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ピックアッププレイヤー

2011/vol.02

ピックアッププレイヤー:小宮山尊信

豊富な運動量でサイドを縦横無尽に90分駆け抜ける。
献身的なプレーと時折放つ、派手なシュートの一撃。
天真爛漫な横顔と繊細さを併せ持つギャップ。
サポーターの心を掴んだ小宮山は、フロンターレの欠かせない存在になった。

01天才と呼ばれて

 それは、偶然の出来事だった。

 千葉県船橋市に引っ越したその日、小宮山家の向かいに住む"おにいさん"とボールを蹴って遊んだのが、小宮山にとってのサッカー原体験になった。それ以来、サッカーボールを追いかけ続けて、今日に至る。

 小宮山がその後、クラブに所属してサッカーを始めたのは地元のチームに入った小学校3年の時。そして、船橋市立古和釜小学校4年生から部活動が始まる。つまり、決してサッカーを始めたのは早い方ではなかった。

 船橋市の選抜チームである船橋FCは、小学校5年から6年にかけて船橋市内の小学生から選抜され編成される。船橋FCの齋藤浩司コーチは、いい選手を探すためにいろんな学校やチームの試合に出かけた。ある日、"天才"小宮山の噂を聞きつけた齋藤は、古和釜小の試合を観に行き、そこで衝撃的なシーンを目にする。6年生の中にひとり混ざった4年生がフォワードとして出場し、ゴールを決めていたのである。それが、小宮山だった。

「6年生相手に3点取ってましたからね。思い切りシュートを打つのではなく、相手を見てスルスルと転がして入れたり、ボールを受けてスピードに乗ったまま勢いで打つのではなく、空いているところにきちんと打つ。Jリーグでは、思い切りシュートを打って決める場面もよくありますが、そういうプレースタイルではありませんでしたね。決して体は大きくはありませんでしたが、体のバランス、スピード、タイミング、判断がいい選手でした。4年生で6年生相手に平気で点を取れる選手なんて滅多にいません。中盤で巧い子はいましたけど、彼は10年にひとりのフォワードでした」

 この頃、既に小宮山は利き足の右だけでなく、左足でも精度の高いボールを蹴れていたというのも天才らしいエピソードだ。

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 こうして小宮山は、ひとりだけ小学校4年生で1年早く選抜チームに入ることとなった。

 当時のことを小宮山が振り返る。
「サッカーが好きで一生懸命やっていただけでした。サッカーが楽しすぎて、ひとりでもよくボールを蹴ってました。でも、今思うと、シュートを打てば入るっていう感じだったし、天才だったと思います」
 そう言って、笑顔をみせた。

 小宮山が所属していた船橋FC、ジェフ千葉ジュニアユースで共に過ごした同級生のひとりは、やはり小宮山のことを「天才」だったと懐かしく振り返る。
「船橋市内の大会で僕が所属していた小学校と彼の小学校が決勝で2回当たったことがありました。最初は小宮山がフォワードに入り1点取ると、その後センターバックに下がるんですよ。そのパターンで2回とも負けました。ひとりで何でもできちゃうんですよね」

 千葉県内でも目立った存在だった小宮山は、Jリーグの複数の下部組織から誘いを受けた。そして、ジェフ千葉のジュニアユースに所属することになる。前出の同級生によると小宮山と工藤浩平(現京都)はジェフ千葉の中でも抜きん出た存在だったという。

「ジュニアユース時代は中盤で、1対1が大好きでしたね。飛び出していってボールを受けるというよりも、ボールを持ってから仕掛けたり、パス回しの中で崩したり、という当時のジェフのサッカースタイルに合ったプレーをしていました」(同級生)

 そして、ここでも小宮山はサッカーを楽しみ、コーチや仲間に恵まれた3年間を過ごした。毎日学校から家に帰り、片道40分かけて舞浜にある練習場に通う往復の電車さえも、サッカー仲間と過ごしたいい思い出だ。
「すごく楽しかったですね。早くみんなに会いたいって毎日思っていました。技術的にも自分の発想を大事にしてくれて伸び伸びプレーできたし、逆に、自分の弱い部分、ボールを取られても追わなかったところを直させてもらいました」

 

