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ピックアッププレイヤー

2011/vol.01

ピックアッププレイヤー:矢島卓郎

01 まさに真骨頂。11月6日、西京極総合運動公園陸上競技場、京都戦の後半44分だった。

 矢島卓郎は、小宮山からボールを受けると、左サイドでドリブルを始めた。軽い前傾姿勢を取る。スイッチが入った。加速したステップは、機関車のように力強い。相手ディフェンダーは並走するのが精いっぱいで、ボールに触る権利を与えられなかった。最後は、左足でクロスを入れ、ジュニーニョのゴールをアシストした。

「リードしていたし、サイドでボールを下げるよりは勝負をした方がいいと判断して、ドリブルでいったら、意外とえぐれた。シュートまではいけなかったけど、ゴール前に2人入ってきたのが見えたので、折り返しを入れれば何とかなるかなと。ジュニがうまく決めてくれた」。淡々と振り返るところが、プレー同様、矢島らしかった。

 スタンドにいた楊井隆博・瀬田工監督は、目を細めていた。10年前、膳所高校で矢島を3年間指導した恩師である。「卓郎は、ああいった事が出来る。昔は、ハーフウェイラインぐらいからやっていましたね。彼の持ち味です」。懐かしい光景。記憶が蘇ってきた。強靭なフィジカルを駆使したドリブル。日本人フォワードでも、この推進力を真似できる選手は、そういない。しかし、小学校、中学校、高校時代は、ほぼ無名に等しく、決してエリート街道を歩んできたわけではなかった。

「自分は凄く強い意志を持っていたわけでもないし、マジメにやってきたわけでもない。いいタイミングで、素晴らしい指導者に出会えた。本当に幸せなことだった。感謝しています。もし、子供の頃、どこかのクラブの下部組織とか違う道に進んでいたら、プロになれていなかったかもしれません」。

 その足跡は、矢島を理解してくれた人に導かれた。

 サッカーを知ったのは小学校1年生の時だった。「友達の家に遊びに行ったら、その友達がサッカー行っていて、そこに混ぜてもらったが始まりですね」。小野サッカースポーツ少年団(小野SSS、後にラーゴFCに改名)に、1つ上の兄と入団した。駆けっこが、学年でも常に1、2を争うほど足が速かった矢島は、自然とフォワードに抜擢された。「足、速かったんですよ。さぼり癖もあるから、性格的にもフォワードになったんです」と本人は説明する。

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04 小野SSSは当初、こぢんまりと活動していた。練習は土曜日と日曜日だけ。対外試合は近隣の少年団チームと行う程度だった。

「それでも、結構、厳しかったですよ。試合をすれば、必ず誰かが泣かされていました。オレは、あんまり言われなかったですけど、スパルタでした。監督は中辻さんという方で、京都市役所に勤めている近所のおじさんでした。

 怖かったですが、今、考えると、めちゃめちゃいい人だった。月謝は500円ぐらいで、ユニホームもチームから支給されたし、タダみたいなもんでした。仕事がない土曜、日曜をさいて、教えてくれてね。ボランティアですよ。あれだけの情熱を持ってやってくれていたのは、本当に凄いと思う」。

 中辻監督の熱意は伝わり、4年生の時に父母会が作られた。遠征も家族の自家用車が使われ、活動も拡大していった。5年生からは水曜日にも練習を開始。そして、6年生の時には、第19回全日本少年サッカー大会に出場し、全国ベスト16に進出する強豪チームとなった。矢島も、6年生の時には、滋賀県選抜に選ばれるなど、めきめきと頭角を現した。あこがれの選手は、1993年、Jリーグ得点王に輝いたラモン・ディアス(当時、横浜マリノス)だった。

  矢島のキャラクターを象徴するエピソードがある。小学校1年生の時だった。練習試合でゴールが入ったが、父の徳行さんは最初、誰が決めたか分からなかったそうだ。

「点を取れば、喜ぶものですけど、ちびっ子サッカーだから、ゴール前でごちゃごちゃしていたので、よく見えなかったんです。で、キャプテンの子が戻ってきたから、『今の得点は誰?』と聞くと、『卓っぺです』って。そこで、初めて卓郎が点を取ったことが分かりました」。
 喜怒哀楽をあまり表に出さないのは、今もそう。「よく天然とか言われているじゃないですか。そのまんまでした。つかみ所がないというかね。だから、気に病むこともなかったですしね。痛い、暑いとかも、あまり言わなかった」。

 川崎に移籍して2年目、大半をリハビリで過ごしてきたが、苦しい時も、そんなそぶりを見せず、黙々とトレーニングに励み、復帰を果たしたのは、矢島ならではかもしれない。

 中学時代、サッカーをあきらめる可能性もあった。視力が極端に落ちたためだった。「0.1もなかったんですよ。全然、ボールが見えてなくて、やる気も失っていたんです。サッカーの先生もいなくて、練習がない日とかもありました」。ちょうど、反抗期も重なり、授業態度も良くはなかった。「学校には行っていたけど、プールの床の下とか、地面がえぐれているとことかを見つけて、基地にして、遊んでいました。先生には目をつけられていたかな」。

