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ピックアッププレイヤー

2009/vol.01

ピックアッププレイヤー:MF29/谷口博之選手

後悔しない生き方をする、というのは難しく、とても尊いことだ。
そして、楽しいことにも苦しいことにも必ず終わりはある。
谷口博之は、そのどちらにも気づいている。
サッカーのない人生なんて──。

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「北京五輪」を経て

 2009年2月。麻生グラウンドでの練習を終えた谷口博之は、いつものように居残って「自主練習」を始めた。今野コーチと矢野フィジカルコーチが、パスの出し手と受け手の役割を担い、ダイレクトパス、サイドチェンジなどの練習を淡々とこなしていく。少しずつ角度を変えながら、何度も何度も谷口はボールを蹴る。この光景を見るのは、もう慣れたものだ。おそらく1年半から2年ほど谷口の自主練習は続いているだろう。

 きっかけは、五輪代表の落選だった。
 2006年、谷口は五輪代表のメンバーとして活躍し、チームにおいてもボランチながら13得点を叩きだし、ベストイレブンにも選ばれた。ところが、2007年3月には五輪代表から落選。その頃、谷口はいつも考えていた。自分に足りないものはなにか、と。

「五輪代表に自分が呼ばれなかったときに、なにがダメかと考えた。縦への早いパスが出せてないことだった。前を見れてないし、出す自信もなかった。それを意識して、取り組み始めた練習。この練習をするようになって前への意識も高くなってきたと思う。ああいうパスは見てないと出せない。それまでケンゴさんに頼ってパス出してもらっていたけど、ケンゴさんがマークされてるときでも自分が出せるようにならないといけない。でも、それが試合中にできてるかというと、まだ自信ないんですけどね」

 谷口の自主練習のパートナーである今野コーチは、ある日、谷口から「サイドチェンジとか、FWにダイレクトに楔を当てる練習をしたい」と話をされたという。

「タニはすごい真面目で常に向上心をもってやってる。本当なら練習後にあんまり長い時間、蹴らせたくないんだけど、『もうちょっと』と言って続けたがる。だから、それをあと何本ってコントロールしているつもりです。それでもタニは、『ショート(短い距離のパス)ならもうちょっといけるよね』なんて言って、なかなかやめようとしないんですよね」

 2007年は五輪代表から落選の連続だった。だが、2008年夏、谷口は北京五輪の代表メンバーとして戦っていた。あきらめないでこつこつとJリーグで結果を出し、自分の弱点を補う練習に費やした時間が報われたのだ。招集された際には、練習試合で2ゴールを決め、ここぞの勝負強さを示し存在をアピールした。

 そして──。

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 北京五輪の日本代表で、谷口はトップ下でレギュラーとして出場した。予選リーグは、米国に0対1で敗戦、優勝候補のナイジェリアに1対2、そしてオランダに0対1。3戦3敗に終わった。チャンスが圧倒的に少ないなか、サッカーというスポーツに必要な「ゴール」をめざしひたむきにボールを追った。1戦目も、2戦目も試合が終わると、ホテルのリラックスルームでひとり試合のビデオをすぐに見て、なぜゴールが生まれなかったのか、自分と向き合った。日本唯一のゴールは谷口からの攻撃によるものだったが、トップ下でほぼフル出場を果たしながら、自らのゴールがなかったことを悔いていた。

04「ナイジェリア戦の、ミチ(安田選手=ガンバ)からのクロスに足で当てたのは、決めたかった。Jリーグでも外していたと思うけど、でも、決めたかった」

 谷口は、代表に自分が選ばれ、トップ下で起用された理由は、「ゴール」という結果を求められ、また期待されていたからだとわかっていた。「チャンスに強いのは自分の特徴」だと自覚もしていた。だから、北京五輪ではゴールにこだわりたかった。

「ソリさん(反町監督)も、だから俺を使ったと思うし、結果を残せなかったのは本当に申し訳なかった。トップ下で出て、やっぱり得点できなかったことが悔しかった。Jリーグで点を取っていてもあそこで取れなければ…。勝負弱かった。だから、もしかしたらフロンターレのファンには認めてもらえるかもしれないけど、日本のサッカーファンには認めてもらえてないと思う」