青春時代〜選手権優勝

 市立船橋高校と布監督。高校サッカーを観たことがある人なら、この組み合わせにはインパクトがあるだろう。地元の象徴でもある「イチフナ」に憧れていた小宮山は、布監督からも誘われ市船サッカー部に入る。ところが、それまで「天才」と呼ばれ、天真爛漫なキャラクターで愛されてきた小宮山に苦しい日々が待ち受けていた。厳しい指導、そして人数の多いサッカー部の中では、チームメイトが仲間というよりはライバルであり競争相手という意味合いが強くなってしまう。

「すごく怒られることも多かったし、僕がいけないんですけど、選手権のバスの中でピリピリした状態のなか、携帯電話の電源を切るのを忘れて鳴らしちゃって、しかもそれが選手権のテーマ曲だったりして、ものすごく焦ったこととかエピソードはたくさんあります。うまい先輩たちとプレーする時に、ミスしちゃいけないと萎縮してパスミスしちゃったり。でも、それでも自分の力は疑っていなかったし、自分のことは信用していました。この中で認められなきゃいけないって思ってましたね」

 ちなみに、現在の左サイドバックのポジションにコンバートしたのは、市船の布監督だった。

 さて、厳しい高校サッカー生活は、その後どうなったのだろうか。

 辛い日々を乗り越えた小宮山は、3年生になり、2年生の時に続き選手権への出場権を獲得していた。学校では、冬の時期になると他の運動部の3年生は引退しており、体育会の部活同士、横のつながりの仲のよさも手伝って、サッカー部の選手権出場を全校あげて応援しようという雰囲気になっていた。そして、市船は選手権で見事に優勝を果たす。この時のメンバーは、同期に青木良太、大久保裕樹、小川佳純、原一樹、一学年下には増嶋竜也、カレン・ロバート、鈴木修人、佐藤優也ら錚々たる名前が並んだ。市船が下した相手は3連覇を狙っていた国見高校で、10番を背負っていたのは柴崎晃誠だった。

「思い出しました。選手権出場を決めてから選手権に出るまでの間は、すごく楽しかったですね。目標は優勝というひとつだったし、まさに"青春"そのものでした」

 小、中とプロになるものだと考えていた小宮山は、高校時代でもその考えは変わらなかったが、選手権で優勝を果たしても、それでもプロに今すぐになれる力はない、もっと実力をつけなくてはと考えていた。そうした気づきを与えられた3年間で得たものは大きかった。

「毎年プロに行く選手もいて、先生もすごい方でしたから、そのなかでもまれて出来たことは自信にもなったし、レベルもあがったと思う。同期のメンバーはまとまっていたし、いいやつばかりだったので、厳しいことも言うけど愛情があったのはよかったですね」

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目覚めの時

 高校時代の反動か、順天堂大学に進学した小宮山は、再び自由に解き放たれた様にサッカーを楽しんだ。大学時代は、「プロになるための助走期間」と目標を定めていた小宮山は個の力を伸ばそうということだけを考えてサッカーに没頭した。高校時代、サイドバックに転向し守備について叩きこまれ、それにプラスしてフォワード出身の自分が攻撃にも参加したら、サイドで勝負ができる個性のある選手になれると考えたのだ。

 順天堂大学の吉村雅文監督は、その小宮山の「自由さ」に当初は苦労をしたという。
「それまでの彼は能力や技術で評価される環境でサッカーをやってきたせいか、自分の感覚で『いいパス』を出す。そうすると受け手に合わず結果的にパスミスになってしまうことが1、2年頃はよくありました。うちの大学は強くないし、勝つためにはチーム全体で構築するサッカーをしなければならない。そういう意味で、小宮山は機能しませんでした」

 だが、転機が訪れる。
 小宮山が3年生になる頃、吉村監督はユニバーシアード代表監督の乾から、こう聞かれる。
「関東にいいサイドバックはいないか?」

 吉村は、考えた。
「これは、小宮山にとっていいチャンスだ。代表に選ばれれば、チームを作り上げていく経験を得られるはずだ」

 結果的に、ユニバーシアード代表に選ばれた小宮山は海外遠征も経験し、そこでたくさんの刺激を受け、優勝も経験した。

 吉村は、その後の小宮山が目に見えて変わったことを記憶している。
「チームでも攻守に渡って大きな力となる選手に成長してくれました。合宿でのキツイ走りでも、サイドバックに必要な走力は、ずば抜けていましたし、自分でしっかりとプロになることを考えて必死に取り組んでいましたね」

