2011/vol.07
ピックアッププレイヤー:MF20/稲本潤一選手
Jリーグに復帰し、フロンターレでの2シーズン目を迎えた稲本潤一。今年で32歳を迎えるが、対人守備や厳しいプレッシャーがかかる局面で見せる強烈なフィジカルコンタクトは、世界の舞台を経験した彼ならではの迫力がある。稲本といえばダイナミックなゴール前への飛び出しから印象的なゴールを決める印象が強いが、フロンターレでは守備で魅せることもできる万能型ミッドフィールダーとして存在感を示している。今回は海外に渡る前の若かりし日の稲本に焦点を当て、そのルーツ、そして日本サッカーへの思いを探る。
Jリーグのない時代からプロを夢見て
中学生の頃から年代別日本代表に選ばれ、若干17歳でJリーグデビュー。10代の頃からG大阪の主力選手として活躍し、21歳で海外へ。プレミアリーグの古豪アーセナルをはじめとするヨーロッパの数々のクラブでプレーし、日本代表でワールドカップ3大会連続出場を果たした。プロフィールの実績をたどるだけでここまで多くを語れる現役サッカー選手は、Jリーグではもはや数えるほどしかいないだろう。
将来有望な選手が海外のクラブへ移籍することが珍しくなくなった昨今だが、世界的には無名だった21歳の日本人選手がアーセナルへ移籍するというニュースは衝撃的だった。当時の稲本は守備もできる攻撃的な中盤の選手というふれこみだったが、小学校時代はセンターフォワードで、小学校5年のときに大阪トレセン、6年生で大阪選抜、関西選抜にも選ばれた点取り屋だったそうだ。
「サッカーのはじめたのは幼稚園のときで、小学校に上がったときも同じクラブでやってました。こうしていままでサッカーを続けてるんやから、やっぱり楽しかったんかなあ。子供の頃から当たり前のようにボールを蹴ってたし。小学校のときはドリブラーだったんですよ。そこそこ足が速ければ抜ける時代やったから。いまでいうトップ下やボランチのポジションになったのは、ガンバのジュニアユースに入ってからですね」
稲本が小学生の頃は、まだJリーグが発足していない時代。だが本人の頭のなかには、サッカー選手として生活することがボールを蹴る延長線上にあったという。
「小学校の頃からオリンピックに出たいといってたし、プロもないのにサッカーでご飯を食べたいと考えてました。まぁ、意味がわかってへんかったとは思うねんけど。そこで地元の中学校のサッカー部に入るならそっちにいくかと小学校の先生にいわれて、ガンバにいくことにしました。地元は堺やからクラブでいえばセレッソ大阪ですけど、当時まだユースがなかったんですよね。ガンバの練習場は吹田の方やから、家からめっちゃ遠かったなあ」
ガンバ大阪のジュニアユースに入団してからは御堂筋線に揺られながら大阪中心部を縦断し、2時間近くかけて練習場に通う日々がはじまった。ほぼ始発に近い時間に家を出て、終電間際の電車に乗り込み家路につく。中学時代は照明設備のないグラウンドで練習することも多く、冬場はランニングして終わりの日もあれば、コーチの車やバイクのライトを照らして練習することもあったそうだ。
「でもサッカーが楽しかったから、全然苦にならなかった。まぁサッカー漬けの日々でしたよ。仲間とふざけあいながら帰りの道中をすごすぐらいで、中学高校と遊んだ記憶はほとんどないですね。入団した頃はヴェルディが強かった時代で、やっぱりカズさんやラモスさんとかがヒーローでした。ジーコも現役でやってたし、アルシンドもいて、すごい外国人選手がたくさんいた時代。関西だとガンバの監督が釜本邦茂さんやったし、永島昭浩さんや本並健治さんがいた時代ですね」
クラブチームのアカデミーは将来有望なサッカー少年がひしめく狭き門だが、本人いわく「Jリーグと同じ年にガンバユースが立ち上がり、その頃は1人でも多く人を取ろうという方針で間口は広かった」とのこと。だが当時のクラブ関係者に話を聞いてみると、稲本のボディバランスは中学時代から飛び抜けていて「遊びのミニゲームでボールを取りに当たりにいっても、相手の動きを察知して体を入れられ、逆につぶされてしまう」と大人のスタッフが舌を巻くほどの体の強さだったそうだ。当時から身長は高かったが、180センチを超えてくれば大きな舞台で活躍できる選手になると関係者から大きな期待を寄せられていた。実際にジュニアユースでは中学1年生で中学3年生の試合に呼ばれ、中学2年生でレギュラーになり、全国大会にも出場。中2の後半にはU-14日本代表候補の合宿に招集され、そこから各年代の代表をすべて経験し、とんとん拍子にA代表まで登り詰めることになる。
