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ピックアッププレイヤー

2011/vol.06

ピックアッププレイヤー:GKコーチ・イッカ

このお話を読んでいただく前に、皆さんぜひHPのスタッフプロフィール欄にアクセスしてみてください。
麻生グラウンドで、毎日愛弟子のGKたちに強烈なシュートの雨あられを浴びせる「イッカさん」の履歴書を一緒に、ゆっくり読みといていくことにしましょう。

01はじめに

「バルボーザ」というブラジル人GKの名前で、ピンとくるフロンターレサポーター・ファンの皆さんは、相当年期の入った「オールドファン」だと思います。

 ここまで書いて、ふきだしてしまいそうです。書いている自分がよく知らないからです。なにせバルボーザさんは、このお話の主人公「イッカさん」が生まれた1957年4月4日よりもずっと前、どうやら1921年生まれの方だったそうです。

 1950年ワールドカップ・ブラジル大会決勝。対戦カードは、ブラジルvsウルグアイでした。リオデジャネイロのマラカナンスタジアムは、チケット購入者だけで17万人以上の観衆で埋め尽くされました(大会関係者、招待者、メディアを含めると当日の入場者は20万人以上だったともいわれています)。母国開催という後押しも受け、ブラジルは決勝まで快進撃を続けました。決勝、先制したブラジルは後半にウルグアイの反撃を受けました。66分、同点に。そして79分、ギジャのゴールにより、逆転を許したブラジルは母国開催での決勝で、ワールドカップ優勝を逃しました。

 この「マラカナンの悲劇」は、次々と書籍、そして映画化され、やがて「伝説」と化していきます。そして多くの人に戦犯扱いされたのは、決勝点で自らのニアを抜かれたGKバルボーザでした。バルボーザは生前、「人生で一番悲しかったのは試合から20年たったある日のことだった」と語っています。あるお店で、バルボーザを見つけたある女性が、息子に向かってこう言ったというのです。「あの男よ。あの男のせいでブラジル中が泣いたのよ」。

 数奇なキャリアを辿ったGKは、ゾフ(イタリア)、ベル(カメルーン)、ドゥカダム(ルーマニア)と名前を挙げればキリがありません。しかし「悲劇の」という形容詞の一番しっくりくるGKの1人が、おそらくバルボーザでしょう。

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 GKは、最も槍玉に挙げられやすいポジションだ、とフットボールではよく言われます。そして最もそれが極端な国はおそらく、イッカさんを育んだ王国、ブラジルです。

 インタビューの最初に、イッカさんに聞きました。「バルボーザさんを生んだブラジルという国で、あなたは数あるポジションの中からなぜ、キーパーというポジションを選んだのですか?」

 イッカさんは、まず笑いました。「私が生まれるよりもずっと前の話だ……」

 そしてこう続けたのです。「バルボーザさんの話は今もテレビで流れているし、話題の対象になる。彼はその試合後、ずっと人目から隠れるようにその後の人生を過ごしたんだよ。ジーコやその仲間が彼を見つけ、彼が胸を張って生きることができるよう尽力したんだ。おそらく、氏が辿ったのは本当に困難な人生だったと想像する。でもブラジルサッカーでは、あり得ない話じゃない。ブラジルにおいてサッカー選手に求められる要求は、その当時からとてつもなく大きいし、それは今も変わらない。」

━━ではあらためて。なぜあなたは、キーパーというポジションを選んだのですか?

「ごく自然に。自分の特徴、性格に合ったポジションが、キーパーだった。そして、キーパーというポジションが好きだった」

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01忘れられない引き分け

 イッカ"ICA"ことルイス・エンリケ少年は、100人いたら98人くらいあてはまるブラジル人少年の例に漏れず、小さな頃から当たり前のようにボールを蹴っていた。生まれ故郷の小クラブでサッカーをしていたが、ミナスジェライス州の名門クルゼイロが「いい選手がいる」という噂を聞きつけ、彼のプレーを見に来た。エンリケ少年はそのままテスト生から練習生としてクルゼイロに入団し、「イッカ」になった。12歳の時だ。

