2008/vol.11
ピックアッププレイヤー:DF4/井川祐輔選手
今年、フロンターレに完全移籍を果たした井川祐輔。
フロンターレで勝負をしたいという心からの思いがあった。
このチームでタイトルを獲りたい。
それが、井川最大のモチベーションになっている。
完全移籍
2008年、井川祐輔は川崎フロンターレに完全移籍を果たした。
フロンターレに期限付き移籍したのは2006年のこと。それまでも所属するガンバ大阪を離れて、サンフレッチェ広島、名古屋グランパス、と2年半に渡って期限付き移籍を繰り返していた。もちろん井川にとって期限付き移籍は自分にとってプラスの経験であり、新たな土地に行き、新たな指導者や仲間のもと、刺激を受ける日々だった。だが、2008年に井川が選択したのは、所属先のガンバ大阪に戻ることではなく、2年間でしっくりと馴染んだ川崎フロンターレの「一員」となることだった。
「フロンターレは本当にいいチーム。居心地がよく、選手、フロント、サポーター、つながりがすごく深い。そうした取り巻く環境がすごくよかったし、いい空間が作れていると思うんです。地域密着で、アットホームなのがひしひしと伝わってきて、自分もその一員でありたい。フロンターレのためにっていう風に思えました。こういうチームだからこそ、タイトルを獲りたいんです」
さらに井川にとって強い気持ちがあったのは、本職のザゲイロとして3年越しとなる勝負をすることだった。センターバックとして試合に出たい。そういう気持ちが2008年を迎えるにあたり、溢れ出そうになるほど高まっていた。
そして、2008年、井川はチャンスを掴んだ。 「3年越しに自分がやりたかったポジションをやらせてもらえて、そこで結果が出せなければ後がないと自分では思っていました。年齢もそうだし、今後のサッカー人生を占う大事な1年になる。いろいろと考えて頑張ろうという気持ちでした」
3月9日、東京ヴェルディとの開幕戦に、プロ入り8年目にして初めてピッチに立った。自分自身を魅せようというよりも、リスキーなプレーは避けてしっかりと仕事をしようと井川は気持ちを落ち着けた。 「相当緊張もしましたよ。緊張もしたし、新たな船出だったのでワクワクと緊張が入り交じったような感じでした」
それから、レギュラーとして定位置を確保し、毎試合出続けることになる。ところが、フロンターレは順調な出だしとはとても言える状況になかった。フッキ突然の退団でチーム構想は狂い、4月には関塚前監督が体調不良により辞任した。
2006年、フロンターレに井川が入った頃、関塚前監督によく指摘されたことがある。 「プレーが荒い。ファウルをするな。90分間、コンスタントにプレーを発揮するように」
関塚が井川に求めたのは、右サイドのバックアッププレイヤーとしての役割だった。レギュラーには森勇介がいる。井川がピッチに送り出されるのはフロンターレリードで迎えた状況のときが多かった。そうした自分に求められる役割を少しずつこなしていくことで選手としての幅が広がった、と井川は言う。
「いつもどうやって試合を勝って終わらそうかということを考えていましたね。DFとして出たかったけど、チーム事情もあるし、森ちゃんのサブとして自分の役割をしっかり全うしようと考えていました。実際、プレーの質も幅も広がったと思っています」
そして、ガマンしてレギュラーを掴んだ。2008年の開幕からの数試合は、ともすれば、チームが崩れてしまいそうな状況のなか、「チームのまとまり、選手間の信頼関係の深さ」が逆境を乗り越えられたと井川は感じていた。とはいえ、自分が初めてレギュラーとして出たシーズンで、なかなかチームとしての結果が出ないことに悩みもした。 「結果が出なかったことがとても苦しかった時期でしたね。出続けるということはこういうことなのか、という難しさも感じました。結果がほしくて、ほしくてたまらなかったですね。コンスタントに1年通して出るのは初めてだったし、プレッシャーは相当ありました。でも、あの時期があったから、いま振り返るとこういう位置まであがってこれたのかなっていう風に思えます」
代表選出
5月、知らせは突然だった。