 北京から帰国したのが8月14日。その3日後のジュビロ磐田戦に谷口は先発出場して、ゴールも決めた。北京五輪後は、「海外」や「代表」という目標をハッキリと口に出すようになった。

「また海外で挑戦したいし、ワールドカップにも出たいという強い気持ちも生まれた。ぜんぜんかなわなかったわけじゃないし、気持ちもどんな相手であっても普通にできた。またチャレンジしたい」

 2008シーズンは、自ら「初めて納得したシーズン」だったと谷口は言う。2004年、フロンターレに加入し、関塚監督に「守備を覚えるように」とDFとしてスタートした。徐々に試合に出るようになり、2006年シーズンはボランチとしてベストイレブン。2007年は、悩みながらも弱点を克服しようと努めた。やがて、谷口はある変化に気づいた。

「Jリーグに出てから100試合ぐらいは頭の中が真っ白だったところもあった。でも、やっと2007年シーズンの終わりぐらいから少しだけ周りが見えたり、次のプレーが見えるようになった。次の次のプレーはまだ見えないけど。少しだけ成長した。だから、2006年シーズンなんてベストイレブンに選ばれたけど、納得できた試合はほんの2,3試合だけだった。でも、昨年は10試合ぐらいあった。周りの評価は点を取ったかどうかかもしれないけど、自分の評価は試合内容。たくさんボールに触って、ミスが少なくて、たくさん狙ったところでボールが獲れたかどうか、だから」

 谷口をプロ選手として育てた関塚監督は、体調不良で監督を退いてからも、五輪や五輪後の谷口のことを見守り、変化を感じ取っていたという。

「オリンピックから戻って、たくましくなったし、落ち着きが出て、考えてサッカーをやるようになったと思いましたね。世界の大会で感じたものを、Jリーグで表現していたように見えました」

 2008年、関塚監督は辞任後、体調が回復してから何度か等々力を訪れた。谷口がゴール前で「らしい」ゴールを決めると、誰に言うともなくこうつぶやいた。

「普段から労を惜しまず走っているから、タニのところにボールが転がってくるんだよなぁ」

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A代表招集

 経験を積んで、あっという間に過ぎ去った2008年が終わる頃、谷口は次なるステップに進むことになった。初のA代表への招集だった。海外組は不在ながらも、1月20日のアジア杯予選第1戦イエメン戦(熊本)へ向けての選出となった。オフ気分もすぐに返上、新年明けて1月2日から谷口は体を動かし始めた。1月10日から始まった合宿での新たな気づきと課題は「攻守の切り替え」だった。

「俺はそこが遅いタイプだけど、攻めていてボールを獲られたとき、そのまま取り返せたらもしかしたら一番のチャンスかもしれない。いままでは、獲られたら『あぁ』ってなってたけど、みんなが早く動くから、自分もつられて自然と体が動くようになった」

07 とくに、田中達也(浦和)などその動きの俊敏さを目の当たりにして「ええって思うぐらい」の速さを感じたと言う。10日間、レベルの高いところでの練習は、谷口にいままでにない刺激をもたらした。

「言われるよりもグラウンドで体感したほうが、よくわかった。本当にこれだけ短い期間でこれだけの刺激を受けたのは初めてだった」

 だが、悔しさもまた経験した。この合宿で招集されていたボランチはチームメイトの中村憲剛と鹿島の青木と谷口の実質3人だけだった。イエメン戦では中村がボランチに当確だと予想されたが、その相棒に誰を選ぶのか、自分もチャンスを掴みたいと当然、谷口は考えていた。だが、結局のところ、練習から中村とAチームで組んだのは青木のほうで、谷口はBチームのプレイヤーとして留まり、その後は名前を呼ばれなかった。

「でも、素直にすべてのことを受け入れています。残念ながら落ちてしまったけど、じゃあ呼ぶなよなんて思わないし、俺、オリンピックのときに何回もそういう経験はしているから、すぐ切り替えられた。サッカーを休みたいなんて思わないし、また選ばれるように頑張るだけ」

