2009/vol.02
ピックアッププレイヤー:DF5/薗田 淳選手
静岡生まれの静岡育ち。サッカーが盛んな土地柄の影響か、物心がつく前から自然と
ボールを蹴って遊んでいた。そんな薗田がプロのサッカー選手を目指すようになったきっかけとは。
紆余曲折を経てストッパーに行き着いたという彼のサッカーのルーツに迫る。
「薗田のことは2年生で選手権の県大会で優勝して、これからチームの中心選手になる選手というのを聞いていました。リキ(杉山)と一緒に国体メンバーにも入っていて、これから出てくる選手だろうとチェックしていたんです。もともと攻撃の選手なので足下もうまいんですよ。高校時代は守備だけじゃなくて、後ろからするすると上がって攻撃参加するシーンも目立っていました。DFとしての経験は少なかったですが、気持ちが強くてリーダーシップを発揮していましたね」(向島建スカウト)
プロサッカー選手への憧れ
小学校時代のポジションは攻撃的MF。チームは市の大会で優勝を果たし、薗田個人も県選抜や東海トレセンのメンバーに入った。その頃はディフェンスにはまったく興味がなかったそうだ。そんな薗田には憧れのチームがあった。それは地元のサッカーチーム、清水エスパルス。親に日本平スタジアムに連れられ試合を観て以来、薗田の夢は「プロのサッカー選手になる=エスパルスのユニフォームを着ること」になった。
「澤登さん(澤登正朗)がプレーしていた頃ですね。あとはヤスさん(三浦泰年)。みんなカズさん(三浦知良)のことが好きだったけど、僕はだけはなぜかヤスさんに憧れていました。プレースタイルも何も憶えていないんですけどね」
そんな薗田が清水エスパルスのジュニアユースのセレクションを受けたのは、当然の流れだった。だが、静岡市内の多くのサッカー少年のなかで最終選考の4次試験まで残ったものの、夢は叶わなかった。それでもエスパルスのユニフォームを着たくて、その下のカテゴリーのエスパルスサッカースクールのセレクションを受けて合格。だが、スクールはプロとは別組織であり、トップチームには直結していない。強いチームでサッカーをやりたいという希望を持っていた薗田は、進路を悩んでいた。そんなときに薗田に声をかけたのが、彼のひとつ上の年代からプロ指導者を導入し、サッカー部の強化をスタートさせていた中高一貫教育校の常葉学園橘だった。
「地元の大会の決勝で清水エスパルスのジュニアユースと当たっていたんです。そこで常葉学園橘中学校のことを知りました。自分の代が強くなるかどうかは正直、未知数だったんですが、清水の選抜チームのリスペクトしていた選手たちも入るというので、彼らと一緒にチャレンジしようという気持ちになったんです」
常葉学園橘に集まったのは、薗田と同じく清水エスパルスのジュニアユースチームに入団できなかった者たちだった。彼らの合い言葉は「みんなでエスパルスを見返してやろう」。毎日のようにこの言葉を口に出し、毎日練習に励んだ。その結果、常葉学園橘は全国中学校サッカー大会で優勝を果たすことになる。
だが、本人いわく「中学時代は納得のいくプレーはあまりできなかった」そうだ。2年生まではFWだったが、得点を挙げることができず、試合に出られない時期もあった。そこで薗田は中学2年生の終わり頃、紅白戦でサイドバックの選手と相談してポジションを交換しないかと持ちかけた。コーチからの勧めもあり、その試合を境に右サイドバックが薗田の定位置になった。
「何かきっかけが欲しかったんです。ポジションを変えることで何か発見があればと思って。それがうまくいって楽しくプレーできたし、新鮮でした。いま考えると、新しいものを求めていたのかなって」
その後も他の選手にポジションを奪われる時期があった。ファーストプレーがうまくいかず監督に怒られ、試合開始3分で交代させられることもあったという。ときには、薗田の代わりにGKの選手をフィールドプレーヤーとして出場させられたこともあった。これほど屈辱的なことはないだろう。だが、監督は怒りながらも薗田をスタメンで使い続けた。それは彼にサッカー選手としての可能性を見出していたからだろうか。
「正直、『何でだよ』という気持ちはありました。けど、何も言われなくなったら終わりだと思っていたし、両親にも『それは淳に何か伝えたいことがあるからじゃないの』と言われていて、それを頭に置きながら練習していました」
