2011/vol.15
ピックアッププレイヤー:DF15/實藤友紀選手
フロンターレへの加入初年度にケガに見舞われた杉山力裕は、
正GK争いの最中にいた昨季と、開幕スタメンを勝ち取った今季と2度のケガに見舞われる。
長いリハビリを必要とする、険しい道のりを乗りきれたのは
諦めない気持ちと、感謝できる心があったからだった。
連敗の最中の声援
サポーターからの厳しい声は覚悟していたという。リーグ戦7連敗の流れを止めることを期待され、4月29日の名古屋戦以来の起用となった9月11日の神戸戦で3失点。その3日後のナビスコカップ2回戦第1戦で大量4失点を喫して大敗する。もちろん7失点のすべてが杉山力裕の理由という訳ではなかったが、その責任はひしひしと感じていたという。
「その前から連敗が続いていて、マリノスとのナビスコも開始早々に決められて、内容的にも全然で。そもそも神奈川ダービーというのもあって、すごくお客さんが来てくれていたのに、こんな情けない試合をしてしまって。ただ、それでも試合後にも優しい声と言うか、ブーイングではなくて、声援を送ってくれて…」
大敗し、打ちひしがれていた杉山に、選手たちと同じくらい悔しいはずのサポーターからの声援が聞こえてきていた。「ガンバレ!」、「下を向くな!」だったり、「俺たちがずっとついてるから!」だったり。そんな言葉の数々を聞いて杉山は泣いてしまう。試合後の杉山は、こんな事を言ってサポーターの声援を率直に感謝していた。
「サポーターのみなさんはあれだけ負けが込んでいる中でも声援を送ってくれて、なおかつ負けてるのにコールしてくれた。その優しさがありがたかった。そういう部分を力に変えなきゃいけない。選手は応えないとだめだと思います」
杉山がレギュラーとなってからの2試合は連続大量失点で完敗。リーグ戦と公式戦(ナビスコカップの広島戦の勝利があるため)の連敗は共に8にまで伸びていた。厳しいチーム状態だった事もあり、杉山は遠路はるばる山形まで来るサポーターは少ないのだろうと考えていたという。そんな杉山はピッチ内練習を開始させたその時の光景に驚いたと話す。
「山形って遠いじゃないですか。正直、負け続けていたし、山形だから全然人が居ないんだろうなと思っていたんです。ところがアップの時間になってピッチに出ていった時に、ゴール裏にたくさんのサポーターが来てくれていて『こんなに来てくれてるんだ』と思って」
2試合連続で不甲斐ない試合を見せていたにもかかわらず、山形のスタンドを埋めたサポーターの数は2000人弱。フロンターレの勝利を信じ、いや、こんなに大変な時だからこそ、選手たちを応援したいと山形に駆けつけたサポーターの思いが杉山を突き動かした。
「そこでうるっと来て…。まだ試合も始まっていないのに。それで、そのスタンドを見た時に絶対に勝って、グローブをプレゼントしようと思ったんです」
山形のホームゲームでの粘り強さには定評がある。しかしフロンターレは小林悠の決めた53分のゴールを文字通り守り切り2ヶ月ぶりの勝利を手にする。勝利の笛のその瞬間の事を杉山は「本当にほっとしました」と振り返る。実は杉山は、同じ87年生まれの小林からこの山形戦のロッカールームで「お前は止めてくれ、おれが絶対に決めるから」との話をされていたのである。男の約束を守った小林に対し、杉山は責任を感じていたのだろう。「やっとだよ、という感じで。ホントに。こんな経験するのはなかなかないことだったので」と、大の字になってそのままピッチに倒れ込んでしまう。
そうやって勝利の味をかみしめている杉山に真っ先に駆け寄った中村憲剛は、その時の事をこう回想する。
「中断が開けて神戸とマリノスに大量に取られて。責任感が強い人だから、思うところもあったと思う。そんな中、アウェイで勝ててね。よくやってくれたという思いで駆け寄りました。一番プレッシャーがかかっていたと思う。重圧から解放されたんだろうと思って」
意気込みだけではダメ。そこに結果が伴わなければ意味が無い。そんな当たり前の事を無失点という形の結果として出した杉山は、勝利への意欲をかき立たせてくれたサポーターに、感謝の気持ちを込めてグローブを投げ込んだ。ヒーローインタビュー後の小林を始めとし、何人かの選手は号泣していた。サポーターも、号泣だった。尋常ならざるテンションの山形戦はサッカーの神様が、信じることの大事さを教えてくれた舞台だったのかもしれない。
境トレーナーから貰った言葉
