2009/vol.03
ピックアッププレイヤー:DF13/寺田周平選手
昨年、32歳で日本代表に選ばれた寺田周平。
その知らせにチームメイトも家族も友人もチーム関係者も寺田を知るすべての人たちが喜んだ。
努力の日々を積み重ねた、その先に、寺田がいた場所とは?
中村憲剛が語る寺田周平
2009年3月11日、ACL初戦となった天津泰達戦がホーム等々力で行われた。3月とは思えない極寒のなか多数のサポーターが平日夜にもかかわらず駆けつけた。フロンターレは「生涯初」というレナチーニョのヘディングゴールで1対0で逃げ切った。毎試合の目標としている「0」で試合を終えたフロンターレのディフェンダー寺田周平は、安堵の表情で、守備陣たちとハイタッチを交わした。
この日の試合後の代表インタビューは、寺田と中村憲剛だった。ゲームキャプテンである中村がサポーターに向けてより一層大きな声で挨拶をする。 「めざすは優勝。応援よろしくお願いします」
それに続いて、寺田が「しっかりと準備して次も勝ち点3をとりたい」と落ち着いた声で話した。そして、ふたりは揃ってバックスタンドに向かって走り出し、すでに挨拶を済ませていたチームメイト同様に、並んでサポーターと万歳をして喜びを分かち合った。
走っていくふたりの後姿を見ながら、2004年のあるシーンを思い出していた。
2004年4月10日、J2対湘南戦。この年、フロンターレは前年の「勝ち点1」差でJ1昇格を逃し、関塚監督を招聘して新たなスタートを切っていた。前半5分、ジュニーニョからのパスで久野智昭(現下部組織コーチングスタッフ)がゴールを決めると、久野を中心にゆりかごダンスが始まった。それから選手たちはベンチに向かって走り出した。
向かった先には、控え選手としてベンチに座る寺田周平がいた。
関塚監督が、「寺田、来るぞ!」と声を掛けた。 同じく控え選手としてベンチにいた中村憲剛は、「周平さん!周平さん!」と興奮気味に呼びかけた。それは、前日に生まれた寺田周平の長男・周太誕生を祝福するゆりかごダンスだったのだ。
思いがけず祝福を受けると、寺田はみんなに促されるようにベンチを立って照れくさそうに一歩前に出て「どうも」と言うかのようにぺこりと頭を下げた。その日、同じくベンチにいた長橋康弘(現フロンターレ下部組織コーチングスタッフ)とは、試合後こんなやりとりがあった。
「試合前にオカ(岡山一成)が、ジュニーニョとかに『ゴール決めたらやりなよ』って言ってたんだよね。みんなのゆりかごがすごいまとまってて、ケンゴとふたりでベンチで『すげぇ、まとまってるよ!』ってちょっと感動するぐらいだった。あれ、周平、泣くとこだよ」
そう長橋に言われて、寺田がうれしそうに表情を崩した姿が思い出される。
振り返れば、このとき、憲剛と寺田は控え選手としてベンチにいたのである。この日の観客数は6,361人。その後、すぐにふたりは、ほぼ同時期にスタメンの座についた。そして、あれから数年が経ち、いまではフロンターレの主軸となり、日本代表選手になるまでになった。そんなふたりの歩みとともにするかのようにフロンターレもその年にJ1昇格を決め、いまではJ1で優勝争いをするチームになった。そういう意味で、寺田周平について今回書くことになり、誰に話を聞くかと考え、中村憲剛の名前を真っ先に思いついた。
そうした意図を話すと、憲剛は笑顔をみせた。
「そうだよね、2004年のあの頃まではふたりともベンチにいたんだよね」
中村憲剛がフロンターレに加入したのは2003年のこと。加入当時、寺田のことを「日本人でいちばんうまい選手だと思った」と憲剛は言う。
「だって、あれだけ背が高くて、あれだけうまくて、速くてって選手っていないでしょう」
それでもなぜ試合に出ないのかと不思議に思ったが、やがてそれまで怪我が多かったことを知る。本人からも「いま、じっくりやっているところなんだ」と聞いた。
当時のことを振り返り、憲剛はこう切り出した。
「いまだから言えるけど、周平さんは絶対にあの頃のほうがいまより老けていた。だってあの頃の周平さんっていまの俺ぐらいの歳でしょう。やっぱり怪我をしていたこともあっただろうし、気持ちの面かもしれないよね。周平さんって本当に年々若くなっていくし、年々うまくなっている気がする」
2004年シーズン、サブメンバーとして交代出場してた寺田と中村は、第9節5月2日対京都戦で同時にシーズン初のスタメンに抜擢された。先にスタメンに定着したのは寺田で、憲剛も相馬、鬼木、久野らベテラン選手に追いつけ、追い越せとばかりにすぐにスタメンとして名前を連ねるようになった。
「だから、あの年が周平さんがリベロ、俺がボランチで出た原点。そこからスタートだった」
フロンターレのいまの「形」の原型が生まれた瞬間だった。そして、憲剛はこう続けた。