 もともとはプロになるために「個」の力を伸ばそうと決めていた小宮山だったが、大学時代も仲間たちのことが好きで、そのうちにこのチームで勝つためにはどうしたらいいかという別の視点が広がり、そうした喜びも味わえるようになった。

「うちの大学は巧い選手もそうじゃない選手もいたけど、みんなが一生懸命やってたし、チームのためにやろうという人たちがいっぱいいたから、そこに自分も一緒に関わりたかったし、順大の仲間も好きだった。選抜に入ってからは周りの目もあったし、自分がやらなきゃっていう責任感は芽生えましたね。ミーティングとかでも自分が発言する分、プレーでも示さなくちゃという気持ちがありました」

 ユニバーシアード代表で経験を積み、さらにプロ入りに近づいた小宮山は、大学3年時に既に横浜マリノスから声をかけられ、キャンプに参加し、4年時にはJFA・Jリーグ特別強化指定選手として横浜・Fマリノスに在籍する。

プロ〜そして、決断

 Jリーグデビュー戦は想い出深い一試合となった。

 2006年8月12日、等々力陸上競技場に小宮山はいた。
 J1 第17節 対川崎フロンターレ戦。

 サブメンバーとしてアップを続けていた小宮山は、岡田武史監督に呼ばれた。
「お前なら絶対できるから、思い切ってやって来い!」

 その言葉を聞き、それほど緊張せず試合に入っていった小宮山だったが、プロの世界はそこまで甘くはないことを思い知らされる。

「ファーストプレーでミスしちゃって、うまく試合に入れなかったし、対面が森さんで、当然プレッシャーもすごいし、ブラジル人選手とのタイミングもわからず、負けてる状況でしたし、これはやばいなぁというデビュー戦でした」

 小宮山はプロの厳しさを知ったと同時に、もうひとつの気持ちが湧いた。
「この、きらびやかな世界でプレーしたい!!」

 そして、マリノスで過ごした4年が過ぎた2009年の冬、小宮山はひとつの決断を下す。
 川崎フロンターレへの移籍。

「厳しい道と厳しくない道がふたつあったら、厳しい道を選択してきた。これまでもそうしてきたし、それを乗り越えたときに見えるものが大きいと思って、フロンターレを選びました」

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 2010シーズン、小宮山は新天地での出発だったにも関わらず、累積警告で出られなかった1試合を除き、すべての試合にスタメン出場した。その数字を見れば、結果を1年目で残したことは明らかだ。

 だが、順風満帆というわけではなかった。

 フロンターレの攻撃力は対戦相手だった頃から十分にわかっていたし、移籍するに当たりそこが最大の魅力のひとつでもあった。しっかりした「個」の力に絡み、周りを活かし連携していくこともイメージしていた。守備ができることを前提として、いかに1対1で積極的に仕掛けてシュートまでもっていったり、クロスでゴールに絡めるかを考えていた。だが、実際はフロンターレの攻撃は右サイドの森勇介を経由するシーンが多かったし、なかなか左サイドから突破してクロスするという形が作れずにいた。もっと特徴を出さなければいけないし、何かを変えなければいけないと感じていた。もう、この試合で信頼を得なければいけないと危機感を募らせて臨んだ試合だった。

 2010年5月1日 Jリーグ第9節 対湘南戦。
 2対2で迎えた73分、その時は訪れた。

 カウンターから中村がロングボールを放ち、湘南DFのクリアボールを拾ったのは走り込んでいた小宮山だった。ロングボールについていった湘南DFのブラインドから入っていった小宮山は、とっさの判断でDFを交わして、右足を振り抜いた。

 勝ち越しゴールが、決まった。

「今日は点を決めてやろうと思っていた。やっとフロンターレの一員になれました。サポーターの皆さんの声援を感じていたし、チームメイトも自分がオーバーラップしたところを使おうという意識を持ってくれていた。コーチ陣、スタッフ、サポーター、フロンターレの仲間に対してありがとうと言いたい」