 ブラジルでは、ミリン(12歳以下)、インファンチル(15歳以下)、ジュベニール(17歳以下)、ジュニオール(20歳以下)と育成年代が細かく分けられている。当時ミリンの練習生として入団したイッカは、13、14歳のときにはそのままジュニオールの練習への参加が認められた。試合のときに必要であれば本来の年代のチームに入り公式戦に参加したが、練習では常に年上の選手のDFに指示を出して動かし、大人さながらのシュートをその身に受けて育った。各年代でクルゼイロの一員として、何度も年代別大会のタイトルを獲得し、勝つことの喜びを覚えた(もちろんたまに、最大のライバル、アトレチコに敗れて悔しい思いもした)。

 ジュニオール時代の19歳となったときに、プロ契約の話が当然出たが、時代がそれを許さなかった。イッカは当時の五輪代表候補に選出されていたため、当時の規約では、プロ契約が許されなかったのだ。契約は21歳になるまで待たなければならなかった。年代別代表候補に選出されるほどの実力を持ちながら、クラブから最低限の衣食住が保証されるだけで、給料は出なかった。

「いまは随分、時代が変わったね。実力さえあれば16歳でもプロになれる。だから、21歳で初めてプロになった時の喜びは忘れられない。当時、私はクルゼイロで3番手のキーパーだったんだ。レギュラーには、ハウーという素晴らしいキーパーがいた。ハウーを知っているか? 当時、キーパーとしては初めて明るい色、黄色のユニフォームを着た選手だったんだ。それが、とんでもなくかっこ良くてね」

 僕はハウーを知らないが、選手として3番手時代のことをこんなにうれしそうに話す人もあまり知らない。イッカにとってハウーは本当に尊敬できる大先輩だった。 

 やがて、ハウーがフラメンゴに、2番手キーパーのエリオがアメリカに移籍。イッカにチャンスが回ってきた。プロとして、初めて「デビュー」を果たしたのは、ブラジル国内ではない。スペインだった。
「当時、親善大会でヨーロッパ遠征があったんだ。プロとして初めてスタメンを得たのが、スペイン遠征のとき。相手はバレンシアだった」

 2−1での勝利だった。ひたすら緊張したこと、そして勝利の瞬間を覚えているという。
 プロとして初めて得たタイトルは、ミナスジェライス州選手権だった。
「決勝の相手? アトレチコだよ。いつもの相手だ(笑)。何度試合をしたか、覚えていないよ」

 対戦相手にはトニーニョ・セレーゾがいた。1試合目が1−1の引き分けだった。2試合目が1−0での勝利。フロンターレの公式サイトにある「サッカー人生で一番嬉しかった試合」がこの1試合目の引き分けだ。彼はきっと優勝という大きな喜びにつながる、大事なプロセスの方が体の芯に残っている。

09

「3足のわらじ」

  その後、1983年、イッカはリオデジャネイロ州の古豪、ボタフォゴに移籍することになる。サンパウロ州のサントスからも声がかかったが、当時のサントスにはホドウフォ・ロドリゲスという有名なウルグアイ人GKを擁していた。約15年育ったクルゼイロを離れ、より熱心に誘ってくれたボタフォゴに移籍を決めた。
 この年、イッカはボタフォゴの一員として日本を生まれて初めて訪れた。ジャパンカップ・キリンワールドサッカー(現・キリンカップ)に参戦したのだ。当時の参加チームはボタフォゴのほかにニューカッスル、ヤマハ(現・ジュビロ磐田)、シリア代表、そして日本代表。多彩な顔ぶれだった。

「ボタフォゴに移籍してから2週間目くらいでのあっという間の遠征だった。ボタフォゴに慣れるのに一生懸命だった時期に、日本遠征だったんだ。こんな秩序だった国があるんだ、と驚いた。東京と神戸で試合をしたんだ。全部の参加チームが一緒になってね。良い思い出だ。日本の人々はとても静かな印象だった—いまはだいぶ明るいね—けど、親切な国民性に非常に好感を持った。でも、サッカーが根付いているとはお世辞にも言えなかったね。当時のニューカッスルにはキーガンもいたんだよ。でも、ほんの少ししかお客さんがいなかった」
 まさか自分がいずれ、日本で指導することになる日がくるとは想像もしなかった。