井川祐輔、日本代表選出の知らせに周囲は騒然となった。なにより、選ばれた井川自身が「ウソでしょ」と思ったという。
「だって、今年からですよ。レギュラーになったのって」
だが、その一方で、「Jリーグに慣れ、いい感じでプレーできていたし、それまでフロンターレで関さんやツトさんはじめコーチングスタッフが教えてくれたものが代表に通じるということを示せてうれしかったですね」
井川はチームを離れて日本代表として遠征に向かった。その後、約1ヵ月ぶりにチームに戻ってきた井川の「意識」は明らかに変わっていた。当時、こう話していたのが印象深い。
「今回代表に選ばれて、すごく感じる部分があったので、そういうのを胸に秘めてやりたいし、やらなくちゃいけないという意識が出た。練習とかチームの雰囲気とか学ぶべきものがたくさんあったので、よかったです。変わりました、ちょっと。行かなくちゃわからなかったこともあるし、やっと気づいたということもあった」
改めて代表のことについて今回、井川に聞いてみた。
「キャンプに行ってやっと選ばれた実感がもてた感じでした。オレ、本当に入ってたんだってね。その環境にいられることがうれしかったです」
井川にとって刺激になったのは、そこでともにプレーした代表選手たちの姿勢や意識の高さだった。とくに、同じポジションの中澤佑二(横浜F・マリノス)からは感じるものが大きかったという。
「祐二さんは駆け引きとかもそうだし、プレーの質が高く、自分から見ても頼りがいのあるプレーをする。私生活から意識が本当に高く、人間としてもすごくできた人で、自分もああいう風になりたいなぁと思いましたね」
遠征中、井川は散歩をするのが日課だった。そうした日常の何気ないひとこまもすべて井川にとっては刺激だった。
「ナラさん(楢崎)、能活さん(川口)、祐二さん、巻くんに、オレが入って散歩隊を作っていました。会話してても楽しかったし、代表でこんな風にうちとけるとは思っていなかったですね」
そして、何より国を背負って戦うことの重みをひしひしと感じた。
「ユース代表とか入っていたから似ている部分もあったんですけど、A代表は国をほんまに背負っているから戦う姿勢をすごく感じました。そういう舞台に立っていまの自分のレベルで活躍できるのかなと感じたことも確かです。祐二さんとかトゥーリオとか練習でも絶対に手を抜かないし、声もすごく出すし、背負ってやっている。そういう雰囲気をすごく感じましたね。それは、選ばれなければわからないことでした」
だが、今回の代表では井川にとってはベンチに1試合も入れなかったという苦い経験も持ち帰った。国を背負って戦う場所に行きながら、その一員としてピッチに立てなかったことは悔しかっただろう。それについて、どう感じているのだろうか。
「もちろん悔しかったですよ。結局は、使いたいと思わせられなかったということですからね。入ったはいいけど、ピッチに立って初めて選手は評価されるので、まだまだ実力が足りないんだなって痛感したし。でも、試合に出た人は出た人なりの課題があるだろうし、僕は出なかった人間なりの課題がある。また、ああいう舞台に行きたい。世界で戦いたいですからね。次は試合に出るという目標をもってやりたい」
そして、あの1ヵ月に思いを馳せ、こう締めくくった。
「自分は400メートルトラックでみんなが走っているとしたら、スタートラインに立てたという立場だったので、まずは立てたことに意義があると思う。今度はそこから走り出してみんなに追いつけるようにしないといけない。悔しい思いはしましたけど、今年フロンターレで試合に出て評価されたということはそれだけのパフォーマンスはしていた証拠。上半期はとんとん拍子すぎるぐらいでしたけど、早い段階でそういうスタートラインに立てたので、やり続けることが大事だといまは思っています」
やり続けること。選ばれ続けること。それが、井川の次のステップだ。それは、シンプルなことだが、とても難しいことだ。
「本当にそう思います。みんな当たり前に選ばれているけど、すごいことだと思いました。憲ちゃん(中村憲剛)にも言われました。1年通してずっとっていうのは難しいけど、振り幅を少なくするのがいい選手だって」
モチベーションと運