「中3になる前の春休みになんでかしらんけど代表に選ばれて、そこからずっと入ってた。ほんで中3の秋ぐらいにアジアユースで優勝したんです。でも、ほんまのポジションじゃなかったですからね。代表では右サイドバックやった。高原(直泰)がその頃は中盤をやってて、(小野)伸二がいて、ずっと彼らが中盤にいたから」
G大阪のトップチームからアカデミーまでを万博に集め、すべて一緒の練習場に集約されたのが1997年。それまではジュニアユースは土のピッチのグラウンドを借り、そこが借りられないときは他の練習場を転々と渡り歩いた。当時と比べるとプロに触れる機会を含め、Jリーグ全体のアカデミーの環境ははるかに良くなってきたと稲本は話す。
「いまの方がトップチームの選手たちを身近に感じる機会は多いんじゃないかな。指導者もプロ上がりの人が多くなってきたし、いまはガンバも一緒の練習場でやってるから。ここ(麻生グランド)にしても上の人工芝のグラウンドで子供たちが練習してて、そこからトップの選手たちが練習終わりで上がってくるから身近に感じるわけじゃないですか。昔に比べたら素晴らしい環境になってきたと思いますね」
17歳でレギュラーの座をつかむ
才能を認められジュニアユースからユースへ上がった稲本は、プロを夢見てボールを蹴り続けた。当時ガンバユースを指導していた上野山信行コーチから世界を意識しろといわれ続け、止めて蹴るロングボールの反復練習で基礎技術を徹底的に磨いた。当時の関係者たちは「もちろん才能はあったが、努力で登り詰めた選手」と稲本を評している。
「高校1年のときに高3の試合に出たり、世界選手権U-17があって3-5-2の右ウイングバックで試合に出て、いろいろ経験していくにつれて自信がついていった。より上のレベルでやらそうというクラブの方針も見えていたし、トップチームの合宿に参加させてもらったり、サテライトリーグに出させてもらったりして、そのあたりからプロでやることを意識するようになりました」
ガンバユースの後輩に当たる井川祐輔は、当時の稲本のことをこう話す。
「当時は宮本恒靖、稲本潤一、新井場徹といったらユースからトップに上がった偉大な先輩たちで、僕らからしたら雲の上の存在。若いときからJリーグに出て活躍していたし、僕らユースの人間にとっては一番近い目標、そしてお手本だった。だから当時イナさんに声をかけてもらうだけでもうれしかったし、いまこうして一緒にプレーできているのも光栄というか、変な感じというか。何しろ身近にいたヒーローですからね」(井川祐輔)
クラブ関係者によると、稲本が飛び級のような形でトップチームでプレーするようになったのは、当時の監督だったヨジップ・クゼの影響が大きいとのこと。クラブの今後を考え、未完成だが伸びしろのある稲本を鍛えた方がいいというクゼ氏からの助言があったそうだ。稲本は高校2年生にして、のちにイングランドで対戦することになるプレミアリーグの古豪ニューキャッスルとのフレンドリーマッチに出場。ナビスコカップにも出場し、「ガンバにすごい高校生がいる」という評判は大阪から日本全国へと広がっていった。
「当時は海外のクラブがたくさん来る時代やったから。ニューキャッスルにはアスプリージャがいて、監督はケビン・キーガンだった。まぁ、その頃はケビン・キーガンが何者か全然知らんかったけど。ガンバが若い世代にシフトチェンジする時代で、新井場も高校生で試合に出てたし、僕らの上の代にもツネさん(宮本恒靖)をはじめいい選手が多くて、97年からがらっとチームが若くなっていった。ある程度強いチームになると下からの突き上げが難しくなるけど、クラブの意向とチームの若返りの時期のタイミングががっちりはまったんかなあ」
そして1997年、17歳6ヶ月という当時最年少でJリーグに出場。3試合後にはゴールも記録した。稲本はトップチームの練習に専念するため通信制の高校に転校し、本格的にプロの道を歩むことになった。
「ひと言でいうと楽しかった。若いからほぼプレッシャーもないし、失うものは何もないみたいな感じでやってたから。(パトリック)エムボマという世界的なビッグプレーヤーがいて、先輩たちには怒られながらやってきて、あの経験は本当に自分の財産です。17、18歳でほとんどの試合にスタメンで使ってもらったのも大きかったし、自信をつけることができた。初出場もゴールも当時は最年少記録やったからね。森本(貴幸)が出てきてすぐ抜かれたけど。あいつは中学生でベンチとか入ってたから」