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 それでも、矢島はサッカーが好きだった。「サッカーを続けたいという思いはあったんです。膳所高は、頭もいい割にはサッカーも強いし、行きたかった。でも、高校入って、部活が合わなかったら、サッカーをやめていたかも」。2008年度、現役生35人が京都大学に進学した(大阪大学には同25人、神戸大学には同30人が進学)という関西でも名門の滋賀県立膳所(ぜぜ)高校へ入学し、矢島のサッカー人生は、その可能性を広げることになる。

 天才である。矢島は幼い頃から学習塾に通い続けているという少年ではなかった。小学校6年生の時と、中学校3年生の受験前だけだった。もちろん、文武両道を目指す両親の影響で、自宅で算数のドリルなどをやっていたが、いわゆる、ガリ勉タイプではない。

「勉強しなかったら、サッカーをやめろと言われていた」。サッカーを続けるため、机に向かっていたようで、周囲の誰もが、膳所高校に合格するとは思っていなかった。

 徳行さんは「学校からは、公立高校は内申書の比重が大きいし、普段の素行がよろしくないので、あきらめてくださいと言われていた」と明かす。矢島も「普段のテストはそこそこでしたけど、成績は良くなかった。膳所高校なんて絶対行けないと言われていました。模試を受けたけど、合格の可能性なんて50パーセントも無かったです」と笑う。学習塾でも、漫画の「ドカベン」を読み、勉強熱心な生徒とは思われていなかった。「塾の先生は『膳所高校なんて無理』と言っていた。だから、『もし、膳所高校に受かったら、ドカベン全巻やるよ』と言われたんです。ちょっと受けてやろうと思いましたね」。

01 結局、ドカベンはもらっていないそうだが、その一言が矢島の闘志に火をつけた。短期間の猛勉強で、合格通知を受け取ってしまった。それは、早稲田大学に合格した時も同じである。本格的に受験勉強を始めたのは、高校3年生の時、全国高校サッカー選手権大会の滋賀県決勝で草津東に敗れた2001年11月10日からで、京都市内の予備校に2週間通っただけだった。センター試験入試。数学の自己採点は満点だった。

 矢島本人は「まぐれ」という言葉で濁すが、徳行さんは「知らない間に速読術を身につけていましたね。めちゃめちゃ、本を読むのが速いんです。流し読みしているのかな、と思っていたけど、頭に入っている。僕の4、5倍は速いですよ」と息子の集中力を認めている。

「高校時代ですかね」。持ち味の機関車ドリブルは、膳所高校で培われた。「全部、ゴリゴリ行って来いという感じでした。オレがドリブルで行くか、裏に蹴ってもらって、オレが走るかでした」。中学3年間で身長が30センチ伸び、膳所高校に入学する時は180センチに届きそうだった体形も魅力的で、1年生からレギュラーフォワードに抜擢された。

 楊井先生は「入ってきた時は足が速いなと思いました。大きかったし、前に行かせましたね」と第一印象を話す。膳所高校では、入部して1か月強は走り張り込みが主な練習となる。純粋な体力強化だけではない。進学校ゆえ、大半の選手は3年生のインターハイで引退するが、選手権まで目指すという強い気持ちを持った選手を見極めるためでもあった。「生半可な気持ちでやったら、中途半端になりますからね」(楊井先生)。毎日8キロを走り、琵琶湖の砂浜で200メートル走も課した。矢島はこの1ヶ月間で、中学サッカー引退後に太った体を絞れた。大型フォワードの誕生である。プレースタイルが確立する準備は出来た。

 楊井先生は、矢島の特長を最大限に伸ばそうと考えた。「卓郎が1年生の時ですね。コイツ、凄いなと思ったのは、反転ですよね。ボールを持って、反転して前を向くプレーは速かったし、群を抜いていました。中央から外へ流れていく。高校レベルでは、止められなかったですよ。よく、アイツ、誰やねん?と聞かれました」。

 各地のサッカーフェスティバルに招待された時、楊井先生は強豪校の監督から何度も矢島のプレーについてアドバイスされた。「いろんな先生から、中央にいて、ポストプレーさせて、ゴール前に走り込ませればいい、という意見を言われたけど、僕はそうはさせなかったですね。もちろん、ポストプレーも出来るでしょうけど、前を向かせた方が生きると思いましたから。1年生の時は、ボールを持ったらパスしなくていいから、(ドリブルで)行けと言っていました。強豪校とやっても、アイツだけは完全に通用していたというか、上回っていました」。

01 矢島は、太ももの筋肉が大学4年生レベルの筋力を持っていると測定されたフィジカルを思う存分使い、すくすくと膳所高校で育った。インターハイは全国大会に出場し、1回戦で多々良学園にPK戦で敗れたが、強烈なインパクトを残した。国体にも出場し、Jリーグのクラブにも注目されるようになり、実際、あるクラブの練習にも参加している。ちなみに、強靭なフィジカルがどうして作られたのかは、本人も「分からないです。特別な事もしてないですし。ただ、おかんの方のおじいちゃんは183センチぐらいあると思いますよ」と話す。

