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ピックアッププレイヤー

2010/vol.12

ピックアッププレイヤー:DF3/佐原秀樹選手

1997年、18歳の時、川崎フロンターレ発足と同時に加入。
2010年、32歳で14年間のプロサッカー生活に幕を下ろした。
引退はフロンターレで、と決めていた。
別れの時、流した涙の分だけ、愛があった。

1  引退することは、自分の中では決めていた。
 12月3日、リーグ戦最終戦の仙台に向かうため麻生グラウンドからチームバスに乗った時、「あぁ、このバスに乗るのも最後になるのかな」と思った。

 12月4日。
 J1リーグ最終戦のベガルタ仙台戦が終わり、俺のプロサッカー生活が終わった。
 試合後、サポーターに挨拶に行き、ロッカールームに戻る途中、メインスタンドを見上げた時、見覚えのある顔を見つけた。
 母だった。
 俺は、来ていたユニホームを脱いで、母に渡した。
 その瞬間、「あぁ、本当に終わったんだな」と実感した。

 その後、ロッカールームに戻り、ツトさんと選手一人ひとりが握手をしてまわった。帰りは、周平さん、宏樹たちとご飯を食べようということになり、新幹線に乗った。

 仙台から戻る新幹線の途中、1通のメールが届いた。

「ステキなプレゼントをありがとう。それだけでも幸せでした」

 やべぇ、泣きそうだ。
 隣に座っている悠に気付かれないように、景色を見ている振りをして窓から外をずっと見ていた。

 母が観戦に来ることは知っていたし、最後のユニホームをあげようとは思っていたけど、あの観客席から見つけられるとは思っていなかったし、その場で渡すことができるとも考えていなかった。偶然だったけど、必然だったのかなと思った。

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1 12月8日、チーム解散式。
 本当は言いたいことを考えてきていたけど、泣いてしまって、まるっきり言いたいことが言えなかった。
 一番伝えたかったことは、スタッフ、選手、サポーター含め本当にいいチームでありがとうという感謝の気持ち。最後には、オチもつけて俺らしくと話そうと思っていたけど、それも言えず…。
 解散式が終わり、みんなで写真を撮っていた時、悠が泣きながら挨拶をしにきた。「いじってくれたおかげで、チームに溶け込めた」って泣きながら話してた。キャンプの時から一緒だったし、ちょうどリハビリも一緒だったけど、あいつは泣き虫だからね。

 フロンターレは本当に居心地のいいチームだった。でも、上の人たちの背中を見て下の選手が育っていくのがこのチームの伝統。俺も、上の人たちの背中をみてやってきて、上の人たちも引っ張ってくれたし、それについていった。良くも悪くも上下関係がそんなにあるチームじゃないけど、いざという時には上が引っ張ってきたと思う。周平さんや宏樹がそういう存在になっていたと思うし、宏樹にはこれからも頑張ってもらいたい。

 12月11日、サポーター主催送別会。

 前日にマネージャーから「明日は好きな服で来てください」と言われて、どうしようかと考えた。参列するメンバーを考えた時に、俺しかやりそうじゃないなと思って、ユニホームを下に隠して着ていくことにした。スーツ着用だったら出来なかったと思うから、よかった。

 送別会を前に、周平さんと一緒に川崎市市民ミュージアムにフロンターレ展を観にいった。そこで記念に作っていただいたショートムービーを観た。周平さんが隣でハンカチで涙を拭いていた。俺は、じーんときたけど、堪えることができた。だから、その後の送別会でも泣かずにサポーターに話ができるだろう、大丈夫だと、この時は考えていた。

 でも、結局、涙が溢れてきてとまらなかった。
 ツトさんの花束贈呈でホペイロの伊藤ちゃんが出てきて泣いてたから、そこでちょっとヤバくなった。
 その後、自分の番になり、紹介してもらったプロフィールを聞いたらもう我慢できなかった。
 いろんな感情が出て抑えられなかった。感謝もそうだし、寂しい気持ちもあるし、今までの思い出もそうだし、いろんなことが積み重なって溢れた涙だったと思う。話している間、上のほうをぼんやりと見ていたので、サポーターの表情は見られなかった。でも、一回、俺が挨拶に詰まった時に、「頑張れ!」とか声が飛ぶかなと思ったら、会場がシーンと静まり返っていたから、その時に「あれ? みんなも泣いているのかな」と思った。

 そして、家族からの花束贈呈。知らなかったから本当にびっくりした。まさか、姉ちゃんと姪っ子も来てくれているとは思わなかったから。言ってくれた言葉は、もう意識が朦朧としていて覚えてないけど(笑)、感謝の言葉をあの場を借りて伝えられたことはよかった。その後、サポーター一人ひとりからのメッセージもうれしかった。「ハグしてください」っていうリクエストが一番多かったかな(笑)。送別会の後は、家族みんなで食事をした。思い出になる1日だった。