「俺は前にジュニーニョ、後ろに周平さんがいたからボランチとして育てられたと思う。周りの選手が変わってないから、その環境のなかで要求に応えたり、話し合いながらプレーができたから」
そうして、やがて憲剛は2006年に日本代表選手として選ばれ、時を遅くして昨年4月、32歳にして寺田も代表に初招集された。
「周平さんは、もっと前から入っていてもおかしくなかったと思う。タイミングがそうなっただけ。でも、逆に周平さんが入ったことで年齢とか関係ないってことは言えるよね。まじ、すごいよ。俺が怪我を何度も経験していたら、さすがの俺でも心が折れるかもしれない。だから、あのメンタルはすごい。若い選手に見習ってほしい」
思えば、憲剛はまったくの無名選手から滑り込むようにフロンターレに加入し、そこから日本代表にのぼりつめた。寺田は、1999年に加入し開幕スタメン、将来を嘱望され、しかし怪我で数年間をリハビリに費やし、そこから再生して代表選手にまで手が届いた。明確に「日本代表選手になる」という目標を掲げていたわけではなく、その日だけを見つめて、その積み重ねの結果、代表選手になったという点でふたりは共通している。
「俺も周平さんも、確かに代表のことなんてまったく考えてなかったからね。でも、もちろん有限実行する人たちもすごいんだよ。それはどちらも同じこと。ただ言えるのは、周平さんは『次の試合をがんばろう』じゃなくて『明日の練習がんばろう』って言う人。そこは、周平さんを見習うところだし、俺もそうだから共感できるんだよね」
32歳で代表選出へ
2008年4月、フロンターレ強化部庄子春男は、練習前のクラブハウスで寺田を手招きした。
「周平、代表候補合宿に呼ばれたぞ」
それを聞いた寺田は、心の底から驚いたという。
「うれしいというよりも、ええっ! やばい。俺なんかじゃまずいんじゃないかって正直思いました」
寺田の代表選出を、寺田を知る人たちはみな、大きな喜びと深い感慨をもって受けとめていた。
まず、寺田がしたことは、家族や大学時代の宇野監督はじめとするお世話になった方々に報告の電話をすることだった。また、寺田を加入当初から知りリハビリをずっと担当してきた境トレーナーに報告しにトレーナールームに向かった。多くの人がそうだったように、境は寺田の代表選出をこれ以上ないというぐらいに喜んでいた。
「僕は、『やっとか!』という気持ちでした。周平は、僕に報告してくれたとき、『やったよ!』という感じではなくて、『庄子さんからすごいこと言われたんだけど…』って、周平らしい言い方でしたね。その夜、周平のことを診ていた武田ドクターと電話で話したんですけど、先生は号泣していましたね。通常、チームの選手が選ばれるとき、代表のドクターから体の状態がどうか? といった連絡が事前に入ることもあるんですけど、今回、周平の場合はなにもなかったので、本当にびっくりしましたけど、うれしかったですね」
武田ドクターは2008年の寺田への年賀状に「俺は周平が代表のユニホームを着ることをあきらめてないからな」と綴っていた。それを目にした寺田は「先生、要求高いなぁ」と笑ったが、それから半年も経たないうちにそれが現実となったのである。
寺田の携帯にはメールが続々と着信したが、その最初の1通目が長橋康弘からだった。
この日、同時刻にフロンターレのクラブ事務所でも寺田代表選出の知らせにスタッフたちが沸きに沸いてていた。そこへ長橋が事務所に戻ってきた。
「ヤスさん、周平さんが候補合宿に選ばれました!」
それを聞いた長橋は、いつもの冷静さをまったく欠いていたという。
「えっ? 周平が? 代表? ホントに??」
それから、「周平、選ばれたかぁ。ホントによかったなぁ」とつぶやきながら、席についた。そして、寺田に祝福のメールを送った。
1997年からフロンターレに所属し2006年に引退後、現在フロンターレの下部組織のコーチを務める長橋は、長きに渡ってフロンターレの右サイドに君臨した選手だ。的確な技術で、チームに貢献するプレーを徹底したフロンターレ激動の時代の功労者である。その長橋は、現役時代、もっとも影響を受けたのが寺田だったと、引退のインタビューのときに話していた。
「肉離れでリハビリをしていたときに、周平(寺田)と仲良くなった。周平はリハビリしている間、ものすごく一生懸命に治して1日でも早くピッチに立ちたいという気持ちが、その取り組み方から伝わってきた。それまで俺は大きいケガをしたことがなかったから、そういう人の辛さがわからなかったし、もっと頑張らなきゃダメだって思って、意識がすごく変わった。いま、ふりかえるとサッカーがあったから出会えた人。確実に今の俺を作るうえで影響を与えてくれた出会いは、人生においても意味のあることだと思う」(長橋)