杉山のフロンターレでの5年間は、ケガとの戦いの日々でもあった。新加入のその年に手首を2度に渡って負傷。川島永嗣が移籍し、正GKとしての試合出場が期待されていた2010年シーズンの後半戦にも、ふくらはぎの肉離れによって長期に渡る離脱を余儀なくされていた。
川島のリールセへの移籍が発表されたのが2010年の7月7日。ワールドカップによる中断前の公式戦で、サブとしてベンチに入り続けていた杉山のリーグ戦再開後のレギュラーポジションは確実だと考えられていた。しかし7月13日に出されたリリースにより、10日に左のふくらはぎの肉離れを受傷したことが発表される。あまりに不運なタイミングのケガに言葉がなかったが、実はこの負傷は再々発となるものだった。
「実はJリーグが中断する前から肉離れしていて、でも肉離れって長引くイメージが無くて。ふくらはぎはやっかいだとは言われていたんですが、1ヶ月くらいで復帰できるのかなと思っていたんです。6月8日からのキャンプの半ばくらいからは合流できるのかなと。ところが、なかなか治らなくて」
それは復帰に向けてトレーナーの境宏雄と練習量を上げている最中の事だったという。
「キャンプが始まる前くらいに一度ちょっと良くなって、フィジカルを境さんと上げている段階だったんです。でも、そこでまた痛くなって、再発して。でそこから1ヶ月くらいできなくなってしまったんです」
最初のケガが癒え、キャンプに向けて復帰しようとしている途上で再発。そのケガが治りかけた7月10日に再々発させてしまったのである。そもそも、ふくらはぎの肉離れは非常に難しいケガである。この2010年シーズンの初頭に、ジュニーニョが痛め長期離脱を余儀なくされたのがふくらはぎだった。今季は小宮山尊信と横山知伸の両選手がこの部位の肉離れを経験し、同じく長期離脱に見舞われている。ふくらはぎの肉離れは長期化する事が多いのである。そしてそんなケガであるがゆえに、境トレーナーは専属のような形で杉山のリハビリを行う事となる。
「境さんがホントに、付きっきりで観てくれました。自分だけ2部練する時も、境さんは他の人が休みなのに残ってくれてたり。日毎に担当が変わったら、日々の状況がわからなくなるということもあって、基本的に境さんが一日一日の状態をチェックしてくれていたんです。でもそれくらいに境さんがついてくれたので、安心しました」
そうしたサポートを受けながらも、杉山のふくらはぎは再発を繰り返してしまう。
「再発したのは境さんのせいではないんです。自分がいけると思ってやったことなので。ただ、自分の責任なのに境さんも責任を感じてくれて。それで、『スギごめんな』と言ってくれたんです。境さんは悪くないんですが、そうやって言ってくれて、それで一緒に乗り越えられたのかなと思います」
ケガが癒えた杉山は、相澤貴志が頭部を強打し前半で退いた30節の鹿島戦で、後半からの交代出場を果たしている。突如として転がり込んできたチャンスではあったが、ここで杉山は自らミスだと話すプレーにより失点。結局勝利する事が出来なかった。一般的に見て、この試合をケガからの復帰戦と捉えるのは普通だが、その点について杉山は境からこんな話をされていた。
「境さんは『試合に出て勝つまでが復帰だから』と言ってくれて。それがすごく自分の胸にしみました。実際に復帰して勝ったのは、半年以上経った今年の開幕戦だったんですが、そこで勝って境さんと喜びあって『やっと復帰したな』と言ってもらえて。そこでオレもはじめて『ありがとうございました』と言えたんです」
周りの支えをモチベーションに
開幕スタメンを飾った杉山だったが、シーズン3試合目の名古屋戦で右の第4中手骨を骨折。またも、リハビリと向き合うことを余儀なくされるのである。
「自分も試合に出させてもらえるようになって、チームが始まってこれからという時だったので…。何回もケガしてきているし若い頃だったら焦らずゆっくり治して、という事も思えたかもしれないんですが、さすがに今の歳になって試合に使ってもらえるようになってましたし、少し落ち込んだ部分はありました」
これだけの不運が重なる事も珍しいが、そんな逆境にも杉山はめげることはなかった。手術のほうが早く復帰できると聞くと、迷わずに手術を選ぶ。
「手術したほうが早いと言われ、そこは即決で手術する事を決断しました」
今でも右手に痛々しく残る手術痕は、杉山の試合への意欲の現れでもあったのである。そしてそんな杉山を周囲が支えた。
「ケガはサッカーには起こりうること。だから、気にすることはない。時間はかかるかもしれないが、治すことを先決に考えよう。後ろ向きのことを考えても仕方ない。前を向いて考えよう」という言葉を掛けたのはGKコーチのイッカ。