「僕が3年生のときにソノが2年生で、静岡県大会の準決勝で当たって完封されました。苦い思い出です。ソノは2年から国体メンバーに選ばれていたし、体もがっちりしていました。高校生では頭ひとつ抜けた存在でしたね。橘ではディフェンスの中心でした。国体のときに普通に話していたけど、ライバル校だったので試合が近くなるとお互い話さなくなるんですよ。ソノはすごくマイペースな性格ですね。でも、やらなきゃいけないときはしっかりできる。プロに入って3年目で声も出るようになってきたし、後ろから見ていて安定感が出てきたように感じます。慌てる感じがないので、GKとしてもどっしり構えられるんですよ」(杉山力裕、静岡学園出身)
「県内ではライバル同士と言われていましたし、高校生の頃から何度か対戦しています。相手に回したら嫌な選手ですよ。体もひと回り大きかったし。選抜で一緒だったときに、フロンターレに練習参加したときのことを聞いたりしていました。自分の意見を持っているし、しっかりしています。いつかリキさんとソノと一緒に、静岡のチームとの試合に出たいですね。きっとソノもそう思っているんじゃないですか」(杉浦恭平、静岡学園出身)
転機、そしてストッパーへ
高校に上がる頃には身長も伸び、プレーに自信を持てるようになっていた薗田は、再びFWでプレーするようになった。プレー自体はさほど悪くなかったものの、最初の大会で点を取れず、試合には出たり出なかったりという時期が続いていた。
そんな薗田に転機が訪れる。
高校1年生の夏、県リーグの大会、清水商業戦での出来事だった。試合前日に1学年上のレギュラーのセンターバックが不測の事態で出場できなくなり、急きょ薗田が代役を務めることになったのだ。
「清水商業といえば強豪だし、3年生主体のメンバー。僕らはというと1、2年だけのチーム編成でした。でも、そこで清水商業に勝ったんです。ディフェンスの経験があったし、1対1では負けない自信があったので、緊張もせずに強豪を倒してやろうと楽しみながらプレーすることができました。それからDFの先輩とポジションが入れ替わったんです。攻撃から守備の選手にコンバートされるのは二度目ですね。トップ下、FW、サイドバックやサイドハーフもやって、最後に行き着いたのがセンターバックでした」
薗田が頭角を現すのとときを同じくして、常葉学園橘高校も躍進した。中学から高校の6年間の長いスパンで鍛えられたチームは、1、2年生だけのチームで高校選手権県大会で決勝に進み、薗田が2年生の頃にはサッカーどころの静岡県大会で優勝。高校選手権全国大会出場を果たす。薗田自身はU-17日本代表にも選出された。サッカー関係者からの注目度は一気に高まっていった。
「そのあたりからですね。同世代のトップレベルを知ったのは。内田(現鹿島)や香川(C大阪)もいたし、全員オーラがありましたよ。同年代だけど話しかけていいのかなって。自分よりうまい選手しかいませんでした。でも、実際に肌で感じてプロへの意識はより高まりました。高校では1年生で試合に出させてもらっていて、頭のどこかで自分は頑張ってるだろうという気持ちがあったと思います。そんなときに代表に呼ばれて上には上がいることを知って、目標が明確になりましたね。いい時期に呼んでもらったと思います」
「その年の静岡県ナンバーワンFWと言われていた杉浦と、ナンバーワンDFの薗田を獲得することができました。2人とも年代別代表に選ばれながら怪我をして帰ってきたりと、まだチャンスはものにできていませんが、技術的にどんどんレベルアップしているし、体もできあがってプロでやっていくだけの下地を身につけたと思います。薗田は今年、背番号5番をもらいました。クラブからの期待度が高いのがわかりますよね。トップチーム初出場だったACLでの試合では、急きょ出場したのに落ち着いてプレーしていました。本番に強いタイプなんじゃないですかね」(向島)
夢をかなえ、その先へ──
つねにプロになることを考えてサッカーをやってきた薗田にとって、大会で勝ち上がることは長年の夢に向けた階段を一歩一歩登っていく行程でもあった。高校卒業後の進路希望は、当然プロ入り。Jリーグ4チームに練習参加し、プロのレベルを体感したことで、さらに高いレベルを設定してトレーニングを続けた。
フロンターレの練習に参加した思い出をこう語っている。
「紅白戦にちょっと出させてもらってジュニーニョと1対1でマッチアップしたんですけど、スピードについていけず尻餅をついちゃったんですよ。それが僕自身も周りも印象に残っていて、いまだにそのときのことを言われますね。僕が練習に参加したのは6月なんですけど、チームはシーズン終盤には優勝争いを演じていました。FWが強力で、中盤にいい選手がいて、DFも1対1に強い。Jではナンバーワンのチームじゃないかなと感じていました。このチームなら毎日いい環境で練習ができるし、DFも代表クラスが揃っていて吸収できるものがあるんじゃないかなって」
薗田がオファーを受けたチームのなかには、子供の頃に憧れていた清水エスパルスもあった。橙のユニフォームに袖を通したいという気持ちはなかったのだろうか。