高校生がJリーグに出場したというニュースは、当時大きく扱われた。だがクラブ関係者に聞いてみると、最年少での初出場記録よりもプロ4年目の2000年に最年少でJリーグ100試合出場(20歳10ヶ月)を達成したことの方が価値があると話していた。クラブや監督に若手を積極的に使っていきたいという意向があれば、チャンスを与えてデビューさせることはできる。だが、プロ契約もしていない高校生がトップチームの選手たちを押しのけ、そのままポジションを奪うのは至難の業だ。ピッチに入ったからにはプロレベルのパフォーマンスを見せなければ、チームメイトたちは絶対に納得しない。稲本はコンスタントに試合に出続けることで、その評価に応えてみせたというわけだ。
プロフェッショナルのプライド
「イナさんはサッカーに対してすごく真面目。若い頃は知らないけど。サッカー中心の生活をしているし、若い世代にはプロフェッショナルとしていい見本になると思う。グラウンドでも率先して声を出しているし、チームが元気のないときは空気を察知して盛り上げようとする。とくにうちは若いチームだから、そういったことがすごく大事。年齢が上の選手でああしようこうしようと話しているわけじゃないけど、自然と上が引っ張っていく空気になってる。イナさんは若い選手ともよくコミュニケーションをとるし、チームのことを考えていると思う。海外が長かったからそういった部分を発揮できなかったと思うけど、日本に戻ってきて2年目でやっと腰を落ち着けたんじゃないかな。1年目は移籍期限ぎりぎりでフロンターレに入ることが決まって、それからすぐワールドカップがあったし、いろいろ大変だったと思うから」(中村憲剛)
10代の頃から第一戦で活躍し、日本代表でも実績を誇る稲本なだけに、そのネームバリューはサッカーファン以外にも及ぶ。いま考えると、そのぶん稲本潤一の名前だけが一人歩きしていたようにも思える。昨シーズン、フロンターレに加入した際、各メディアは当然のこと、稲本をテレビ画面でしか観たことがない若手選手たちの間でも「あの稲本がくる」という話題で持ちきりだった。実際の稲本は非常に気さくな人柄で、すぐに後輩から茶化されるほどにチームに溶け込んだが、日本に帰ってきてからつねに多くの人々に囲まれる日々には若干戸惑っていたように見えた。
「まぁ、日本に帰ってきてからは日本語でダイレクトにくるから。活字とかもそうやし。自然と意識してきたんかもしれないけど、確かに日本に帰ってきてからの方が考えることが多くなったかな。それまでは年上やからチームを引っ張るという感じでもなかったし。けど、そういう役割を担ってきた人たちを僕らは見てきた。カズさん(三浦知良)に代表されるように、ゴンさん(中山雅史)、ツネさんもそうやったように、先輩たちがやってきたことを実際に見て、プロサッカー選手として業界全体を大きくしていくために何をやればいいのか、自分なりに解釈して学んできたつもりやから。
フロンターレで例えるならばヒロキさん、ジュニーニョ、ケンゴ、そして自分の姿を見て、下の世代がどういう風に感じるかだと思う。答えは人それぞれだと思うけど、何か感じ取ってもらえるならばありがたいし、それこそ経験ということじゃないですか。経験が受け継がれていくじゃないけど、そういった繰り返しがクラブ、そしてサッカーの歴史になってくるんじゃないかな」
稲本がクラブハウスに現れるのは、選手のなかではほぼ一番目か二番目。入念なケアを済ませ、日々のトレーニングに励んでいる。食事面に関しても非常に気を遣い、試合に向けた準備を怠らない。かといって年がら年中ストイックというわけではなく、プライベートにサッカーを持ち込まないことがメンタル面の充実につながっているようだ。では稲本の存在は、若い選手からはどう映っているのだろうか。
「2002年のワールドカップのときに自分は小学校6年生でした。もちろんテレビで観てましたよ。いまでこそイナさんと呼ばせてもらっていますが、昔は『イナモト』でしたからね。自分が子供の頃から第一戦でやっている人だし、とにかくサッカーをよく知ってる。海外経験のキャリアも長いし、体のケアやオンとオフの切り替え方とか、サッカーに対する取り組み方にぶれがない。プレー面では足腰が強いからか、一歩目がすごく力強いですよね。プレーにメリハリがあるのは、練習だけじゃなくて普段の生活からもきてるんじゃないでしょうか」(安藤駿介)
安藤だけでなく若い選手たちに話を聞くと、似たような答えが返ってきた。練習グラウンドで耳を澄ますと、稲本のかけ声がよく聞こえてくる。中村が話すように、アプローチの仕方は違えど上の世代が若い選手を盛り上げ、チームの雰囲気を作り上げているのがよくわかる。では逆に、稲本自身は若い選手たちを見て何を思うのだろうか。