「最初はなにも考えられなかったですね。でもイッカがフォローしてくれました。相馬さんにも配慮してもらって、等々力でのジュビロ戦(5月3日)後に、自分だけ3連休を頂いて。ケガもしているし、気分転換でということで。手術が8〜9日ごろだったので、それまではゆっくりしてていいよという事を言われました。それで実家に帰り、久しぶりに母の顔を見て、友達に会ったりしたんです」
奥ゆかしさからなのか、杉山の母は試合を見に来ても杉山とは会わずに帰ってしまうのだという。そして後日「行ってたよ」とメールしてくるのだそうだ。だから杉山が母親と顔を合わせたのは、1月のオフ期間以来の事。久しぶりに母の顔を見て、おふくろの味に舌鼓を打つ事でリラックスできたという。そして、この一時帰省の際に食事した友人からの温かな心遣いが杉山には嬉しかったという。
「じつは、ぼく5月1日が誕生日だったんですよ。名古屋戦の次の次の日。ケガもあって最低な誕生日だったんですが、それで実家に帰った時に、普通に『ご飯食べに行こう』とすごく仲のいい友達と2人に誘われて。そしたら誕生パーティーじゃないですが、プレゼントを用意してくれていてびっくりしました。覚えててくれたのがすごく嬉しかったですし、そうやって自分の事を考えてくれている人が居るんだなと思ったら、自分一人じゃないんだと。自分の事を応援してくれている人がいるんだと。こんなに身近に。だから、復帰したときには、前の自分を超えているくらいのパフォーマンスをしてやろうと考えて毎日の練習に取り組んだんです」
彼は親友たちの粋な計らいを正面から受け止め、復帰に向けたモチベーションに変えるのである。そしてそんな心遣いを杉山は優しさだと感じ、それに感謝するのである。そしてそんな杉山の体験談を耳にしながら、彼に優しさが集まるのではなくて、優しさを拾い上げられる心の持ち主なのだろうと感じた。
プロサッカー選手としてプロフィールが掲載されている立場である。知られていていて当然という考えがあって不思議ではない。ただ、そこでそう思うのではなく「覚えてくれていた」のだと感動し、祝ってくれたことを感謝する。そしてそれを優しさだと受け止める心がある選手なのだ。だから、大敗した横浜戦後のサポーターからの前向きな励ましの言葉に涙し、負け続けて勝利から遠ざかったチームを応援すべく、山形にまで駆けつけたサポーターの姿を見て、泣くのである。
杉山が語る彼の人生のエピソードに人の優しさがつきものなのは、それを一つ一つ丁寧に拾い上げ、記憶の引き出しにしまい込んできた、彼自身の優しさがあるからなのだろう。だから、山形戦で勝利した時、彼はピッチ上に大の字になるのである。その優しさが故に、中村が話す「重たいもの」を背負っていたのだろう。
相澤貴志の背中
そんな杉山がまた一つ重たいものを背負うこととなる。それは神戸戦を前にした紅白戦の直前の事だったという。
「8連敗した後の神戸戦の前の紅白戦の時に、いきなりザワさんに『今日はスギちゃんそっちだよ』と、スタメン組だと言われたんです。それまで全然、イッカにも相馬さんにも言われていなくて、普通にいつもの流れでサブ組の方に行こうとしてたんです。ザワさんはあらかじめ言われていたみたいなんですが、普通にオレとかだったら悔しいし、後輩にアドバイスしたり、掛ける言葉が見つからないと思うんです。でもザワさんは『全然大丈夫だよ。スギちゃんのいつもどおりの落ち着いたプレーをすれば』って声をかけてくれて。それでホントに器が大きいなと思ったんです」
そもそも8連敗中に相澤のミスによる失点や敗戦があったかというと、そうではなかった。「それまでの試合を見ても全然ザワさんのミスで負けたような試合はなかったですからね」と杉山。相澤も「あの時はチーム状態も良くなかったですし、だからこそ代えられる事が今までにないくらいに悔しかった」と話す。ただ、そこで悔しさを前面に出すことはチームのためにはならない。相澤は「誰かが自分勝手にやったら、チームはばらばらになっていたのかもしれない」とその頃の状況を説明する。だからこそ、チームの事を考えて一番良いと思われる行動をとる。それが、連敗の中に送り出された後輩へのアドバイスだったのである。そしてそんな先輩の背中を見た杉山は感動し、自分のプレーにつなげようとするのである。「それで自分も身が引き締まったと言うか、チームのGK陣を代表して出るわけだから、そこは責任を持って、やっていこうと思えた瞬間でした」と話す。
