2011/vol.05
ピックアッププレイヤー:田中裕介
神奈川県の強豪・桐光学園高校出身でキャプテン。高校2年時には神奈川県選抜として国体優勝、U-18日本代表に選ばれ、横浜F・マリノスのJFA・Jリーグ特別指定選手となる。その後、横浜F・マリノスに加入。2008年には北京オリンピック代表候補として活躍。横浜F・マリノスで7年間プレーし、2011年、川崎フロンターレに加入。経歴を並べると、順風満帆にサッカー人生を歩んできた、と言い切ってしまいそうになる。そうした経歴を前にひとつひとつのエピソードを尋ねてみると、そこには、その過程において必死に努力してきた田中裕介の真実が見えてきた。
生い立ち
東京都八王子市で生まれ育った田中裕介は、地元の幼稚園に通うとともにサッカーを始めた。幼稚園が地元の少年団の練習場として使っていたことから自然な流れで、気がつけば「球遊び」をするようになっていた。その後、小学生になると、幼稚園の友達みんなと地元のクラブチーム「シルクロードSC」に入る。ここで、週末になるとサッカー漬けの毎日を過ごすようになった。当時のポジションは、攻撃的MFかフォワード。体も大きかった裕介は、中心選手として活躍していた。
小学校5年になると八王子市の選抜メンバーに選ばれ、そこからさらに鍛錬を重ね、最終的には卒業する前にわずか20名弱しか選ばれない東京都の選抜メンバーに入った。コツコツと積み上げてステップアップしていき、結果を出す。そのスタートとなる出来事だった。 「チームではお山の大将で、"俺が全部やる"という感じでしたけど、都選抜に行き、うまい選手がいっぱいいるんだなって初めてわかりました。何度も落とされた経験もあったので、最終的に都選抜に行けたのは自信になりました」
裕介が小学校1年生になった1993年にJリーグが開幕。相馬監督も出場した日本にとっての初めてのワールドカップとなった1998年フランスW杯が小学校6年の時に開催された。裕介にとってはごく自然な流れで目標としてのJリーグがあった。
その後、裕介は東京都選抜の監督が率いていた町田JFCに誘われ、加入を決める。幼稚園、小学校とずっと仲間たちと一緒にサッカーをやっていたが、目標を見定めていた裕介にとって、町田JFCへの加入は迷う理由がなかった。
「僕は授業が終わったらまっすぐ家に帰り、町田に通う日々でした。みんなと部活にという選択肢はなかったです。違う道に進み始めていましたね」
そして、少し間を置いてからキッパリと言った。
「学生時代、高校も含めて一切遊んでいません。サッカーが好きだったし、多少みんなとは違うんだっていう意識もあったし、目指していたものがありましたから。だから、これぐらいやらなきゃっていう思いはありました。遊びの誘いに心が揺れたり、自分がぶれてしまうこともなかったです」
順風満帆だったように見えた中学時代だが、実は2度左腕の骨折を経験している。それでも、怪我をした当日はさすがに休んだが、後はボール拾いをするために町田まで通い続けた。風邪を引いて休むなどもってのほかだし、そもそも風邪をひかないように普段から心がけていた。だから、裕介は練習を休んだ記憶がない。
実は、町田JFC時代の裕介の一学年下に小林悠がいた。現在では裕介が右サイドバック、小林がフォワードという間柄だが、中学時代は小林が中盤の選手で裕介がフォワードというポジションだった。小林が振り返る。
「中学時代、僕は体がまだ小さかったんですけど、裕介くんはすでに大きくて、"大人"でした。裕介くんの裏にパスを出せば、走り込んでズバーンと決めていましたね」
転機
小学校、中学校とチームの中で順調に結果を出してきた裕介が、ひとつの転機を迎えたのは高校入学だった。進学したのは、神奈川県の強豪チーム桐光学園高校だった。高円宮杯を制した実績のある横浜F・マリノスジュニアユースからも何人もの選手が進学する桐光学園高校の中で、裕介は"雑草"の選手だった。もちろん、1年から試合に出られるはずもなく、ボール拾いをする日々が続いた。でも、そのことで気落ちしたりはしなかった。いつもスタートから何もせずにうまくいったことなどなかったからだ。
「慣れてるんです。町田JFCに入ったときもうまいやつはいっぱいいた。でも、結局最後は自分が中心となってやっていたので、またそうなるだろうという思いはありました。だから、決して自分は最初から目立つ存在ではありませんでした」
それは、監督の佐熊も言っていたことだった。
そんなある日、佐熊監督からサイドバックへのコンバートを告げられた。
ショックだった。