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サイドバックとしてのプロフェッショナル

 小宮山は、サイドの選手として極めたいと考えている。

 時は遡るが、強化指定選手を終え、マリノスでの最初のシーズン、小宮山は壁にぶつかっていた。
「とくに1年目は勢いだけでやっていたので、勢いがなくなった時、プレーの引き出しが少ないことに気づいたし、波があった」

 小宮山は自分のプレーを分析した。
 仕掛けるにはタイミングが重要であり、当時のマリノスにおいてはブラジル人選手たちにうまく中盤で預けて気持ちよくプレーさせることも必要。そのなかで自分を生かすためには、いかにいくつもの「自分の型」をもっていることが大事なのだ、と。
 そして、もうひとつは「自信」が大事であるということ。自信がもてれば、気持ちに余裕が生まれ、そうすれば周囲がみえるし、周囲が見えればいい判断につながるということに気づいた。

 そして、一番の変化は運動量だった。
 マリノス時代の小宮山は、サイドに張りついてボールをもらい、そこから本人いわく「無駄にしかけていた」時期もあったという。それから、徐々に運動量は増えていったが、さらにきっかけとなったのはフロンターレへの移籍だった。

「やっぱり走って顔を出す回数を増やさなければ話にならない。もし攻撃につながらなかったとしても、僕が走ったことでフリーになれる選手もいるし、チーム全体の中での自分の役割だと思っています。何回も走れることは僕の特徴だと思う」

 小宮山にはプロとしてのこだわりがある。
 それは、サイドの対面の選手だけには負けたくない、というものだ。

「相手の疲れ具合とかスピードの落ち方、表情とかで相手がいやがっているのがわかるんですよ。だから、相手にこいつはいやだなって常に思われていたい」

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 その小宮山が、最も意識したサイドバックが森だった。
「森さんは本当にうまいなって思ってみていました。対戦相手の時もいやだったですし、あの人こそ引き出しがすごくいっぱいあるし、能力が高い。相当、刺激になりました。仲間の右サイドにも負けたくないっていう気持ちもありますからね」

 小宮山はフロンターレで走り続け、信頼を勝ち得た。
 疲れを表情に出さず、献身的にチームのために走り続ける中で、常にプラスに考えるのが小宮山だ。それが、今年はさらに輝きを増して、結果的にチームを救うことに、きっとなるだろう。

「きつい時でも受身じゃなくプラスのことを考えています。今決めたらヒーローになるな、とかね。昨年は、自分たちのリズムの時に点が取れずぽろっと負けちゃうことがあった。そういうのをチームとしてなくしたい。取れる時に点を取りたいし、その中で自分もゴールやアシストを決めたい。そうなると、もっと走らなきゃいけないし、いろんなことをやらなくちゃいけない。でも、チームがきついとき、大変なときに何かできる選手になりたい」

 小宮山は、普通の選手ではいたくない。
 その一方で、チームのために献身的に頑張れる選手である。 
 それは、なぜか?
 そう聞くと、小宮山はきっぱりと言った。
「それは、やっぱりフロンターレが好きだから」

 その理由は、サッカーを始めた子供の頃からプロ選手になるまで、どの時代の話を聞いても同じだった。
「仲間が好きなことはモチベーションになる」と言って、笑顔でこう続けた。
「俺って結局、恵まれているんですね」

 2011年3月5日、小宮山は開幕戦のピッチに立った。

 マリノス時代以来となる、小宮山と両翼を担った田中は、「コミ君の特徴は攻撃にあるし、コミ君が乗っている時は左サイドの攻撃を生かしたいし、コミ君が疲れている時は自分が出て行くなど、バランスを取っていきたい」と語った。

 小宮山は、試合後、引き締まった表情で、こう話した。
「今日はいつも以上に走ろうという気持ちがありました。2年目の今年は絶対にタイトルを取りたいし、1試合1試合そういう気持ちでやっていきたい」

 小宮山は、チームメイト、スタッフ、サポーターと喜びを分かち合うために、走り続ける。

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[こみやま・たかのぶ]

タイミングの良い攻め上がりからのドリブル突破、左足のクロス、そして右足のミドルシュートが持ち味の攻撃的サイドバック。2010シーズンは加入1年目ながらコンスタントに出場を果たした。1984年10月3日/千葉県船橋市 生まれ。
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