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ピックアッププレイヤー

2011/vol.14

ピックアッププレイヤー:DF15/實藤友紀選手

秋の訪れと共に、じょじょに存在感を増してきた大卒ルーキー實藤友紀。本職のセンターバックに加え、右サイドバック、はたまた左サイドバックとさまざまなポジションを経験しながら、ピッチ上で身体能力という自分の武器を表現し始めた。大学までを過ごした四国時代は、無印の存在。ディフェンスのポジションを初めてまだ3年あまりという異色の経歴の持ち主は、着実な成長を日々、遂げている。

01  プロ入り後、實藤友紀というディフェンダーの本領が発揮されたのは、この試合だろう。2011年9月28日のナビスコカップ準々決勝第2戦・横浜FM戦(等々力)。

 この試合の最終ラインには、新旧の韋駄天DFが並んだ。本職のセンターバックでは3度目の先発となった實藤と、伊藤宏樹。このシーズン、初めての組み合わせだった。

2点は失ったが、被シュートは5本。少ないチャンスを決められる甘さはあったが、高いラインを維持し、広い裏のスペースを2人のセンターバックが快足をとばしてカバー。横浜FMのロングボール攻撃もことごとく跳ね返して見せた。

 夏場の8連敗以降、フロンターレとしては久々にコンパクトでアグレッシブなサッカーを展開できたゲーム。結果は3−2で逆転勝利だった。

「宏樹さんとは、試合前からラインを高い位置でキープをしようと話し合っていました。うまくいったし、自信にもなったけど、それだけに失点がもったいなかった」試合後は喜びと悔恨がない交ぜの表情を浮かべた。第1戦を0-4で落としていただけに、勝ちはしたが、トーナメントは敗退。それでも、ホーム等々力では約2カ月ぶりの勝利。プロ入り後、6度目の公式戦先発で、初めて白星を勝ち取ったゲームだった。

 この日、等々力のスタンドではS級コーチラインセンス講座の受講者が目を皿のようにしてゲームを見守っていた。双方のチームの守備、攻撃の特徴、問題点を分析して発表する授業の一環。大学サッカーの監督、元日本代表戦士ら、すでに実績も経験もあるサッカー人たちは、實藤のプレーに目を奪われていたという。

「あの15番はいいね」。スピーディーなカバーリング、正確なロングフィード、時にボールを持って駆け上がり、攻撃も組み立てる。この時点でまだリーグ戦9戦に出場しただけの大卒新人の動きは、絶賛された。ただ、ディフェンダーになって、まだ3年あまりのキャリアしかないことを知れば、驚きはさらに増したことだろう。

「本当に高校までは無名で、全国とかも経験したことがなかった。大学に行って、すべてが変わった。全国大会も経験できて、自分の力がどの程度なのか確認もできた。身長も伸びたし、足も大学に行ってから速くなった」。 高校までは、それこそ"知る人ぞ知る"存在。それだからか、身の上話を聞いても、大学以前についての語り口はごく淡々としたものだった。

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 母方の実家がある埼玉県・春日部市内の病院で産声を上げ、育ちは徳島県・徳島市。父・宏さんは、186センチの大男で高校時代はバスケットボールのセンターとして、県内で名をはせた名プレーヤーだったという。その頑健で、しなやかな肉体を受け継ぎいだのだろう。健やかに育った。

「粉ミルクを飲みまくって、パンパンに太った1歳くらいの時の写真があるんです。口元からはミルクをベローと垂らしてましてね」。

 2つ上の兄・誠大さんの影響で、3歳からサッカーボールを追いかけ、最初はYMCAのサッカー教室。

「どこかのファンとかはなかったし、誰に憧れるということもなかったですけど、将来の夢はJリーガー」。

 小5冬から徳島FCリベリモという選抜チームに加入。当時のポジションはトップ下かボランチ。そのまま大学まで、中盤のプレーヤーだった。

 中学でプレーしたのは中体連の富田中サッカー部。クラブチーム全盛の時代。「クラブでやってる奴も周りにはいたけど、そこまで魅力は感じなかった。送り迎えも必要になってくるし」。