それまでずっと攻撃の選手だった。まったくやったこともない守備のポジションへのコンバート。口に出すことは出来なかったが、「なんで後ろで守らなくちゃいけないんだ」と悔しい気持ちがこみ上げた。だが、目的は「プロ選手になること」である。気持ちの切り替えは難しくはなかった。
「どんな形でも試合に出たかった。それからは、相変わらずボール拾いの日々だったけど、全く知識のないサイドバックの勉強をするようになった」
佐熊監督は、それまでも攻撃的な選手をサイドバックにコンバートしたことがあった。裕介をサイドバックにしたことについて、こう振り返った。
「初めて見た時から、フォワードでは大成しないのではないかと実は思っていました。「俺が!」という我侭さもなかったし、どちらかというと器用で小回りが効くタイプではなく、スペースがあるところで活かした方がいいのではないかと思ったのです。当時、たまたまサイドバックのポジションが空いていたこともあり、私はコンバートしました。最初は不慣れなところもありましたが、徐々に体もできてきて、ターンも速くなり、最初の1歩、2歩のスピードもついてきましたね」
やがて2年になり、裕介は試合に出るチャンスを掴んだ。
そして、大きな転機を迎えることになる。
ここに、1枚の写真がある。
2003年静岡国体、神奈川選抜優勝チームの集合写真だ。
谷口博之を始めとする横浜F・マリノスユース3年のメンバー、川崎フロンターレユース所属の2年の都倉賢、桐光学園高校からは3年の本田拓也を始めとするメンバーが揃った。実に8名がその後プロ選手となった神奈川選抜だが、優勝は大番狂わせと言っていい快挙だった。ここに田中裕介がいることに、何ら疑問を感じないが、実は、運命を変える程の大きな出来事が裕介の身に起きていたのだ。
「まさに、運でした。本当に、まさかメンバーに選ばれると思っていませんでしたから」
2年生になった裕介はレギュラーにはなれたものの、まだ桐光サッカー部の中で確固たる地位を築いていたわけではなかった。周囲にはうまい選手がいっぱいいた。そんななか迎えた神奈川選抜のセレクション。裕介は足を捻挫していたのだが、その事実を佐熊監督はもちろん周囲にも秘密にし、自分でテーピングをぐるぐる巻きにして出かけていった。
「当時はマリノスユースのメンバーがずらっと揃っていて、でも、その時マリノスのサイドバックの選手が怪我をしてセレクションに来られなかったんです。自分は、無理してでも行こうと思って、その最初のセレクションに出たことがすべてでした」
そこから何度かのセレクションで、高校の先輩たちも落とされていくなか、裕介は残った。
チャンスを掴み取った裕介は、サイドバックのスタメンとして全試合に出場、なんと神奈川選抜は優勝を果たし、2年生ながらその優勝チームの一員となれたのだ。このチームは所属した誰もが勝因を「チームワークの結果」と話していた様に、個々の能力以上にチームワークの良さが優勝への原動力となった。裕介にとって、想い出深い夏となった。そして、怪我を押して参加した行動によって、運命が変わろうとしていた。
「僕は、ここからなんですよ。無理してセレクションに行って受かっただけでもすごいことだったし、メンバーに入れて試合に出なくてもいいぐらいだったのが、スタメンで試合にも出られて、さらには優勝して。もし怪我でセレクションに行ってなかったらもちろん国体メンバーになれなかったし、優勝も経験できなかった。それに…」
裕介が言葉をつなげる。
「あそこで試合に出ていたから、マリノスのスカウトの目にとめてもらうことができたんです」
マリノスユースから8名もの選手が参加していたためスカウトも試合会場に足を運んでいた。そこで、裕介を初めて認識したのだ。
この国体の意義が大きかったのは、裕介が3年になる頃、怪我をしていたことも起因している。スカウトの活動が活発になるその頃に怪我をしていた裕介だが、2年の国体でのプレーを観てもらえていたことによって、その成長をすでに知ってもらえていたからだ。
そのため怪我が治った頃、マリノスからJFA・Jリーグ特別指定選手のオファーが届くこととなった。
3年生になると桐光学園でもキャプテンも務め、U-18日本代表にも選出されるようになっていた。
雑草だった裕介は、中学時代同様に、積み重ねた結果、誰もが認めるところにまで地位を築いていたのだ。
「マリノスから声をかけてもらい、夢のような話でした」
挫折
