2011/vol.09
ピックアッププレイヤー:MF18/横山知伸選手
2008年に入団して以来、順調にキャリアを重ねてきた横山知伸にとって、2010年は不完全燃焼に終わったシーズンだった。2009年のリーグ出場時間1,688分に対し、その半分にも満たない734分。それだけに今シーズンにかける思いは強かった。オフ期間も精力的に身体を動かし、練習初日の体力測定も上々の数値を記録。いい精神状態でスタートを切っている。ところが、訪れたのは、試練の日々だった。逆境と苦悩が続く中、横山知伸に生まれ始めた変化に迫った。
「センターバックは嫌か?」
2月の宮崎キャンプ中のあるとき、相馬監督からそう声をかけられた。何気ない問いかけのように思えたが、その返答は自分の今シーズンをも左右しかねないものでもあった。
「本音を言えば、ボランチで勝負したかったですよ。チームで3年間やってきたポジションですからね。でも、そこで『嫌です』なんて監督に言えるわけないじゃないですか(笑)。『どっちでもいいです』と答えたら、宮崎キャンプの途中からセンターバックになったんです」
実は今季のボランチは、チーム内で最激戦区ともいえるポジションとなっていた。中村憲剛、稲本潤一の日本代表経験者に加え、東京ヴェルディからは柴崎晃誠が加入。昨年、中盤の一角を担った田坂祐介も健在だ。ここに吉田勇樹、福森晃斗といった成長著しい若手も控えていた。そんなチーム事情もあり、ケガ人の出たセンターバックへの転向を打診されたのだ。
指揮官から提案を受ける形でコンバートされたが、ポジション争いで優遇されていたわけではない。宮崎キャンプの時期を、少し懐かしそうにしながら振り返る。
「2次キャンプのころになると、徐々にチームの序列がわかってくるじゃないですか。センターバックだと、スタメンがキク(菊地)とイガ(井川)さん、2本目が(伊藤)宏樹さんとソノ(薗田)で、最後に自分だったんです。5番目だったことにショックを受けましたね」
ただ練習試合を重ねていくたびに、自分の状況に変化が出てきた。あるとき、スタメン組として出場する機会が巡ってきたのだ。
「ザスパ(草津)とやって、その次に対戦した韓国のチーム(全南ドラゴンズ)のときに1本目で出れたんです。『ここで頑張れなければ、センターバックで5番目だぞ』と自分に言い聞かせて必死にやりました」
ポジションの序列が固まりだす2月の練習試合。逃すわけにはいかないチャンスだった。がむしゃらにプレーするのはもちろんだったが、そこにはボランチとしての経験を生かそうとする自分なりの工夫もしっかりと加えていた。
「今までウチのセンターバックは、つながずにロングボールを蹴ることが多かったんですよ。ボランチをやっていた自分からすれば、そこで大きく蹴らずに預けてくれればいいのにと思いながらやっていた。ボランチの立場もわかるので、つなぐことを意識しビルドアップしていましたね。相馬さんのこのサッカーだと、センターバックでもボールが回ってくる機会が多かったですし、自分の持ち味が出しやすかった。守備ではリスク管理のところ。例えば、相手のFWが2枚残っていたら、後ろに残っているのは、2枚プラス1枚でいい。さらにそこでチャレンジとカバーで取り切ってしまえば、ボランチも楽をできる。だから、ボランチを助ける動きを意識してましたね。監督がそういうプレーを選手に求めていたのも感じていました」
指揮官の求めるセンターバック像とも合致したのだろう。この全南ドラゴンズとの練習試合以降、横山はスタメンの座に定着していく。もともとセンターバックは、大学時代につとめていたポジションだ。実戦経験を積むにつれ安定感を見せると、本人も自信を深めていき、ついにはスタメンとしてポジションを確保した。
等々力競技場で迎えた2011年シーズンの開幕戦。相手はモンテディオ山形。開幕前に大宮アルディージャと行った練習試合でも手ごたえを得ていたこともあり、自分なりにもいい準備で臨めた一戦だった。相手がさほど攻撃に圧力をかけてこなかったこともあり、試合は2-0での完封勝利。横山はセンターバックとしてスタメンでフル出場を果たしている。相馬フロンターレとしても上々の船出を飾った。