 監督は大学時代に体育会ラグビー部出身。拡声器をもって野太い声で指示を出し、フィジカルは徹底的に鍛えられたという。チームは市大会優勝や県8強入りという成績。トレセンは県選抜止まりだった。中には監督から「高校に入ったら、ラグビー部に入れよ」と"勧誘"される選手もいたが、「自分は、お呼びが掛かりませんでした(笑)」。

 進学先は市内の進学校・県立城南高校。高2の冬に県新人戦で優勝したが、ついに全国にはたどり着けなかった。ただ、高3の夏に布監督率いるU-17日本代表候補に選出。新潟国際に出場した。

「なんでだ? ビックリしました。ボランチでプレーしたかな。自信にはなりました。でも呼ばれたのはその1回だけ。注目? 全然されてなかったんじゃないですか」。

 そう振り返るが、実は当時のフロンターレのスカウト網にはキャッチされていた。向島スカウトによると、「徳島に凄い奴がいるという情報は入ってきていました。夏にU-17代表にも選ばれたので、新潟にスカウトを派遣していました。ただ、身体能力はあるが、すぐに獲得する選手ではない、と報告が上がってきました。その後、どこに進学したのかも分からなかった」。

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 結局、東京、関西の大学からも誘いはなく、進学は国立の高知大。

「最初から、国立しか目指してなかったので、それは別によかった」。

 選手寮もない環境で、高知市内にアパート借りての独り暮らし。月々の生活費は両親の負担も考えて奨学金でまかなった。練習場は、野球部と共用の土のグラウンド。普段は半面のみの使用で練習時間は約1時間30分。週に2日程度、全面を使用しての紅白戦などを行えたが、ペナルティーエリア付近には、ピッチャーマウンドがある。

「みんなそこを避けて攻撃していました。そこでこけてじん帯のばした奴もいましたし、ほんま危なかった」。

 だが、サッカー部に入部してレベルの高さには驚いた。中学、高校では、ほとんど自分のワンマンチームで、攻撃を一人で動かしてきたが、大学では通用しない。1年時はほとんど試合に出られなかった。冬に一度、インカレの早稲田大戦でFWとして先発したことがあったが、それも相手の裏をかくサプライズ起用。高知大・野地照樹監督は、当時を懐かしそうに振り返った。

「入学前、徳島ヴォルティスの関係者から、U-17代表に選ばれた選手がいるけど、今のレベルでは獲得できない。4年間大学でやらせて、成長を見たいと言われて、それで實藤のことを知った。うちもそこまで実績のある選手は入ってこないのだけど、実際見てみたらこれでU-17代表に入ったの?ってね(笑)。身体能力は高かったけど、1年の時は目立った存在ではなかった。新チームになるときに、4年生のストッパーが2枚抜けてしまって、それで、FWよりストッパーの方がええぞ。転向せんか?と聞いたら、『ああ、やります』ってね。普通は嫌がるものだが」。

 そこから、サッカー人生が大きく揺れ動いた。ちょうど、肉体の成長曲線ともリンクした。中学時代に8秒フラットだった50メートル走は、高3時で6秒5、大学で6秒1まで縮まった。空中戦をやっても、ほぼ、競り負けない。身長は大学に入って3センチ伸びていた。

「最初はぎこちなさがあったが、2、3年になったら全国でやっても遜色がない。ヘディングは強いし、滞空時間が長くて、しかもバランスが崩れない。一度抜かれてもまた追いつく二枚腰もあった。これはちょっと違うなと思ったよ」(野地監督)。センターバックで試合に出始めて、1年たった3年夏の総理大臣杯。そこでフロンターレとの再びの邂逅があった。

 今でも、その大会の一つのプレーが道を開いたと思っている。「準決勝の静岡産業大戦で延長に入ったんですよ。そこで、裏に抜けそうなボールをオーバーヘッドでクリアしたんです。そしたら試合後、川崎のスカウトが声をかけてくれて。『あの時間帯であのプレーは凄い』とほめてくれた。高知大のオレにあの川崎が声を掛けてくれた。夢見心地でした」

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 ただ、実は向島スカウトが熱い視線を送るようになったのは、その少し前。ちょうど、2回戦が始まる直前だった。「メンバー表を見ていたら、DF登録で高知大に實藤の名前があって、あの實藤かと。あの身体でDFをやったら面白いと思って、実際、見ていたら、やれる、と思った。ああいう速さがあるディフェンダーはほしいと思っていた。