 プレイヤーとして「代表」に選ばれるだけの選手であり続けることの大変さと、どうしたら選ばれるのかということについても考えた。

「やっぱりちゃんとした武器がないと代表に選ばれるのは難しいなって思ったし、すごい感じた。普通のプレイヤーだったら呼ばれない。自分のもっている個性をしっかりJリーグで出したい。だから、そのためにもどんどんチャレンジしていきたい」

 そして、海外組もいるなかで、そのなかでも代表に選ばれることを谷口は新たな目標に掲げた。10日間の経験で、やれないことはないと感じた自分と、まだ足りないものがあると戒める自分の両方が混在しているようだった。

悔いのないサッカー人生

 2009年2月、宮崎県綾町──。
 この日、VWAテストと呼ばれる持久走がフロンターレのキャンプで行われた。45秒ランニングして15秒休憩し、再び45秒走る。最初の1回目は125メートルを走り、その後、休憩以降、6.25メートルずつ走る距離が伸びていく。45秒以内に規定の距離を走れなかった時点で終わり。自分を追い込めるかどうか、最後はメンタルが鍵となる相当キツイものだ。このトレーニングで28本を走った谷口は、チーム一の記録を出した。

 キャンプに帯同していた向島スカウトは言う。
「タニの強さは、メンタルだと思う。試合でも練習でももちろん手を抜かないし、最後まで全力でやる。それを続けられる精神力は、どこから来るのかと思う。きつくなれば妥協できちゃう練習を限界までやれるのはすごい。練習生を連れてくると、必ずといっていいほど『タニさん、すげぇ』って言うんだよね」

 向島が言っていた言葉をそのまま谷口に話し、なぜ限界まで追い込めるのかを率直に聞いてみた。すると、谷口はこんなことを返してきた。

「妥協とかすると、後からもっと走れたなぁとか絶対思うし、後悔すると思うから、それはいやだからね。限界というかそういうところでやってないと自分が伸びないと思うし。でもさ、限界なんてわからなくない? 本当に限界だったかなんてわからないでしょ」

 走りきってそこで「もうダメだ」とあきらめて終わる選手が多いなか、谷口は29本目も走り出した。そして、途中で間に合わなくなり走るのをやめた。

「ダメだと思っても、出だしたらいけたりするから。相当きつかったし、苦しかったけど、苦しいのなんて5分ぐらいだからね。本当に苦しいのは一瞬だけ。そんなの、あとから1日2日後悔するよりぜんぜんいいなって思う」

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 思えば、谷口のサッカー人生は決して順調ではなかった。小学校1年の時にサッカーを始めてから、サッカーが好きでサッカーがすべてだった。うまくなるために、とにかく努力を惜しまなかった。横浜F・マリノスのジュニアユース時代は、試合に出られない時期もあった。でも、どんなときも腐ることはなかった。

「俺、サッカーは努力のスポーツだと思うから。俺なんてちょっと背が高いだけで、あとは足は遅いし、うまくないしね。努力できることは、唯一自分のいいところかなぁ」

「妥協しないことを植え付けられた」というマリノスユースからトップ昇格をする際には、当時のトップチームの監督だった岡田武史から「No」の判定を下された。結果的に、その年のマリノスユースからトップチームにあがった者はいなかった。ユースの監督だった安達亮は、フロンターレのユースの指導者だった岩渕を通じて、谷口を見てもらうようフロンターレに頼んだ。

10 当時のことを高畠ヘッドコーチが振り返る。
「性格も申し分ない選手だということで、安達さんを通じて太鼓判を押されてタニは練習にきたんですよ。でも、最初は、プレーのよさが出てなかった。実際、1回でいいだろうという声もあがっていましたね」

 でも、高畠コーチは谷口をもう少し見たいと思ったという。
「実際、見るたびによくなって毎回、評価があがった。いま思えばタニは、家が近くて練習にすぐ参加できる距離だったこともプラスに働いてラッキーだったかもしれませんね」

 そうして、数回に渡る練習参加を経てフロンターレに加入。フロンターレでレギュラーを掴み取った。プロ選手になるまでの過程や北京五輪での落選の経験は本人にとって悔しさやショックもあっただろうが、でも、それでも「サッカーをやり続けることになんら変わりはなかった」と言う。挫折や失敗を通じて、「苦しいことにも終わりがある」ということを谷口は体に染み込ませていった。