第2節は横浜F・マリノス戦。
早稲田大学でともにプレーしていたFW渡邊千真が先発濃厚ということもあり、マッチアップを楽しみにしていた一戦でもあった。ところが、その試合前々日の練習中、突如として日本列島が一変する出来事が起こる──東日本大震災である。
この日、チームの練習開始時刻は14:30。
試合前々日に実施する紅白戦に向けたウォーミングアップをしているとき、この未曾有の大震災の余波に麻生グラウンドも襲われている。グラウンドでも体感できるほどの強い揺れだったが、すぐにおさまったこともあり、チームは練習を続行した。週末の試合が延期になるとはグラウンドにいた選手たちも誰一人想像していなかっただろうが、事態は時間を追うごとに深刻さを増していき、練習が終わるころには、週末のJリーグ開催延期の決定が下されいた。
「マリノス戦が延期になったことは練習後のロッカールームでみんなに伝えられました。ただその翌週に予定していたナビスコカップの開催はまだわからないので、準備だけはしておこうと言われました。でもあそこまでの状況になるとは…あれは映画というか、現実では起こりえないような光景でした」
国難ともいえる非常事態に、Jリーグ再開の目処は全く立たない状況だった。興行としてサッカーをする時期ではなく、サッカー選手として何が出来るのか。そういうベクトルにサッカー界は動き出していた。
今年、横山はチームの選手会長という立場になっていた。もちろんこのような事態になるとはまったく想定せずに受けた話だ。その就任の経緯をやや苦笑いながら明かす。
「ウチは基本的に、引継ぎ制なんですよ。しかも『こうだから、お前に任せた』じゃなくて、『できそうだからやってよ』という感じで決まる(苦笑)。今年は、イガさんがキャプテンをすることになって、選手会長との掛け持ちは大変だから、イガさんから『ヨコ、やってよ』と言われました。最初は嫌だったんですよ。選手会長をやると人前で話すことがあるじゃないですか。昔から大勢の人前で話すのが苦手で・・・『保留で!』と言っていたんですが、他にやる人がいなかったので、結局、自分がやることになったんです。だから、選手会長として何をすればいいのか、正直最初は何もわからなかったですね。メディアでは『スポーツ選手にできることがある』という言葉が出ていたけど、自分のような選手がやっても、何にもならないだろうとも思っていました。でも子供にとっては、それでもうれしいのかもしれない・・・日本がこういう状況だったし、何か出来ることはないのかなと思って少しでもやってみることにしました」
右も左もわからぬような状態だったが、まずはクラブの立ち上げた「Mind-1ニッポン プロジェクト」に積極的に取り組んだ。川崎周辺駅での募金活動、横浜FCとのチャリティーマッチ、等々力アリーナでの炊き出し。それ以外にも事務所から打診を受ければ、チームメイトと相談しながら参加した。そして横山自身、選手会長として行動を起こす側になって感じたことがあるという。
「外国人はとにかく実行に移すのが早いんですよね。メジャーリーガーであったり、レディー・ガガもそうだし、被災地に対してとにかく行動が早かった。自分も含めてですが、日本のスポーツ選手は、自国のことなのにちょっと対応が遅いんじゃないかというのは感じていました。ただ、自分なんかは今までそういうことすら意識していなかった。イガさんと事務所の話し合いで決まったことをただ聞くだけの側でしたから。選手会長をやるようになって、自分と深く向き合いながら、そういうことを考えるようになりました」
秋には、ある被災地に選手みんなで訪れる計画もあるという。スケジュールとの兼ね合いで、実現は難航しているそうだが、各方面と交渉中だという。いずれにせよ、大事なのはこの活動を一過性で終わらせないことだろう。被災地の復興の目処が経つまで行う支援計画として継続していくことの重要性を横山は口にしている。
話題をピッチに戻そう。