2008年のJリーグも残すところ、あとわずか。緊張感が続く戦いのなか、井川は大事に考えていることがある。それは、「メンタルで負けない」ということだ。
「最後は技術うんぬんじゃなくて、相手よりどれだけ勝ちたいか。スポーツはメンタルの競技だと思うので精神的に充実したチームが勝つんじゃないですか」
そう考えるようになった背景には、理由があった。
2003年シーズン途中、井川はジュニアユースから育ったガンバ大阪を初めて離れてサンフレッチェ広島に期限付き移籍をした。当時、広島はJ2で昇格争いをしていたが、川崎、新潟からの追い上げを受けている状況にあった。第3クールに入り、井川が加入すると7試合連続完封するなど結果を引き寄せ“シンデレラボーイ”として絶大な信頼を得た。ところが、翌年J1に昇格すると、出場機会を失い、再びシーズン途中で名古屋グランパスに期限付き移籍をすることになる。
だが、名古屋での1年半は、井川にとってもっとも「どん底」だったという。
「広島では評価されたと思っていたし、ちやほやされて自分はできるんやって思って天狗になってしまったところもあったと思う。でも、J1になり出番が減ってプレーの質も落ちて、その後、名古屋に行き、そこでも気持ちが復活できなかった。挫折ですよね。いま振り返ると、あの頃は、自分に自信がなかった。ミスしたらどうしようとかマイナスなことばかり考えて、やる前から自分に負けていました」
だが、いつまでもどん底でいたわけでは、もちろんない。井川は、徐々に気づき始めていた。その原因を作っているのが誰のせいでもなく、自分にあるということに。周囲から聞こえてくる言葉も消化できるようになってきた。
「名古屋にいたナラさん(楢崎)、アキさん(秋田豊)、トシヤさん(藤田)とか、みんなほんまにいろんなことをアドバイスしてくれました。もやもやとした時期だったけど、アドバイスしてくれる先輩たちがいたから、最低限でおさまったと思う。当時の監督だったネルシーニョは、『おまえは支えてくれる人たちがいっぱいいるし、そういう思いを胸に頑張りなさい』と僕に言ってくれた。あんまりいいパフォーマンスをしていなかった時期に、僕のことを気にしてくれてそれは本当にうれしかったですね」
名古屋で過ごしたシーズンの最後、井川は自分と同年代の若手選手が戦力外通告を受ける姿を目の当たりにした。そして、気づいた。
「自分にはチャンスを与えてくれている場所がある。与えてくれる人たちがいるのに、なんで頑張らへんのやろって。それが叶わない人もいるしサッカーを続けられない人もいるのに、なんで自分はこんな小さいことで悩んだりしているんだろう。へこんでる場合じゃないし、精一杯頑張ろうって切り替えられた。選手としてのパフォーマンスはダメだったけど、精神的におとなに近づけた時代だった。挫折があったから、いまの僕があると思っています」
だから、井川はフロンターレに来たときに、与えられた役割を全うしようとすんなりと自分が置かれた環境を受け入れることができた。フロンターレでの時間は、井川にとって選手として一からのリ・スタートだったのだ。そして、チャンスを掴んだ。
「僕は、努力はもちろんだけど、運もすごく大切だと思っているんです。花開くチャンスを掴むための日々の努力はもちろん大事です。努力の部分が足りなかったら話しにならないですけど、人生のなかで運をひきこむこと。それがモノをいうと思っています。サッカー選手としてもう一度輝きたいと思ってフロンターレに来て、いいチームに巡りあえたのも運だと思います」
そして、運を掴んだ先にあるものとは──。
「チームとしては、本当にタイトルを獲りたい。そのために努力をすることが自分がやるべきこと。個人的には、今後何年間もレギュラーの座は明け渡したくない。もうサブにはなりたくないです」
profile
[いがわ・ゆうすけ]
2008年、晴れて完全移籍で加入を果たした。昨季は本職のDFとしてだけではなく、右サイドで得点に絡む働きを見せて攻撃面でもアピール。今季はスーパーサブではなくレギュラー奪取を狙う。
1982年10月30日、千葉県成田市生まれ、182cm/75kg
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