 試合後、すぐに下に降りていって野地先生に話したら、『よくわかったね』とニヤリ笑われました。オーバーヘッド? ああ、あれは凄かったけど、それだけで決めた訳じゃないですよ(笑)」。準優勝を遂げた大会後から、フロンターレは川口スカウト(当時)を四国に派遣して密着マーク。四国大学リーグのゲームをチェックした。決定打は、同年10月の天皇杯2回戦・磐田戦(0-2)だった。

「プロ相手でもしっかり抑えられていいて、これなら、間違いないと思った。翌年3月のデンソー杯(中四国大学代表として)に出たら、必ず、注目されてしまう。それで、1月の宮崎キャンプにも招待したり、色々、急いだ部分もある。」(向島スカウト)。日々、ディフェンダーとしての能力を成長させていた時期。フロンターレから注目され、天皇杯ではプロとも互角の戦いを演じ、宮崎キャンプではフロンターレイレブンにもまれた。一つ、一つの出来事で自信を蓄えていった。

 野地監督によると、「あいつは、いいかげんなところもあるし、決して繊細な方ではない。磐田との天皇杯でも堂々とプレーして、『ジュビロとやっても平気ですね』とか言っていた。宮崎キャンプから帰ってきたら、『Jと対等にできましたよ』とか。デンソー杯のあとは全日本大学選抜にも選ばれて、横浜FMが『ぜひ、練習に来てほしい』と熱心に話しにこられたんですけどね。私もバカ正直にフロンターレにその旨を伝えたら、『勘弁してくださいよ』ってね(笑い)」。

 結局、その年4月、大卒新人としては異例の早さでフロンターレ加入が内定した。さらに10月にはロンドン五輪を目指す関塚ジャパンに選出され、中国・広州アジア大会に出場した。それも関塚監督の古巣・フロンターレ強化部の推薦によるものだったという。初めてのポジションの右サイドバックで定位置を獲得。Jのレギュラークラスはリーグ戦優先で招集できないなか、FW永井(当時福岡大)やMF山村(流通経大)らとともに、"雑草軍団"と言われたチームは、奇跡の大会初優勝を遂げた。決勝のUAE戦の後半29分、左クロスから決勝点をたたき出したのは、實藤だった。

 センターバックへの転向を受け入れたときの心境をこう振り返る。
「とにかく、試合に出たかった。スキを見つけた、いいとこを見つけたと思いました。試合に出られるなら、ポジションはどこでもよかった。本当に自分にとってよかったと思う。そこからすごいところまで、グイーンと行きましたね」。

 わずか2年の間に描いたシンデレラストーリー。望外のプロ入りだったかと言えば、そうではない。無名だった小、中、高時代から、試合にも出られなかった大学1年時まで、自分がJリーガーになることを疑ったことはなかったという。

「プロ入りの目標が薄れたことはなかったし、焦ったこともなかった。遠い目標があって、じょじょに目の前の課題をクリアしていけば近づいていく。大学ではまず試合を出ること。その後も少しずつクリアしてきたし、そこを見失うことはなかった。アジア大会後は『もってるんちゃうか』と言われたこともあったけど、浮かれることはなかった。プロ入りという目標は達成したから、それは一度リセット。一からやり直す気持ちだった」

 今年、フロンターレ入り後も、順風満帆の道のりではない。2月に関塚ジャパンの中東遠征に招集されていたが、直前のJリーグ新人研修でウイルス性腸炎となり不参加。約1週間の遠征中、途中からでいいからと、合流を求める電話がバーレーンの関塚監督から何度もフロンターレにかかってきたこと。強化部、相馬監督、最後は本人への直談判。体調が戻らないことから最終的には途中合流を断念したが、實藤への信頼度が伺えるできごとだった。だが、復帰後も腸けいじん帯を痛めてまた離脱。3月下旬に全体練習に合流したころには、紅白戦メンバーにも入れず、ピッチの横でボールを蹴っていた。1試合の出場もないまま、6月の五輪アジア2次予選・クウェート戦メンバーには漏れた。