 矢島は膳所高校で自分の武器を見つけただけでなく、人生の武器も教わった。柳井先生は「人間性を伸ばしたかった。『謙虚な心と感謝』と言い続けたんです。誰のおかげでサッカーできるんや、と」と話す。矢島は、今でも交流があるのは膳所高校時代の友人。「サッカーが楽しかった。コンタクトをつけて、ボールがよく見えるようになったというのもありますけど、仲間に恵まれたのが大きいかな。今でも仲いいです」。フロンターレの公式HPで、好きな言葉・座右の銘は「感謝」と記している。

 早稲田大学ア式蹴球部でサッカーをする前に挫折を味わった。推薦ではなく、一般入試で入学したため、当時は入部試験があった。それは、単に走力を問うだけだった。受験勉強で、3か月は運動もしていない。3月の1回目の試験は不合格だった。「サッカーコート10周とか近くの池の周囲とか、もう忘れましたけど何分で走れとかでした。なんで、(試験は)サッカーやないねん、と思いました。試験をする4年生に『話にならない。2週間後に同じ試験やるから、走れるようになっておけ』と言われて、サッカーの練習もせず、ひたすら走っていました。でも、2回目も落ちたんですよ。その時の設定タイムは、とうてい受かるタイムではなかった。どうしようかと思っていました」。

 地元へ帰ることも考えたが、OBの働きかけもあり、5月末までは走り込みをするという条件で入部が許可された。「毎日、ボール拾いが終わった後に走っていました。だから、サッカーはしていないです。いつか先輩を見返してやりたいと思って頑張っていました」。

 矢島にとって幸運だったのは、3年生になる春、大榎克己(現清水エスパルスユース監督)さんが監督に就任したことだった。大榎さんは、数試合の練習試合で矢島の可能性を見いだした。「お前、プロになれるから、もっとサッカーを生活の中心に考えろ」。フロンターレの特別指定選手になった時期とも重なり、プロを意識し始めるきっかけだった。「その時からサッカー中心の生活になりましたね。ファーストフードをあまり食べなくなりましたし、食生活も気をつけました。早寝を心がけるようにもなりました」。

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 フロンターレの練習でも、自信をつかんだ。「最初は、レベルが違うけど、すごい楽しかった。こんなに上手いのかと。やりがいもあったし、通用する部分もあった」。ア式蹴球部の成績も上がり、東京都リーグで優勝、4年生の時は関東リーグ2部で優勝した。東京都選抜の合宿で、鄭大世(現ボーフム)と同部屋だったことは有名な話。関東選抜と対戦する時は、2人して燃えていたそうだ。矢島は「関東選抜AとかBに勝つというモチベーションは強かった。勝っていましたよ」と懐かしそうに話す。

 大榎さんは言う。「矢島が3年、4年の時、2年間指導しました。あれだけの体にスピード。持っている能力は相当なもの。初めて見た時から、日本にこんなストライカーはいないなと思った。努力してもどうにもならない素質を持っている。磨けば一流になれる、プロになれると思った。印象深い試合は4年の時の早慶戦でした。当時から筋肉系の負傷が多く、肉離れしながらプレーしていました。最後の年という自覚があったんだろうが、そこまでやれる男だとは思わなかった」。大学時代は1部リーグでプレーしていないが、大榎さんは、矢島の将来を見抜いていた。フロンターレをはじめ、清水など4クラブからオファーを受けるまでに成長した。

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 2009年、清水からフロンターレに移籍してきた。2度目の恋が実った。矢島は「特別指定選手だったのに、1度は断ったのに、またオファーを出してくれた。ありがたいと思いました。居心地もいいクラブだし、ACLに出場するというのが大きかったです」と話し、新横浜のホテルで、庄子春男強化部長と関塚隆元監督から、口説かれたことを感謝している。庄子部長は「元々、テセとヤジは2人とも欲しかった。関塚元監督と都リーグの開幕戦を見に行った時、2人が出ていて、『アイツ、いいな』って話した。強さと速さを兼ね備えており、ディフェンスの間を割って突破していくプレーが魅力。ウチのレギュラーだけでなく、日本代表も狙って欲しい。入れる選手」と期待している。

 未完の大器がスタートラインに立つ。矢島はプロに入って5年、1年間を通してプレーしたことはない。パワーがありすぎるために筋肉を痛めてしまう。しかし、10月24日の大宮戦(NACK5)で今季初先発してから、8試合連続で先発し、4得点を記録した。長きに渡って苦しんだ左太もも裏の肉離れも、原因が分かった。補強トレーニングを欠かしておらず、再発の可能性は小さい。「これまでとは状況は違いますね」。本人も手応えを感じている。2011年、矢島の目標は明確だ。「コンスタントに試合に出ること」。実現すれば、当然、日本代表も見えてくる。

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[やじま・たくろう]

日本人離れしたスピードとパワーを併せ持ったスケールの大きなストライカー。大激戦のFWのポジション争いに名乗りを上げる。1984年3月28日/滋賀県滋賀郡生まれ。
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