あのゴールがなかったらいまの自分はないでしょうね。それぐらい重要なゴールだったと思います」
結局、その試合に山岸はフル出場し、チームは逆転勝利。ドラマチックなデビューを果たした山岸は、途中出場が多かったもののプロのサッカーに少しずつ適応していった。「やっぱり、最初にああいった試合を経験できたのが大きかったと思います。その年は途中出場が多かったですけど、20試合ぐらい出させてもらいました。少しずつ試合感覚をつかんでいったし、経験も積んでいけたかなって」
翌年の04シーズンも12試合で4ゴールと、開幕から好調をキープ。順調に経験を積んでいった。しかしその矢先、山岸は怪我を負ってしまう。セカンドステージの開幕戦に肉離れを起こし、治ったと思ったら再発の繰り返しで、シーズン後半戦を棒に振ってしまった。だがその怪我も、山岸自身にとってはいい転機になったという。「当時、フィジカルトレーニングをあまりしていなかったので、体が細くて67、8キロしかなかったんです。そこで怪我をきっかけに、体幹トレーニングで体を鍛えることにしたんです。リハビリ専門の施設に通って、一から体を鍛え直す日々が続きました。きついトレーニングでしたけど、それから体重が6、7キロ増えて、体もがっちりしてきたんです。それからですね、あまり怪我をしない体になってきたのは。怪我はすべてマイナスに働くと昔は思っていましたけど、実際に怪我をしてわかることも多かった。あのときの経験がいまにつながっています」
イビチャ・オシム氏から走ることを学び、怪我をきっかけに強いフィジカルを手に入れ、現在のプレースタイルを確立した山岸は、翌年の05シーズンは30試合に出場。ナビスコカップで初タイトルを手にするなど、チームの成長とともに山岸自身も着実に力をつけていった。
だが、チームのスタイルを築き上げてきたイビチャ・オシム監督が、シーズン半ばに日本代表監督に就任。ジェフ千葉の選手たちにとっては、まさに青天の霹靂だった。だが、恩師が代表監督に就任したことをきっかけに、山岸は日本代表のメンバーに選出されるようになる。
「オシムさんが代表監督になるかもしれないという話はちょこちょこと報道されていましたけど、最初は信じていませんでした。でも、実際にそういうことになって、正直驚きました。オシムさんに3年半見てもらって、その間に教えてもらったことは数えきれないです。ジェフで監督を続けてほしかったけど、こればかりは選手たちが決めることじゃないので。それはそれでプラスに考えるようにしていました」
イビチャ・オシム氏の後を引き継ぎ、息子のアマル・オシム監督がジェフ千葉の指揮をとったが、偉大なカリスマの陰で新監督も選手も苦しんでいた。山岸自身は06年、07年と、2年連続リーグ戦全試合出場を果たしたが、一時代を築いたジェフ千葉でのオシムサッカーは終わりを告げようとしていた。
「お父さんが偉大すぎて比べられる面があって、アマルさん自身、やりづらさがあったと思います。でも監督が誰であれ、やるのは選手だし、これまで作り上げてきたスタイルを貫いていこうとしていました。でも特に去年は阿部君(現浦和レッズ)が抜けて、坂本さん(アルビレックス新潟からジェフ千葉に復帰)も抜けて、誰がチームを引っ張っていくんだという状況からのスタートでした。難しかったのは事実です。代表候補が何人かいるようなチームでも、リーダーシップをとる選手が欠けているとなかなかうまくいかない。チームとして一体感を出していくには、気持ちの面が一番大事になので」
若いチームは、勢いに乗ればとてつもない力を発揮する。だが、負け試合が続くと一人、また一人と自信を失っていってしまう。チームはなかなか前に進めない状況になっていた。クラブとしても明確な方向性を打ち出せず、山岸の心のなかにあった「新しいチャレンジをしたい」という気持ちは抑えきれなくなっていた。
そして、山岸は移籍という決断を選択する。「本当に悩みました。下部組織の頃からジェフひと筋だったし、周りの人やサポーターからもいろいろな意見があったので。でも、優勝を狙えるチームでプレーしたい、そして何よりも僕自身がもっと成長したいという気持ちが強かったんです。いまが環境を変えるときなのかなって」
08シーズン、川崎フロンターレの一員となった山岸。人生初の移籍、そして代表のスケジュールとチームの開幕前合宿が重なったこともあり、山岸自身「まだ納得のいくプレーはできていない」と現状を語る。だが、技術、走力、サッカーセンスといった個人能力の高さに疑いの余地はない。あとは山岸がチームをどう生かし、チームが山岸をどう生かすかというところにかかっている。「入った当初の頃は自分の動き出しのタイミングを理解してもらえなくて、なかなかボールが回って来ずに苦しかったです。でも、一緒にやっていくうちに周りの選手の特徴もわかってきたし、前でボールを受けられる機会が多くなりました。でも、まだ動き出しの部分で見てもらえてないところがあるので、もっとサイドを使ってもらえるように周りと合わせていかないと。もっとやれると自分でも思っていますし」
第9節鹿島戦では、2アシストを記録。カウンターからサイドのスペースに飛び出した山岸のクロスが2ゴールを呼び、チームは逆転勝利を果たした。周りから使われることで生きる彼の特徴が出た試合だった。「あの試合はチームの守備がよくて、いい場所でボールを奪うことができたから、いいポジションでボールを受けて攻撃につなげることができたんです。僕はドリブルでしかけるタイプじゃなくて、周りとの連携で崩していくタイプ。だからこそ、もっと自分の動き出しのタイミングを理解してもらって、チームとしての連携を深めていかないと」
折しも、鹿島戦は山岸の誕生日だった。試合後、チームメイトからは手荒い祝福を受けた。山岸自身もひとつ結果を出したことで、自信を持って高い次元のプレーを発揮することができそうだ。サポーターも、山岸の実力を再認識しただろう。だが、自他ともに「もっとできる」と評するポテンシャルは、こんなものではないはずだ。チームの重要なパーツとして機能し、ゴールにアシストに大車輪の活躍を果たす日もそう遠くはないだろう。
「フロンターレは力のある選手ばかりだし、自分たちのサッカーを信じて戦えば必ずいい結果が出るはず。僕自身も移籍1年目で最初はバタバタしましたけど、これから落ち着いてしっかりとサッカーに取り組んでいきたいです」
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[やまぎし・さとる]
豊富な運動量と強いフィジカル、さらにサイドから中央に切れ込みゴールシーンに絡む得点感覚も併せ持った現代サッカーの申し子。 1983年5月3日、千葉県千葉市生まれ、184cm/75kg >詳細プロフィール