震災から一ヶ月が過ぎる頃には、Jリーグの再開が発表されていた。再開初戦の相手は、壊滅的な被害を受けたベガルタ仙台。世間の注目を大きく集める試合になることは、容易に想像できた一戦だった。もしかしたら、世間は復興の星となるベガルタ仙台の味方をする試合になるかもしれない。でもピッチでは、そういういったものを正々堂々と跳ね返すだけの力が自分たちにはあると信じていた。この中断期間、それだけのトレーニングをみっちりと積んできたからだ。横山もスタメンのセンターバックとしてしっかりと居場所を確保していた。
「向こうが気持ち入ってくるのはわかっていました。でもウチは優勝を掲げているチーム。そこで負けたらダメだと、試合前日に選手みんなで話し合って、気合を入れ直して臨みました」
迎えた4月23日。朝から強い雨が降り注いでいた。
ピッチには、いつもとは少し違う緊張感が漂っており、それはキックオフの笛が鳴っても変わらなかった。ベガルタ仙台の選手たちが特別な思いを背負って戦いに臨んでいることは、対峙する横山にもすぐに伝わってきた。1ヵ月半ぶりの公式戦ということもあり、試合自体はお互いにやや慎重なゲーム運びが続いた。そんな中、均衡をやぶったのはホームの川崎フロンターレ。38分、山瀬が縦に抜け出すと、その折り返しを田中裕介がうまく流し込んで先制に成功。1-0とリードしてハーフタイムへ。決定的なピンチも少なく、守備陣としても悪くない前半だった。
激しい雨は、後半になっても止まなかった。
1-0のスコアのまま時間が進むにつれて、仙台はロングボールを多用し始めてくる。71分、中盤でヘディングの応酬が続き、そのボールが自陣まで押し返されてきたときのことだ。味方がクリアしようとしたボールが飛び込んできた相手にブロックされ、それをキープした仙台のFW赤嶺真吾が素早く反転し、ゴール前に走りんできた太田吉彰に絶妙なパスを送った。仙台の決定機になった。
シュート体勢に入っている太田には、小宮山尊信が防ぎに向かっていた。その姿は視界に入っていたが、「カバーが間に合うかもしれない」と思った横山は、小宮山の背後から回り込み、身を投げ出してスライディングでブロックを敢行した。ところが、倒れこみながら打った太田のシュートの威力は、予想していたよりも弱いものだった。
「しっかりと弾きたかったけど・・自分の足に当てたので、後ろにいたリキ(杉山)が取れるかなと思った」
Gk杉山は、このときすでにセービング体勢に入っていた。だが横山の出した左足にシュートが当たったことで軌道が変わり、そのボールは精一杯伸ばした杉山の右手の上を越え、無情にもゴールネットが波打った。
「うわっ・・・」
事実を確認した瞬間、横山はそう言葉をもらして、その場に倒れこんで頭を抱えた。そのすぐ横では、ゴールを決めた太田がその場に倒れこみながら、ガッツポーズを繰り出している。実はシュートを打つとき、すでに太田は足をつっており、それが原因でシュートの威力が弱まっていたのだ。皮肉ともいえる一撃で、フロンターレは今季初失点を喫した。
だが横山を襲う悪夢はこれで終わらないのである。
残り20分、攻勢だったのはフロンターレだったが、前がかりになったところを突かれ、仙台にカウンターを浴びた。横山はボールを持った中島裕希との1対1となったが、うまく間合いを詰めてシュートをブロックし、そのウンターをしのぐことに成功した。
そのルーズボールの奪い合いのときだった。
すぐに味方の攻撃へとつなげたかった横山は、タッチライン際にこぼれたリバウンドを必死で追いかけた。「1失点目に自分が絡んでしまったので、取り返したいという気持ちも働いていたかもしれない」とこのときの心境を吐露する。中島とのヘディングの競り合いでファウルを取られてしまい、コーナーキック付近という絶好の位置でのフリーキックを献上してしまうのである。
キッカーをつとめるのは正確なクロスに定評のあるリャン・ヨンギだった。横山がマークについている相手は、鎌田次郎。実は前半、横山は鎌田にマークをはずされてフリーでヘディングを打たれている。