当時のマリノスは、日本一にも輝くなど錚々たるメンバーと成績を残していた。高校3年で練習に参加し、そのスキルの高さを目の当たりにした裕介は、さらにモチベーションをあげプロ選手になる目標に近づいていた。実は、進路を決める際に、桐光学園の佐熊は、大学進学も選択肢として勧めていた。「まだ、すぐにはプロでは厳しいだろう」と思ったからだ。だが、裕介はマリノスに行くことを決めた。そして、加入してから、本当のプロの厳しさを体感することになる。
2005年、高校卒業後、横浜F・マリノスに裕介は加入した。
神奈川選抜で優勝をともに味わった飯倉大樹、天野貴史、さらに狩野健太らが同期だった。そして、そこから約2年近くに渡り、試合に出るチャンスに恵まれなかった。
プロ1年目の年は、練習試合にすら出ることができなかった。当時のマリノスは人数も多く、レギュラークラスの選手たちも錚々たるメンバーだったため、J1の試合に出られない選手が調整のためにサテライトリーグや練習試合に出場していた。守備の選手を挙げてもドゥトラ、中澤、松田、中西、那須、河合、栗原…、数え上げたらきりがない。プロ1年目の裕介が入る隙は、どこにもなかった。幸いなことに同期のメンバーたちとは仲が良かったし、前向きな話ができていたことは救いだった。だが、子どもの頃から何でも自分で決断し、他人の影響を受けず、自らプロサッカー選手になるため、わき目も振らず進んできた裕介は、この時も、誰にも自分の悩みを打ち明けることはできなかった。
「寮の部屋に篭って、これから先プロとしてやっていけるのかって、いろんなことを考えましたし、外にほとんど出かけませんでした」
もちろん、練習には100%の力で取り組んでいたし、どんな状況でもトレーニングになれば全力を尽くしてはいたので、後から振り返れば良かった面もあった。
「出ていない選手はコンディションを上げるために走りのメニューがすごく多かったんです。自分はこれしかやることがないと思って、そこは絶対に手を抜かないでやろうと思った。練習中もそうだし、練習後も走ったりしました。自分はそんなに持久力があるほうではなかったけど、その時のおかげで最終的にはマリノスでも持久力では上位だったし、2年目ぐらいから体力には自信がついてみんなについていけるようになりました」
だが、2年目になると、さらに精神的に厳しい状況に追い込まれた。
練習試合には出られるようにはなっていたが、やはりベンチにすら入れない。しかも、同期の狩野、天野は試合デビューを先に果たしていた。焦っていた。
「1年目は不完全燃焼だったので、もっと追い込んで勝負しよう。ダメだったらレンタルも考えようという気持ちでしたけど、むしろ精神的には1年目より厳しかったかもしれません」
それでも、練習試合で全力を尽くし、少しずつだがレベルアップしている手応えは感じていた。
目覚め
チャンスは何の前触れもなしに唐突に訪れた。
2006年11月5日第86回天皇杯全日本サッカー選手権大会4回戦対愛媛FC。マリノスはこの年2003年から率いて一時代を築いた岡田武史が8月に退任し、コーチの水沼が監督に昇格していた。その水沼から与えられた突然のチャンス。裕介は、緊張の何十倍もの喜びに体が震え、両親に連絡し、試合に招いた。
11月5日、三ツ沢球技場。左サイドバックで出場した裕介、センターバックの左には最も尊敬する中澤がいた。
「Y(ワイ)、こっちだ! 違う、もっと左だ!」
中澤は初めて試合に出る裕介に怒鳴り続けた。裕介はそれまでに、中澤ほどの経歴のある選手が誰よりもグラウンドに早く来て体のケアをし準備を怠ることなく、練習にも全力で取り組む姿を見てきた。その中澤の隣でプレーしてみて、感じたことはあまりにも多かった。
「試合に出てさらにユウジさんの凄さが身をもってわかりました。例え自分が抜かれてもユウジさんがいてくれるということがたくさんあったし、本当に助けられました」
この試合、愛媛の健闘もあり延長までもつれ120分を戦ってマリノスは辛勝した。最後は、両足が攣っていた。そして、心地よい疲労が裕介の身体に広がった。
そして、この試合からこのシーズンの終わりまでの4試合全てに裕介は出続けた。あっという間の幸せな時間だった。
「試合に出られたことで、チャンスが自分にもあるんだというのが最大のモチベーションになりました。試合に出る前と出た後では、そのモチベーションが大きく変わりました」
翌年以降、裕介はマリノスの世代交代があったことも理由のひとつにはあるが、着実に試合に出る選手へとなっていった。
そして迎えた2008年。
この年、北京五輪が開催された。
裕介は、前年の2007年にも一部オリンピック代表に招集されてはいたが、2008年になってからは五輪直前までずっと五輪代表チームに呼ばれていた。あとは、本戦を残すのみ、だった。