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 イッカは現役時代、8チームでプレーしている。そのうち、最初のクラブ、クルゼイロは「自分を形成してくれた」クラブだという。選手として脂ののり始める20代中盤から、ボタフォゴで、フラメンゴやバスコダガマ相手にしのぎを削ったことも体に、心に刻み込まれている。クルゼイロは、ミナス州では「優勝」を義務づけられているチームだ。リオでのボタフォゴは少し趣が異なる。ミナスを離れ、リオという大都市で過ごした約6年間は強クラブに対する「挑戦者」としての立場だった。

 30歳を前にするころだ。イッカのキャリアは、小さなクラブを渡り歩いてつくりあげられていく。大学で、勉強をしたかった。ボタフォゴでプレーし続けることもできたが、全国選手権などで移動が激しく、選手業と学業の両立は難しかった。その条件を飲んでくれたのがツピFCだった。学業と選手業の両立をしながら、カボフリエンセ、オラリア、モトクルベ、ボンスセッソ、フリブルゲンセと続く。正確に言えば、最後は両立ではない。もうすでに、指導も任されていた。現役引退することになる最後のクラブ、フリブルゲンセでは学業、選手業、そしてコーチ業、3足のわらじを履いていた。
「3人が成長するために、どんなメニューが必要か考えながら練習させて、指導が終わった後、自分が必死で練習する。なぜか。自分がプレーするからだよ。毎日必死で頑張っている3人に、自分の方がまだ実力が上だ、ということを試合で示さなければならなかったから」

 当時2部だったフリブルゲンセは、この年、1部に昇格した。そのままプレーしていれば再び、フラメンゴや、バスコといった1部の名門相手にもう一花咲かせることも可能だったはずだ。でも、イッカはその道を選ばなかった。イッカは38歳で現役生活に幕を下ろし、95年から指導者一本の道を歩み始めた。

4人のイッカ像

 「キーパーというのは1つのクラブに3人か4人がいて、ポジションを得るためにしのぎを削る過酷なポジションだ。でも本当に大事なのは、『プレーしているのは1人じゃない』ということなんだ。3人、4人の仲間の代表として、クラブのエンブレムを背負ってピッチに立っている。みんなで戦っているんだ。だから、キーパーは1人じゃないんだよ。ここを間違えちゃいけない。キーパーは決して1人じゃ戦えないポジションだ」 

 このインタビューの前に、「イッカGKコーチ像」を相澤、杉山、安藤の3選手、そして練習参加していた川島永嗣(リールセ=ベルギー)選手に尋ねていた。彼らがイッカから吸収していることは、4人それぞれ、さまざまだった。すべてを紹介していくと、それぞれのロングインタビューになってしまうので、ほんの少しずつ抜粋して紹介します。

相澤貴志
「何気なくかけてくれる言葉からして、信頼できるコーチです。日本歴も長いし、日本人こともよく分かっているコーチだと思う。言葉もすっと入ってきますし、それでいて打ってくるシュートが正確で強いし。試合に入っても、落ち着いて対応できます。当たり前のことを当たり前にやっているコーチです。自分がケガをしているときも試合に出られない時も、自分の感じ方としては『イッカは変わらない』ということです。出ている時も出ていない時も変わらない。ずっと同じスタンスでやってくれるから、僕も同じスタンスで、出ている時も出ていない時も良い準備をしようと思えます」

杉山力裕
「ピッチ内でも外でも、とても細かいことに気を配ってくれてくれるコーチだと思います。それがイッカの自然体なんだと思います。キーパーみんなが切磋琢磨してポジションを争っているわけですが、その中でも『ファミリー』の絆を大事にするんですよ。イッカとキーパーだけで食事に行くこともありますし。『誰が出ても心配していないし、誰が出ても信頼している』と常日頃から言われています。『コンフィアンサ(自信)』という言葉をよく言いますね。僕はいまケガをしていますけど、励ましの言葉ではなく『今できる仕事をやっておこう』と言います。手は使わなくても心肺機能は高められる、と。自然に、通常メニューに合流したときのことを考えてくれているんですよね」

安藤駿介
「筋力系のメニューだったり、コーディネーションだったりメニューが多彩です。蹴る球も正確ですし。本当にプロフェッショナルですよ。あとはキャッチにこだわる。キャッチは両手じゃないとできないわけで、そのためにはステップワークとかいろんな要素が必要になる。キャッチできるボールをはじいてしまうと、『ゴールには入らなかったね。でもここでキャッチできないボールは、試合でもキャッチできないから』と。練習という言葉よりも『仕事』と言いますね。毎日ここで『仕事』をすれば等々力でもアウェーでも結果は出る、と。ここでやってることが試合に出るという考えですね。