「いつもだったら、マークする相手を密着するんですよ。自分はステップワークがよくないので、離れて守らずに密着して動かさないようにする。だけど前半は、自分がマークしようとすると、それを相手が少しブロックしてきていたんですよ。それでマークの受け渡しが曖昧になって前半はやられてしまった。このときもブロックしてくると思ったので、あえて少し離れて守ろうと思った。そうしたら、今度は向こうがブロックしてこなくて・・・それで対応にいくのが一瞬だけ遅れてしまった」
87分、サイドからクロスをヘディングでゴールネットを揺らされた。決めたのは鎌田次郎だった。
「最悪…」
横山は心の中でそう、つぶやいていた。
試合はそのまま終了した。仙台の執念ともいえる逆転勝ち。世間は「被災地に捧げる勝利」と称えた。しかしフロンターレとしては痛恨の敗戦である。それも、めったにないホーム等々力競技場で刻まれた逆転負けだった。
試合後のミックスゾーン。
悔しさをにじませながらも、フロンターレの選手たちが報道陣の問いかけに答えていた。そんな中、大きな身体を丸めて「(話すのは)キツイです」と一言だけ残して、その場を通り抜けていた選手がいる。横山だった。いつも真摯に受け答えをする彼には珍しい光景だったが、その心中を察すると、こちらも深追いする気にはならなかった。ただ横山自身はこの振る舞いを今でも後悔しているという。それを気づかせてくれたのは、ある雑誌の記事だった。
「ゴルフの石川遼選手のお父さんが書いていた記事に、こう書いてあったんですよ。『スポーツ選手には勝者の姿勢もあれば、敗者の姿勢もある。だから息子には、負けたときにもインタビューにはしっかり答えなさいと言っている』。それを読んで、そうだよなと。自分はまだまだスポーツ選手としてなっていないな。あのときもメディアの人にしっかり対応するべきだったと反省しましたね」
とはいえ、この出来事を自分なりに消化できたのは、少し時間がたってからである。試合後は、自宅に帰ってからもずっと自分に対しての憤りがおさまらなかった。特に2失点目の場面が、脳裏に焼きついて頭から離れず、なかなか眠れなかった。
それでも試合はやってくる。
第8節アウェイでの名古屋戦が控えていた。試合に向けて行った紅白戦では、最初は横山が先発組のビブスを着ていた。だが集中できず練習でミスを連発していると、途中からは菊地光将がそのビブスを着るように命じられた。そして名古屋戦、センターバックに先発として起用されたのは菊地のほうだった。この試合を境に菊地が先発として定着し、ベンチを温める日々に逆戻りし出す。「また去年と一緒か・・・」と思うと、自然に悔しさがこみ上げてきた。
だが時間がたつにつれて横山の中で何かが変わり始める。
「これじゃいけない、なんとかしないといけない、と思うようになってきた。仙台戦は悔やんでも悔やみ切れない結果で、本当に落ち込んだ。でもあの失点の場面、もしかしたら一瞬の気を緩みがあったのかもしれない。そういう部分を克服するにはどうすればいいのか。それを強く考えるようになった」
出した答えはシンプルなものだった。
「練習でも一瞬のプレー、ワンプレーを大事にしなきゃいけないと気づいた。ああいう失点はサッカーをやっていたら起こりえること。あの試合もそうだけど、ミスを起こった後にしっかりと気持ちを切り替えないといけなかった。そうじゃないと引きずるし、チームにもっと迷惑をかけてしまう。普段の練習でも、ミスをしたらすぐに切り替えて次に集中する。練習からワンプレーに集中するようになりましたね」
一瞬のワンプレーを大事する──仙台戦からの2ヶ月間。出番が巡ってきても途中出場という状況には変化はなかったが、横山は与えられたワンプレーに集中し、自分の仕事を全うし続けた。
6月22日・第17節清水エスパルス戦。
後半、井川祐輔が退場になるアクシデントに見舞われ、横山は57分からセンターバックとして出場。相手の猛攻を丁寧に耐え続けていると、終盤には小林悠が劇的な勝利を呼ぶ決勝点を叩き込んだ。10人での戦い、それも鬼門・日本平での初白星を挙げたことで選手はサポーターとともに歓喜を爆発させた。だが横山にとって重要なのは、むしろ次の試合だった。井川の出場停止によって、ようやく巡ってくるであろうスタメン出場のチャンス。試合後のミックスゾーンでも、次節・鹿島戦を見据えて「次が大事なんですよ」と冷静に繰り返していた。