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 リーグ戦初出場はその直後の6月25日の鹿島戦。DF横山が前半に負傷退場し、変わって入ったDF薗田は2枚目の警告で後半18分に退場。そこで、登場だった。

「緊張とかはなかった。あのまま負けたら薗田も落ち込むだろうと。自分のことよりそっちの方が大きかった」。

06 この試合、1人少なくなってからのフロンターレが、2点のビハインドを追いつくという劇的な試合。2バックに近い布陣のセンターバックに入り、ロングボールをFW興絽と競り合い、こぼれ球をまた自分で拾うなど、獅子奮迅の働き。チームに貢献できた試合だった。その後は出場機会が増えていくが、けが人、出場停止選手のバックアッパーとして右サイドバックの2番手、センターバックの4番手という立ち位置。左サイドバックでの出場もあった。8月20日・G大阪戦では不運な判定でPKを取られた上、自身は2枚目の警告で退場。出場停止明けは、またケガだった。

 簡単にいくはずもない1年目。その時々のコメントを拾っていくと、目の前のことに実に必死だ。

 リーグ再開初戦・仙台戦前は「とにかく、なんとかベンチに入りたい」。初ベンチ入りを果たした4月29日・名古屋戦前は、「自分が入ったことでチームが勝てるかどうか。自分の"もってる度"が試されている気がする」。関塚ジャパンのメンバー発表前夜も「何とか、入られへんかな。なんとか、入りたいんですよね」。

 そしてFW小林のロスタイムゴールで劇的な結末を迎えたデビュー戦後も、「本当は自分が一発決めたかったですね。それでアピールしたかった」。切実な願いを隠そうとしない。それでいて、それが叶わなくても次の瞬間には「まあ、しゃあないすね〜」切り替えている。言葉と裏腹な余裕を感じさせるのだ。

 プロ入りを果たした今、遠い目標は?

「それはA代表入りです。そのためにまず、1年目の目標はフロンターレでレギュラーになること。だから、今はどこのポジションでも出られるだけ出たい。一つずつ課題を潰していきます」

 実際にプレーしてプロのレベル、あるいは代表のレベルを肌で感じ、目標と自分の立ち位置の距離を測る。一歩ずつ前に進む。その作業は、また新たに始まったばかりだ。願いはどん欲でも、失敗することでまた距離を測り直す。だから、欲も思いも迷わず口にする。父から受け継いだ自慢の肉体には、絶対の自信を持っている。あとは、経験、たゆまぬ努力。日が浅いポジションでの1対1の守備、寄せのスピード、ワンツーの守り方・・・。自分のストロングポイントと弱点を把握して修正する日々は続いていく。

 冒頭の横浜FMとの試合後、チームスタッフからこんな声をかけられたという。

「動きとか見ていて、宏樹かと思ったら、サネだった。似ているよ」──。大卒で、入団当初は無名で、それでいて驚異的な身体能力を備えている(一応、出身も同じ四国)。フロンターレの最終ラインを支えてきた大黒柱とダブって見える関係者は多い。当の伊藤は、實藤にはついてこう評している。

「ガサツ。サッカーも私生活もね(笑)。身体があるからガサツなところも能力で補っている。前目の選手には多いタイプだけど、ディフェンスでは珍しいよね」。
 若い頃の自分を思い出す? こんな質問を投げかけると、
「周りの人にはそう言われるけど、自分では分からへん。でも、もっと頭使ってプレーすれば、いい選手になる。のびしろはたくさんある」少し照れたような、苦笑いを浮かべていた。

 現時点で後継者というのは、早々だろう。ただ、實藤も思いも込めて言った。
「宏樹さんの動きとかは盗みたいと思っているんです」。傍らにある背番号2の大きな背中。そこに的に定め、長き道のりを滑り出したばかりだ。

profile
[さねとう・ゆうき]

高知大学から新加入。2010年JFA・Jリーグ特別指定選手としてフロンターレに所属。ディフェンシブなポジションならばどこでもこなせる身体能力の高さとサッカーセンスが光る。U-23日本代表の一員として2年後のロンドン五輪も視野に入れる。1989年1月19日/徳島県徳島市生まれ。 >詳細プロフィール

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