フロンターレ強化部の庄子はじめ、フロンターレのスタッフたちにとっても、寺田の代表選出は感慨深い出来事だった。家族や友人、チームメイトたち、あらゆる人間が、寺田の代表選出を自分のことのように喜んだのには理由があった。
寺田周平は、1999年にフロンターレに加入した。東海大学時代には2年、4年のときにユニバーシアードに出場。小、中学時代に所属していた横浜マリノス(当時)に加入が決まりかけていたが、メディカルチェックによりプロ入りの夢が一度は潰えてしまう。1年の浪人生活を経て、フロンターレに加入が決まった。
庄子は、寺田の結婚式に出席した際の友人のスピーチがいまでも心に残っている。それは、寺田がサッカー浪人をしていたときのエピソードだった。仲間たちと旅行に行った際に、偶然にも年代別の代表の試合がテレビ放映されていた。みなで観ていたとき、ふと気づくと寺田がいなくなっていたという。その友人が探しに行くと、泣いている寺田の姿があった。
「悔し泣きだよな。悔しかったと思うんだよ」と庄子は、振り返った。
1999年のJ2開幕戦、プロサッカー選手になれたことの喜び、スタートラインに立てた幸福を寺田は感じてピッチに立っていた。
1999年、フロンターレJ2、リーグ戦12試合出場。
2000年、フロンターレJ1、開幕スタメン。リーグ戦8試合出場。
だが、2000年5月の磐田戦で左ひざ前十字靱帯を断裂してしまう。そこからの寺田は肉離れを繰り返したり、復帰直後に再びケガをしてしまったこともあった。実に数年間という単位でリハビリに時間を費やした。再びコンスタントにピッチに立つようになったのは、憲剛が語ったように2004年シーズン途中からのこと。1999年から2003年までの5年間で寺田が出場したリーグ戦総試合数は27。2004年はそれを上回る33試合に出場し、完全復活を遂げた。そして、2005年は2000年以来となる開幕スタメンを果たし、以後の活躍はご存じの通りである。
寺田は、1999年の加入時から怪我で離脱していたときを除いては、すべての監督からメンバーに選ばれていたことからも能力の高さがわかる。そうした能力の部分と、サッカー選手としてまじめに取り組む姿勢を高く評価して、リハビリでシーズンを棒に振った年もチームは契約を更新してきた。
強化部の庄子はこんな話もしてくれた。
「本人はチームに残してもらって感謝していると言っているようだけど、彼が一生懸命努力をしているのを見ていたし、代表に選ばれるぐらいの能力はあったからね。そういう選手に継続してチャンスを与えようという判断をチームはしただけ。あとは周平自身が自分でそのチャンスを活かしたんだよ」
寺田は、もちろん「サッカー選手としていられる場所」を作ってくれたチームに恩返しするためにも必死で努力を続けてきた。フロンターレにとっても寺田自身にとっても、その頃まさか未来の自分が日本代表として戦う事実があるとは、想像もつかなかっただろう。
「まるっきり、本当にまるっきりなかったですね。プロに入ってから怪我ばっかりしていたし。チームに入った頃はJ2だったから、そのときの目標はJ2のピッチに立つこと。そこに立て、チームがJ1に昇格してからは、J1のピッチに立つことが目標になって、J1でレギュラーになることが目標になって。ただ、その先に日本代表があるというのは、はっきりいって現実的ではなかったです」
努力を続けることで、思い描かなかった未来に「いる」ことはある。
寺田のサッカー人生のなかで、それが起こったのだ。
幸せを感じる力
2008年11月19日、寺田はワールドカップ最終予選カタール戦にトゥーリオと先発出場した。場所は、ドーハ。初招集以来、4試合目となる代表のピッチだったが、ワールドカップに直結する最終予選での経験は、寺田を緊張させるに十分な舞台だった。
「試合前まではいい高揚感があってテンションもあがっていたんだけど、試合が始まってファーストタッチで俺、やっちゃったから、やべぇって。焦ったし、周りもみえなくていつもと違う精神状態だった。後半は立て直せたけど、前半は極度に緊張していた。2003年の最後に出たときと同じぐらいの緊張感だった」
2003年、フロンターレはJ2の舞台でJ1昇格争いをしていた。その残り3試合という緊迫した展開で、寺田は試合に出ることになった。当時、「いままでみんなが積み上げてきたものを壊さないように」とプレッシャーと戦いながら残り270分に臨む寺田の姿があった。最終予選のカタール戦は、そのとき以来の感覚だったという。
「最終予選っていうのは、自分がピッチに立つというイメージがまったくなかったし、テレビですげぇなぁって思って観ているものだと思っていた。そこに立てたことはいい経験になった。貴重な経験をさせてもらいました」