 あの時、俺の後が周平さんだったけど、周平さんが先だったとしたら、もうその時から泣いていたと思う。
 周平さんのプロフィールを聞いている時、いろんなことを思い出した。

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 周平さんと俺は、2000年に同じ時期に怪我をして、俺の手術の翌日が周平さんの手術だった。何ヶ月も入院生活をともに過ごして、毎日松葉杖をついて足を引きずりながらリハビリルームに通い、リハビリをしたり、時には病院の外で先生と一緒にご飯を食べたこともあった。その時の周平さんのリハビリに対する取り組み方も怪我の辛さもそばで見てたから知っている。あの時は、ひとりじゃなかったから寂しくなかったし、早く治して復帰しなきゃという気持ちがお互いに強かった。そういうことを周平さんの挨拶を聞きながら、思い出していた。

 今回、周平さんと同じ時に引退することになったけど、苦楽を共にしてきたし、年上だけど仲間。同じタイミングで引退することに、勝手ながら運命的なことを感じています。

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 サッカーを始めたのは小学1年生の時、それから26年やってきた。
 18歳でフロンターレに入って、それから14年間やってきた。
 14年って長いよね。
 小学校に入学してから成人式を迎えるまでと同じ長さだからね。
 人生の大半をボールを蹴って過ごしてきた。
 でも、振り返ってみるとあっという間だった。

 ブラジルに行かせてもらい、JFL、J2、J1、ACL…本当にいろんな経験をさせてもらった。
 辛く厳しい経験もいろいろあったけど、今ではJ1で優勝争いができるチームになった。
 思い出は本当にたくさんあるけれど、やっぱり最近のことのほうが印象深い。
 2006年ナビスコ準決勝のアウェイ千葉戦、それがあっての2007年ナビスコ決勝。あのフロンターレカラーに染まった国立の景色は忘れない。

 FC東京に期限付き移籍していた時の多摩川クラシコ。最初の味スタでやった試合も不思議な感覚だったし、等々力でやった時は、バスを降りて右側のアウェイロッカールームに行くのも初めての経験だった。ロッカールームで城福さん(FC東京監督=当時)からキャプテンマークを渡されたことも思い出深い。

 FC東京で2年間お世話になり、プレーできたことは本当によかったと思う。フロンターレしか知らなかったから、外に出てフロンターレの良さにも気付けたし、FC東京のよさも知ることができた。引退を知って、FC東京のスタッフや選手たちからメールや電話をもらったり、中には「東京でもう1年やろうよ!」と言ってくれる人もいた。成長させてもらい感謝している。

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1 子供の頃の夢はサッカー選手になることだった。
 マリノスのジュニアユースにいたので、ジャパンフットボールリーグの時代にもボールボーイで試合を観てたし、Jリーグ開幕戦のマリノス対ヴェルディの試合も観にいった。そういう夢がかなって、仕事になると楽しいだけではやっていけない厳しさが生まれる。
 年齢は関係ないし、競争だし、競争相手はみんなプロになっているわけだから上手い選手ばかり。その中でも結果を残さなければ次の年の契約はあるかわからないし、いらないって言われてしまったら翌年は、違う仕事を探さなければならない。厳しい仕事だと思う。

 自分自身のキャリアを振り返ってみると、たぶん試合に出た数よりもベンチに座っていた数の方が圧倒的に多いんじゃないかな。
 それでも試合に出た時はモチベーションを保ってやれていたし、最後の方は1日1日練習を楽しもうと思って取り組んでいた。
 キャプテンタイプじゃないけれど、ポジション柄、声はよく出していたし、後ろの選手は見える位置にいるわけだから、試合中に声を出さなければダメだと思っているから、それは続けてきた。

 改めて14年間プロサッカー生活を続けられたのは、周りの人たちの支えや環境に恵まれていたからだと思う。引退のリリースが出た時に、本当にたくさんの方々から電話やメールをもらって、キレイ事を言うつもりはないけど、本当にそのことを実感した。

 フロンターレは俺にとって「家」のような存在。
 実家に帰れば両親がいるように、フロンターレにはスタッフ、選手、サポーターがいて、いつも居心地がよかった。

 そういうフロンターレで引退したいと思っていたから、その思いがかなって俺は幸せだと思う。

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[さはら・ひでき]

フロンターレの歴史を知るチーム最古参のストッパー。ハードマークで相手チームのストライカーを封じ込める強靱なフィジカルで一時代を築いた。2010年12月惜しまれつつ引退。1978年5月15日、神奈川県横浜市生まれ。184cm/76kg。
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