そして、最後。
川崎が生んだ日本代表守護神・川島永嗣
「イッカの練習メニューは的を射ているとよく感じました。選手個々のコンディションを見ながら練習メニューを決めてくれますし。自分の考えを押し付けるんじゃなくて、選手個々を見ながら臨機応変に、そのとき一番良いメニューを用意してくれるコーチだと思います。練習は厳しいんですけど、それが単純にならないような工夫をしてくれていると感じることも多々ありました。本数も選手個々を見ながら決めるんですよ。本当に細かく見てくれている。アドバイスも個々それぞれです。僕の場合は、なんですけど体が下に落ちてしまうことがある、と。『反応が早いんだからもっと自然体でいい』、とよく言われたことを覚えています。イッカと出会って、多くのシュートを止めるためにギリギリのシュートを数えきれないくらい蹴ってくれた。その繰り返しをしてくれた。その「幅」を広げてくれたのがイッカだと思っています」

 4人の「イッカGKコーチ像」はそれぞれ様々だったが、こんな言葉が共通していた。
「イッカは、誰も特別扱いしない。常に平等にみんなを見ている」

07

 イッカは98年〜2006年まで鹿島でGKコーチを務め、00シーズンの3冠を含め、6冠(リーグ優勝、ヤマザキナビスコカップ、天皇杯)獲得に貢献した。彼を鹿島に呼んだのはほかでもないジーコだ。ジーコのクラブCFZの前身「リオデジャネイロ」でGKコーチを務めた手腕と実績を買われた。その後、トニーニョ・セレーゾ監督の元で、アルシャバブ(UAE)でもGKコーチを務めている。川崎に来たのが09シーズンから。3年目を迎える彼はプロフェッショナルの誇りと、愛を持って選手に接し、一人ひとりとの信頼関係を築いてきた。

 優勝までの労を、そして勝てない時期の辛苦を、そして何物にも代え難い喜びが、イッカの顔には刻み込まれている。フロンターレがこれまで何度も手が届きそうになったタイトル奪取のために何か足りないものがあるとすれば、それをどのようなものだと考えているのだろうか。

「フロンターレは、着実に相手からリスペクトされるチームになってきた。それでもまだ足りないもの、それは、それでもまだ勝つことだ」

 そういえば、ずっと思っていたのだが、イッカさんのグラウンドネーム"ICA"はどこから由来しているのだろうか。
「私の名前はルイス・エンリケ(Luiz Henrique)。その語尾を取って、イキ"Ique"っていうのが本来のあだ名だ。家族はみんな、私のことをいまだにイキと呼ぶよ。ミナスの田舎ではイキと発音するのが普通だけど、州都のあるベロリゾンチではイッカと発音する方がよかったようだ。12歳のときにクルゼイロに行ったときイッカと呼ばれ始めたんだ。同じ時代のポンチプレッタというチームにルイス・エンリケというとても有名なキーパーがいたしね。みんなに覚えてもらいたいから僕のグラウンドネームは"イッカ"だ、と受け入れたよ。でも、家族や古い友人は、いまだに僕のことをイキと呼ぶのさ」

 イキさん。日本語で「粋」と漢字を当ててみると、なんだかとてもしっくりくる。

 取材ノートのはじっこに走り書きのメモがあった。イッカは別メニューで調整していた選手に声をかけている。5月8日稲本に、5月14日黒津に。愛弟子のGKたちに強いシュートをインサイドで、ハーフバウンドするボールをインステップで器用に蹴り分けながら、彼らが側を駆け抜けていくとき冗談まじりに、そして、ごく自然に励ました。

「性格的に合っていたからキーパーを選んだ」という言葉には、凄みがある。
 川崎フロンターレが誇るGKコーチ。

 イッカはどこまでも視野が広く、寛大で、そして、とてつもなく強い。

profile
[いっか]

「自分にとってサッカー=GK。GKはすべてを見なくてはいけない。誰もができるようなポジションではなく特別な練習をした人だけができるもの」2009年〜川崎フロンターレGKコーチ。1957年4月4日/ブラジル、ミナス・ジェライス州 生まれ。
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