 だからこそ、谷口は、「あきらめない」ことと「あきらめる」ことの両方を知っているのだ。
 あきらめなかったから、プロへの道が開けた。でも、全力で取り組んだ結果、失敗することや挫折があることも谷口は気づいている。

 大事なことは結果ではなく、過程にある。
「少ないサッカー人生だし。俺、サッカーとったら何もないからね。勉強もできなかったし。それに、あとから後悔して、あのときもっとこうやっとけばよかったなぁって思うのは一生いやだし」

 だから、大一番となる今後を左右するような決勝の舞台に立っても、極度に緊張することはないという。これだけのことを積み重ねてきたのだという過程において、谷口は絶対の自信があるからだ。

「気持ちだと思うよ。こんだけ一生懸命やってきて、もしも自分のミスで負けたら、自分のなかではしょうがないと思う。そこは、あきらめられる」

 2007年、ACL準々決勝セパハン戦でPKを外したときの姿がだぶって見えた。

「あのときも、あきらめたのは早かった。みんなには申し訳なかったけど」
 人が後悔するとき、それはきっと結果についてでなく、過程に悔やんだときなのだ。そうした当たり前のことを、谷口のサッカーへの取り組み方を通じて教えてもらった気がした。

「自分が努力して、それでもし結果が出なくたって、たぶん納得できると思うよ」

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未来へ──

 谷口は、サッカー選手としてまだ発展途上にある。2007年の終わりころに掴んだ、「次のプレー」を読むこと。それをもっと進化させていくためにどうしたらよいか、また日々の練習のなかで取り組んでいく。
「サッカーが読めて、次のプレーも読めて楽しいって思えるようになりたい。いまは急ぐときじゃないからサイドチェンジしよう、とか、いまはチャンスだから早く縦に出そうとかそういうのは必要。それにはもう1ランク、いや、もう3ランクぐらいあがらないと楽しいサッカーはできないと思う。だから、チャレンジしていきたい」

 代表での経験は、谷口に「個性や自分らしさを強くアピールしなければいけない」という気持ちにさせた。だが、未来を見たときに、谷口が感じているのは「すべての面でレベルアップをしたい」ということだった。

「だから、矛盾しているんだけど…。でも、そうやって流れが読めるようになったら本当に長くサッカーできると思うしね。だから、何年かかるかわからないけど、たくさん経験を積んで、いま、10のうちまだ2ぐらいまでしかできないから、幅を広げたい」

 代表では、大木コーチから言われた次の言葉が印象に残った。
「俺たちはみんなをよくしたいと思って言ってるんだ。だから、思ったことがあったら言い返したっていいんだぞ」
 その言葉を新鮮に受け止めた谷口だったが、「まぁ、でも俺はよくわからないから言い返せないんだけど」と笑った。

 今年はフロンターレの副キャプテンにも任命された。中村憲剛からも「もう主軸なんだから、自分だけじゃなく周りに対しても言っていかないと」とよく言われるのだという。
「どうも、それがうまくできなくて…。だから、俺はプレーでみせたい。俺の場合、確固たるサッカー論とかがないから。これだけスポーツ続けてきたら、みんな頑固だと思う。でも、俺はまだ若いし、全部受け入れたいって思う」

 いよいよ2009年のフロンターレがスタートする。もちろん、チームとしての目標は優勝だ。そのためには3年続いた「2位」という結果を乗り越えなければいけない。

「昨年はずっと優勝争いしていたわけじゃなかったから、優勝争いをしたという実感があんまりない。それに大事な試合を落としてしまったし。やっぱり2位が3回続いたのは勝負弱さがあるはず。じゃあそれをどうしたらいいかっていったら、ひとりひとりの意識だと思う」

 そして、再び代表にも選ばれるように、またきょうもサッカーをやるだけだ。
「代表で、またレベルの高いところでやってみたい」 

 一度きりのサッカー人生を悔いのないように。
 だから、谷口は「今」を生き抜いている。

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[たにぐち・ひろゆき]

豊富な運動量でピッチのあらゆる場面に顔を出し、チームに勢いをつける「川崎のロイ・キーン」。中盤で対戦相手のキーマンのマークについていたかと思えば、するするとゴール前に上がり決定的な仕事をやってのけるオールマイティーな存在。
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