「うーん、多少遠慮がちな感じはするかなあ。自分が若いときはもっと勢いがあったと思う。でも、それは僕らの世代が世界大会で結果を出せたからだと思うから、仕方ないところではあるけど。実績や経験がなくていきなりチームで勢いを出せというのも難しいと思うし。僕らは勝つことでより自信をつけた感じ。代表での経験がチームにも反映されて、それで多少なりとも前にいけてたのかな。
例えば安藤はアジア大会にレギュラーで出場して優勝したじゃないですか。その経験があったからこそ、フロンターレでの公式戦初出場のガンバ戦で力を出すことができた。そうやって積み重ねていくもんやと思う。ゴールキーパーが2人怪我することってめったにないけど、そういう状況でチャンスを引き寄せたのは日頃の練習の賜物やと思う」
自分にはまだやるべきことがある
稲本は「気持ち」という言葉をよく口にする。それは単なる精神論ではなくて、経験に裏打ちされた絶対的な自信からくるものだろう。技術、体力は理論的に鍛えることができるが、精神力はそう簡単はいかない。非常に曖昧で抽象的だからこそ、これといった方法はなく、自分の経験でしか培うことができないからだ。
「うちの若手は技術やスピードは持ってるものがあると思うけど、責任感のあるプレーっていうのかな。自分でプレーを選択してやりとおすことに関しては、まだ若干遠慮してる感じがする。だけど、それは自信を持つことで変わると思う。ユウなんかはゴールを取って、気持ちの部分で自信をもってやりはじめているし、クスやノボリとかもそう。だからそのチャンスをつかむために、日頃の練習態度ひとつからこだわっていかなくちゃ。結果を出すのが早ければ早いほど、たくさんの経験ができるわけやし。精神的な部分は周りがいってどうこうなるもんじゃないだろうから、苦しいときこそ自分自身で一歩前に出る勇気が必要だと思う」
数々の大舞台を経験してきた稲本の説得力がある言葉だった。今年はフロンターレで2年目、そして副キャプテンということも関係しているのかもしれないが、最近の稲本にはチームを引っ張っていこうという気概を感じる。実際にはどう思っているのだろうか。
「いままで自分はずっと海外にいたから、正直それどころじゃなかった。自分のことで精一杯で、チームを引っ張るとか考えるヒマもなかったし。でも日本に帰ってきて若い選手、知らない選手が多くなったっていうところで、先頭に立って引っ張っていく役割になってきたんかなって」
日本を離れていた時期が長かったからこそ、帰ってきて新しく見えたものがある。同世代の選手の活躍や苦しむ姿を見て、感じるものもあるかもしれない。だが稲本がJリーグで育ち、日本から世界に飛び出した先駆者の一人なのは間違いなく、その功績は日本サッカーの歴史に刻まれていくだろう。
最後に稲本は、こう続けた。
「30歳を超えてきましたけど、まだまだ若い選手たちの壁になる必要があると感じます。ここで自分が踏ん張ることが下の世代の成長にもつながっていくと思うから。
日本に帰ってきてフロンターレのサポーターがすごく歓迎してくれたし、毎試合熱い声援を送ってくれる。だからその期待に応えるためにも、チームのためにできることをやりたい。
フロンターレはピッチ内外で選手とサポーターの距離が近いということは移籍前から感じていたし、実際に試合に出てもイメージどおりの雰囲気やった。等々力はもちろんやけどアウェイでもあれだけの声援を送ってくれて、その声は確実に自分たちに届いているし、一歩前に出る力になってる。ヨーロッパのいろんなクラブでプレーしたけど、試合に勝てなかったときでもすぐに『次、がんばれよ! 俺たち信じてるから』と声をかけてくれるのは、はじめての経験ちゃうかな。それがいいか悪いかは考え方次第やけど、選手としてはやらなくちゃという気持ちになるのは間違いないわけで。
こうしていい環境のなかでサッカーがやれていることがありがたい。だから負けられへんよ。まだまだやらなきゃいけないことがあるかな」
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[いなもと・じゅんいち]
日本人離れしたボール奪取術と正確なフィードが特徴のMF。昨シーズンは日本代表とのかけ持ちで過酷なシーズンとなったが、コンディションが整えばチームの大きな武器になるのは間違いなし。1979年9月18日/鹿児島県姶良郡 生まれ。
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