第18節カシマスタジアムで行われたナイターゲーム。
横山はスタメンに名を連ねていた。出場停止によってもたらされた機会とはいえ、あの仙台戦以来となる待望の先発出場だった。彼にとってはあの日のリベンジだったのかもしれない。それほどまでに、この一戦に賭けていた。かといって、力み過ぎることなく、ほどよい緊張感に包まれながら、心身ともに充実した状態でゲームには臨めていた感覚を口にする。
「雨が降ってて暑くなかったし、身体も動けていた。気持ちも入っていて、アップのときからすごく集中できていましたね。今日はいけると強く感じていました」
立ち上がりから、鹿島は田代有三と興梠慎三のツートップにロングボールを集めてきたが、横山はその攻撃を丹念に潰し、跳ね返していた。ところが試合開始9分、ロングボールを相手選手とヘディングで競り合ったときにバランスを崩し、片足での着地をした瞬間、左足に激痛が走った。それは今まで経験したことのない痛みだった。
「最初は競り合ったとき相手に蹴られたのかなと思っていました。左足がピキッとなって・・・打撲ならできるかなと思ってしばらくプレーを続けていました。でも、さすがに立ってられなくなった」
その場に座り込むと、ベンチにはバツ印が送られ、そのままタンカで運ばれた。あれほどまでに賭けていた一戦だったが、横山はわずか22分でピッチから立ち去ることになったのである。
「悔しかったですね。タンカで運ばれているときにサポーターが声援を送ってくれたのですが、本当ならばプレーであの声援を受けたかった。選手として90分間立っていたかったし、最後までピッチに立ってみんなと喜びたかった」
試合は、ロッカールームに備え付けられていたテレビでじっと観戦していた。
「アイシングはしてましたが、じっとしていても左足は痛かった。自分ではものすごい痛みだなと思っていたけど、ドクターからは『典型的な肉離れ』と言われました。今まで肉離れをしたことがなかったし、自分には関係ない怪我だと思ってましたから」
試合終盤、自分の代わりに入った薗田淳がロッカールームに戻ってきた。2度の警告で退場となったのである。悔しさをかみ締める薗田とお互いに無言で試合を見続けていた。
試合は10人になりながらも、土壇場で同点に追いついて幕を閉じた。またも小林悠の一撃でチームは救われたのだ。ただ引き分けに終わったことでホッとした反面、横山自身の心境は少し複雑だった。前半にセンターバックで交代枠を使わせてしまったこと、そして十分なアップもできないまま薗田淳がピッチに出なければならなかったことを思うと、チームに対してひどく申し訳ない気持ちになったからだ。なにより、あれほど熱望していたチャンスが巡ってきたのに、自分はそれを掴み切ることができなかった。
鹿島戦の翌週、負傷した左ふくらはぎ肉離れの診断が発表された。全治4週間──復帰までに一ヶ月はかかるということだ。この取材を行った7月の間、彼はグラウンドに立てず、ただただ室内での治療に専念する日々を過ごしている。だがその視線は、「8月の復活」に向けられている。
インタビューの最後に、彼は力強くこう言葉を並べた。
「レギュラーを取りたい。この期間で一度リセットして、もう一回スタートから使ってもらえる選手になりたい。だって、こんな惨めなままじゃ終われないですから」
7月20日、麻生グラウンドにはジョギングを始めた横山の姿があった。
復帰まであと少し。もちろん、この日々の続きがどうなるのかは、まだ誰にもわからない。
でも、ひとつだけ確かなことがある。
横山知伸が、このままでは決して終わらないということだ。
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[よこやま・とものぶ]
ボールホルダーへの激しいコンタクト、マイボールにしたときのソフトなボールタッチが特徴的な大型MF。中盤の底やセンターバックに入り、体を張ってチームディフェンスの核となる。1985年3月18日/東京都練馬区生まれ。
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