しかし、結果は落選だった。
4年目となるこの年は、ストッパーとしてレギュラーも確保し、プレーの波も少なく、裕介自身も体のキレを実感していた。メンバー発表となる直前、裕介は怪我をしていた。足を捻挫していたのだが、それでもプレシーズンマッチに出た。理由はふたつ。北京五輪前、最後のチャンスだったことと、チームで監督解任の噂があったことだった。どちらも全力を自分が尽くして、結果を待ちたかった。
「足がちぎれてもいいと思っていました。だから、オリンピックは落選しましたけど、その試合に出た結果なので実力でダメだったのだからしょうがない。監督についてもその後代わりましたけど、自分の力不足もあっただろうけど、試合に出たことについて後悔はなかったです」
五輪代表には、サイドバックにA代表にすでに選ばれていた長友、内田がいて、最終的には彼らが入り、裕介は落選した。足は捻挫で腫れ上がり、靴がやっとはけるほどひどかったのだが、裕介は落選の理由を怪我のせいにしたくなかった。その後、2ヶ月を棒に振ることになったので、そのことに対してはチームに申し訳なさは感じていたが、やるだけやった満足感は残った。
まさに、高校時代、神奈川県選抜に怪我を押してセレクションに出かけていった裕介の姿と重なる。
目の前のチャンスに、喰らいついて運命を変えてきた裕介らしいエピソードである。
運命
2011年、裕介は7年在籍した横浜F・マリノスから川崎フロンターレに新加入した。ちょうど契約が切れる年だったため、残留する選択肢の他に、移籍の選択肢もあり、オファーも届いた。裕介は考えた。
「自分の中で行動に移すことが大事だった。フロンターレに移籍できたことも自分の中では運がよかったと思っている。そういう運を逃したくなかったし、後悔をしたくなかった」
そして、裕介はフロンターレで右サイドバックとして試合に出ている。東日本大震災の後、再開されたベガルタ仙台戦では惜しくも負けてしまったが、今季初ゴールも決めた。
守備に関しての安定度は言うまでもないが、目を見張るのが、後半も時間が過ぎてから時折放つミドルシュートだろう。体の軸がぶれることなく、枠を捉えるのだが、それは彼の持つ身体能力の高さをよく表している。矢野フィジカルコーチは言う。
「裕介はチームの中でも長距離と反復する動きを継続できるテストで、チームトップクラスの成績です。つまり、サイドバックに適した身体能力を持っていると言えます」
そのことは、裕介が考える「プロ選手として」のありかたにも関係してくる。
「プロになってより感じるようになったのは、いろんな人に見られるということ。見られる職業なので、見てもらった時に何かを感じてもらえるような選手でありたい。感動を与えることだったり、自分は体力にも自信があるので、きつい時間帯に自分だけ動けていたり、そこでオーバーラップの1本が仕掛けられれば何かを感じてくれる人もいると思う」
フロンターレでタイトルを取る。
それが、今の最大の目標であり、モチベーションだ。
「今はチームのスタイルを確立しているところで、最初は結果もなかなか出ないこともあったけど、途中で投げ出してしまったらそこで負け。大事なことはしっかり土台を作り、なおかつ勝つこと。フロンターレはこれまで2位に甘んじてきて、それを変えようとしている。タイトルは簡単には取れないのもわかっている。今はチームが変わろうとしているところ。その先にタイトルという目標があることをしっかり見据えて、貢献したい」
裕介が、自分のサッカー人生を振り返り、繰り返し発した言葉がある。
「自分は、運がよかった」
だが、その運には、喰らいつくことがなければ出会えなかったであろう。運を引き寄せるために出来る限りの努力をし、結果的に自分で運命を変えてきたのではないか━━。
「でも、努力とは思わないです。不得意なことを克服するのが努力だとしたら、自分は幼稚園の頃から大好きなサッカーをやってきているだけ。それは幸せなことだし、やるのは当たり前のことです」
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[たなか・ゆうすけ]
横浜F・マリノスから新加入。最終ラインすべてのポジションをこなす万能DFがチームに加わった。サイドバックに入った際には、機を見たオーバーラップで攻撃にアクセントをつける。1986年4月14日/東京都八王子市 生まれ。
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