ホイッスルが鳴り、3対0で勝利をおさめると、寺田の胸に安堵感が広がった。
代表に選ばれたことは、寺田に様々な刺激をもたらすことになった。
「昨年ぐらいから年齢を重ねていけば当然下降線を辿るのはしょうがないことなのかなって思うようになってきていたのが、代表に入ったことでさらに前向きな気持ちになった。それにこの歳で呼ばれて、僕が疲れた様子をみせていたらやっぱり30歳を超えたら厳しいのかという評価になってしまう。今後に続く人のためにも頑張らなきゃいけないなっていう使命感を感じていますね」
今年で、プロ入り11年目を迎える。フロンターレに在籍する選手のなかで、気づけば一番の古株になった。サッカー人生の前半、怪我が多かった寺田は、おそらく人一倍自分の体と向き合うことが多かっただろう。サッカーが普通にできるコンディションにもっていくために、人一倍の時間も費やしたはずだ。だからこそ、練習前は誰よりも早くクラブハウスに来て体をほぐしたり、入念なストレッチをして、練習に臨む。ここまで長く続けられたのは、選手としての能力はもちろんのこと、そうして自分に向き合うことを怠らなかったからだ。だが、寺田本人の反応は違った。
「自分では、そこまでストイックにやっているつもりはないから、そういう話を自分でするのは恥ずかしいんですよね。それに長くサッカーやってきた理由といっても、やっぱり怪我やリハビリをしていた期間が長かったから、実際に試合に出始めたのは実質2004年ぐらいから。だから30歳をすぎても、まだやれることがあるんじゃないかっていう感覚なんですよね」
周囲は、寺田の取り組んできた姿勢について誰もが口を揃えて「努力をしてきた」という。だが、本人にしてみれば、サッカーができなかった頃を考えれば、フロンターレというチームの選手として必要とされていることで理由は十分で、そこから先はたとえリハビリであってもやるべきことをやるだけだという意識だったようだ。だから、長かったリハビリ中も精神的に追い詰められることはなかったという。フロンターレの選手として、再びピッチに立つために目の前のことをやる。それがすべてだった。
では、憲剛が言っていたように「次の日の練習をがんばろう」と目の前のことを一生懸命に取り組むモチベーションはどこから沸いてくるのだろうか。それについての答えははっきりとしていた。
「やっぱり怪我をしていたときのことを考えれば、プレーできていることに幸せを感じますからね。プロ選手でいられることが本当に幸せだと感じています。夏場の練習なんてきついからイヤだけど、でも、練習が終わると毎日達成感があるんですよ。それがひとつの原動力にはなっていますよね。そういう意味では、毎日幸せに過ごせていることを感じられるのは、すごく大きいと思います。
昔からやってきたことがこうして仕事になって、この歳になるとあと何年できるかってどうしても考える。だからこそ、練習もここ数年はもっと大切にしようと思うし、1日も無駄にしたくないって思いますよね。それから、それこそ代表に入って、応援してくれている人や家族や友人たちが、喜んでくれていることはやっぱりうれしいですよね。怪我をしていたときは、俺のことを話しても流されてしまったけれど、最近はリアクションがすごくあるよ! なんて喜んでくれてね、そういう人たちが自分のことを誇らしいと思ってくれるのは本当に励みになりますよ」
2004年に長男が生まれたとき、子供の記憶に残るまでサッカー選手でいられたら、と願った。その長男も今年で5歳を迎える。その後、娘も生まれた。寺田は、代表に選出された直後、こんなことを話していた。
「子どもたちに、努力したらこういう結果が生まれることもあるっていうことを身をもって教えられることはうれしいよね」
2009年1月、寺田は年明けを代表合宿でスタートさせた。1月、アジアカップ最終予選となるイエメン戦、バーレーン戦にスタメンとして出場した。それからチームのキャンプに合流し、ゆっくりと家族で過ごせたのは2月も半ばになってからだった。そんなある日、息子とふたりでサッカーボールを蹴っていた。
「お父さんはイエメン、僕、日本代表ね」
ありふれた日常に、寺田は幸せを感じていた。
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[てらだ・しゅうへい]
高さと強さ、カバーリング能力と、DFに必要な要素をすべて備えたディフェンスの達人。大型選手ながら足下の技術も高く、ストッパーだけではなくボランチもこなす器用さを持つ。189cm/80kg、1975年6月23日生まれ、神奈川県横須賀市出身
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