チームのGK陣を代表して試合に出る杉山のプレーについては、安藤駿介と松本拓也とが口をそろえて"身体能力の高さ"を指摘する。「バネが凄い。体の伸び方とか、(地面を)蹴る力の強さが凄いんだと思う」と松本。届かないと思うボールに対し、最後にもうひと伸びするのだという。そんな杉山の"身体能力"の分かりやすい実例が、10月22日に行われた仙台戦における前半32分の赤嶺真吾のシュートを弾きだしたプレーだと安藤は話す。
「解説者は何も言えていなかったんですが、あれはもう少し解説して欲しかったです。右足で地面を最後に蹴っているんですが、それが凄いから届くんです。最後にひと伸びしているんです。GK目線では分かるんですが、解説が難しいプレーなのかもしれません」
違う学校ながら、杉山の名前を中学時代から知っていたという1学年下の松本も「至近距離からの反応も凄いです」と杉山の特徴を説明。杉山は、チームメイトも納得の実力を持っている選手だという事がわかる。
そんな杉山へのGK交代という首脳陣の決断ではあったが、フロンターレの連敗は止まることはなく、神戸戦では失点にも絡んでしまった。ただ、それでも冒頭に記したとおり、応援してくれるサポーターが杉山の背中を押してくれた。大事な山形戦はそうした状況の中で行われていた。応援してくれるサポーターのためにも、そして今後の復興支援活動のためにも。そして陸前高田市でフロンターレを待っていてくれている子供たちのためにも負けられない山形戦を勝利し、チームは苦境を脱した。そして被災した子供たちとのサッカー教室などのふれあいの中で、元気をもらうのである。励まそうと被災地を訪れて、逆に励まされる。そうやって彼らはモチベーションを高めた。
その陸前高田市の子供たちが訪れた等々力での10月16日の新潟戦で、実は泣きそうになった場面があった。前半ロスタイムのPKの場面。ミシェウの蹴ったボールを弾きだしたプレーだ。サッカーのプレーで泣きそうになったのは、もしかしたら今回が初めてだったのかもしれない。絶対に負けられない試合で、PKを止める。GKとしての大きさを感じさせられる瞬間だった。そして、この試合は勝てると確信した。
だから、あの試合結果が残念でならない。GKの能力ではどうしようもない2点を叩きこまれ、敗れてしまった事が。ただ、そんな悔しさやどうしようもない状況の中から杉山はこれまでも這い上がってきた。だから素人目にはGKにはノーチャンスに思える1失点目を「止めていれば流れは変わってたと思うんですよね」と自らの努力の糧に変えるのである。たぶん、今のこのフロンターレの苦境と、杉山が過去に経験してきたケガとの戦いとはリンクさせることが可能なのだろう。だからこそ、チームと共に這い上がれるはずだ。
杉山が、尊敬しプロサッカー選手への道を志すきっかけとなった三浦知良選手は、3月29日に行われた復興支援チャリティマッチで見事にゴールを決めてみせた。誰もが驚嘆した偉大なゴールだった。そして諦めないということの大事さがあのゴールには集約されていた。
「諦めることって簡単じゃないですか。でも続けることの難しさ。それをカズさんは誰よりも知っているのかなと思いますし、続けてきた人にしかわからないこともあると思います。そして、そういうところを乗り越えたところに、ああいうゴールがあるのだと思う。自分もだから、ケガして辞めたいなんてことは思わないですが、とにかくプレーしてミスもあるだろうけど、諦めずに取り組みたいと思います。ミスをただ流してしまうんではなく、それを前向きに捉えて、練習を続けるという事が大事なんだと思います」
諦めない、という強さを持って杉山はこれからも戦い続ける。杉山に関わる身内や親友、コーチ陣やチームメイト。さらには、杉山の背中を押したサポーターと共に。そして、いつの日か、タイトルを手にして泣いて欲しいと思う。フロンターレのサポーターのスタイルは、欧州のサポーターやそれに感化されたJクラブのサポーターが、時に厳しく選手たちと対立する姿勢とは一線を画している。今までに無いスタイルの応援であるがゆえに、このスタイルのサポーターが応援するチームの優勝は未だない。だからこそ、諦めずに挑戦し続けて欲しいと思う。日本のサッカー文化の新しい地平を切り開くために。そして、その戦いの日々の中に、杉山が確かにその存在を刻んでいって欲しいと思う。それが出来る、選手だろうと思う。
profile
[すぎやま・りきひろ]
技術、高さ、判断力とすべての要素において質の高いプレーを見せるGK。怪我に泣かされ出場機会そのものはカップ戦数試合だが、経験さえ積めば大きく飛躍する可能性を秘めている。1987年5月1日/静岡県静岡市生まれ。186cm/77kg。 >詳細プロフィール