「よく聞かれますけど、やっぱりエスパルスを見返してやろうという気持ちがありました。チーム自体は嫌いじゃないですけど、中学の頃から打倒エスパルスでずっとここまでやってきたわけだし、エスパルスに入るとエスパルスは倒せないじゃないですか。子供の頃によく試合を観に行った日本平スタジアムのピッチに立って、ブーイングを浴びてみたいと思ったんです。地元に帰ってきて、逆に嫌がられるような選手になりたい。あとは親に迷惑ばかりをかけていたので、静岡から出て自立したかったという思いもあります。静岡から離れることで、親のありがたみを知ることができるんじゃないかなと」
薗田の初お披露目は、その日本平スタジアムだった。2006年11月23日、第32節清水エスパルス戦のハーフタイム。向島スカウトに連れられサポーター席の前に立った当時高校生だった薗田は、ハンドマイクを握り初々しく挨拶を行った。
「いきなり建さん呼ばれて挨拶をしようと言われたのでびっくりしました。こんなことまでやるんだ、これがフロンターレかって(笑)。頭が真っ白で何を言ったのか憶えていないんですよ。でも、サポーターの熱気がすごかったし、皆さん歓迎してくれました。嬉しかったです」
この日から「静岡屈指のDF」は、「川崎フロンターレの薗田」としてサポーターに受け入れられた。
「最近は高卒の選手がすぐにプロで活躍するのは難しい状況です。よほどの武器がないと厳しい。とくにDFならなおさらです。じっくり時間をかけてプロのディフェンスを学んで、試合に出る準備をしておいてほしいです。うちは周平や宏樹といういいお手本がいるので、ただ漠然と練習をするんじゃなくて技術を盗んでほしいですね。FWにしてもいろんなタイプの選手が揃っているので、DFとしては毎日いい練習ができていると思います」(向島)
「DFは勢いだけではできないポジション。1年目はそういうこともわかっていませんでした。高校でできたことがプロでできるかというと、全然できない。いままで自分流でやっていた部分が多かったので、プロに入った当初は土台すらできていない状態だったと思います」
今年でプロ入り3年目を迎える薗田だが、トップチームでの公式戦出場は1年目のACL予選リーグ、アウェイでのバンコクユニバーシティ戦の1試合のみ。前半終了間際に佐原秀樹(現FC東京)が足を痛めたため、急きょ出番が回ってきたのだ。薗田は慌てることなく試合の流れに乗り、そつのないディフェンスを見せた。向島スカウトが言うように、本番に強いタイプなのかもしれない。
だが、練習中からアピールできなければ若い選手には出番は巡ってこない。ディフェンスの選手は、経験豊かな即戦力が求められる傾向が強い。薗田も例外ではなく、DFのローテションになかなか入り込めない状況だ。いかに安定したパフォーマンスを続けられるかが、今後の課題になってくるだろう。
いままで身体能力だけでプレーしてきた薗田にとって、プロに入ってからは発見だらけの毎日だった。だが、関塚監督や高畠コーチ、エジソンコーチの指導のもと、ゼロの状態から武器を集め、いまではDFとしての引き出しが格段に増えている。チームメイトから指摘されてきたことも頭に備わった。プロ入り当初はあまりのレベルの差に萎縮してしまうこともあったが、トレーニングを積むごとに技術的にも精神的にも強くなっていった。
何よりも、薗田にはどんなことも柔軟に吸収していける「若さ」という武器がある。
ほぼ毎日といっていいほど、全体練習後もグラウンドに残ってひたむきにボールを蹴り続ける薗田の姿がある。サッカーのことを嫌いになったことは一度もない。ずっと「プロになるんだ」と自分に言い聞かせながらここまでやってきた。完成されていないからこそ、その伸びしろは計り知れない。彼のサッカー人生は、着実に次のステップへと向かっている。
「いつどんなチャンスがあるかわかりません。少しずつですけど、成長した部分を自分でも実感することができています。プロに入るまでにもいろいろな壁にぶつかりましたけど、何とか乗り越えてきてきました。実際にいまこうして自分の夢がかなっているわけですから。だから次の目標は現状に満足せず、トップチームに絡んでいくこと。これしかないですね」
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[そのだ・じゅん]
強さと技術を持ち併せた期待の若手DF。これまでリーグ戦での出場はないが、AFCユース選手権メンバーに選ばれるなど、潜在能力の高さに疑いの余地はない。
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