2012/vol.07
ピックアッププレイヤー:DF22/福森晃斗選手
いまとなってはどの試合だったのか定かではないというが、中学2年の時に見たJリーグ中継が契機となった。
「テレビでサッカーの試合を1試合見た時に、このピッチでやりたいと思い始めたんです。
そこからプロに入ることが目標になりました」
美しいピッチの上を走り回る選手たちのプレーと、その選手たちに声援を送るサポーター。
そうした光景が電波に乗って福森家へと送り届けられる。そんなどこにでもある日常の風景が、
福森晃斗の人生を変えた。
3つ上のお兄さんと共に福森がサッカーを始めたのは幼稚園の年中の頃。もともとご両親はテニスを愛好していたという。しかし息子二人がサッカーを始めたのをきっかけに、福森の父である政之さんは審判の資格を取り、彼らが通った少年団のコーチとなる。また土日が休みだった政之さんは、その休みを利用して近所の公園に二人を連れ出し、ボールを蹴っていたという。
「キックフォームには気をつけるように話していました。ひざ下の振りの速さと上半身のバランスについてです。力任せにボールを蹴っても飛ばないですからね。体のしなりが大事だと、そんな話をしていました」と政之さん。そんな政之さんは、サッカーだけを教えていたのではない。野球やテニスといった球技も経験させながら最終的に子どもたちが好む競技を選べばいいと考えていたのだという。そんな環境の中、サッカーの面白さに目覚めた福森は「徐々に自分から休みの日にボール蹴りたいな」と思うようになっていった。
福森は幼稚園の年長時から、お兄さんとともに藤沢市立高谷小学校で活動するFC高谷04という少年団に加入。サッカーを楽しむ一方、今でも覚えている練習があると話す。政之さんの帰りが早い平日の夜の自宅での練習である。
「部屋の床に布団を敷いて、音を立てないようにしてやっていました。最初は100円ショップで買ってきた、中にスポンジが入ったような軽いボールを使っていました。こちらからボールを投げてそのままインサイドやインステップで蹴り返したり、それが出来るようになったら胸やももでトラップして下に落とさないようにこちらに蹴り返す、という練習でした」(政之さん)
福森はこの練習が楽しくて仕方がなかったという。
「今考えると普通の基礎練習なんですが、楽しかったです。ミスしたり音をたてたら交代という感じで兄弟でどっちがうまく出来るのかを競うんです。アパートの下の階の人に迷惑をかけないようやっていました」
この頃の福森について政之さんは「次男なので、上のお兄ちゃんに追いつけ追い越せという感じで負けず嫌いだったと思います」と話す。3つ年上のお兄さんは格好の目標となっていたわけだ。また、練習も「厳しくと言うよりは楽しく」(政之さん)との方針で行なっていたという。サッカーに限らないが、競技を続けて行く時、上達する最も簡単な方法はその競技を好きになること。政之さんの適切な指導もあり、福森は楽しみながら繊細なボールコントロールを覚えたのである。中学校に上がるまで「そーっと」続けられたこの練習により福森の技術は形作られる事となる。
小学校を卒業した福森は藤沢市立村岡中学校に進学。
「近隣のいろんな小学校の生徒が集まる普通の中学校でした。特にサッカーが強いということもなくて、ただ単に進学しただけです」(福森)
そんな村岡中学校の1年時に1試合だけ練習試合に出た事を福森は覚えているという。なぜそんな些細に思える事を覚えていたのか問うと、福森は「同じ学年で唯一自分だけが出たので、それはすごく記憶しています」と話す。だから、同じ学年の子たちと比べ、ずば抜けて上手かったのかと尋ねるとそうではなかったとも謙遜する。
「自分では全くダメだと思っていました。中学校の友達とかも上手かったので、そういった環境にも恵まれながらやっていました。だから友達には今でも感謝しています。うまい人に囲まれて、それで徐々にうまくなったんです」
そうやって自分への評価は控えめに。そして友人に感謝する福森にとって大事な出来事があった。全国大会出場である。
「ぼくたちは無名の中学校だったんですが、一つ上の代が県のベスト8まで行ったので、それを抜く事を目標にしていました。そしたらいつの間にか全国大会に出られるようになった。藤沢市の大会を勝ち抜いて、県の大会を勝ち抜いて、関東大会に出場したんです。そこで1回勝てば全国大会に行けるという状況で勝って出場することができたんです」と福森。全国大会出場をかけた試合は千葉県代表と千葉県内で行われているのだが、この試合について政之さんはこう話す。
「この試合で2点決めたのが息子だったのでよく覚えています。確か2-1だったと思います」
福森は村岡中学校に2点をもたらし、チームを勝利に導いた自らの活躍を一言も口にしなかった。ここでも謙遜である。
出場した全国大会で村岡中学校は伸び伸びとプレーする。
「一回戦を2-0で勝利して、ニ回戦は静岡の浜松開成館中学という強豪チームで、優勝候補と言われていました。この試合は3-3でPK戦で勝ったんです。奇跡的な勝利ですごく嬉しかったです。ただ、そこで力を使い果たしてしまいました。三回戦は青森山田中学高等学校で、柴崎岳(現鹿島)とか居たらしいんですがそこにあっさりと1-3で負けてしまいました」
それでも無名校を全国大会へと押し上げた原動力である。中学でそれなりに名前を売った福森は、高校への進学で頭を悩ませることとなる。父親の政之さんは当時を振り返る。
「晃斗の兄に対しては、高校は公立に行くようにと言っていたんです。だからそれを聞いていた晃斗自身も最初は藤沢市内の公立高校に行くと言っていました」
福森の元には幾つかの強豪校からの誘いが来ていたという。市立船橋高校や帝京高校、桐光学園の練習会に参加して合格するほどの才能を持っていた。しかし、しばらくは「公立高校に行く」と政之さんに話していた。そしてそんな福森に父親の政之さんは問いかけた。
「ホントはどこに行きたいんだと聞いたんです。そしたら桐光に行きたいと言うんですね。そこでどうしても公立がいいというのであれば、行かせていたんですがそうではなかった」
最初はお兄さんに対する気兼ねがあったのかもしれない。ただ、そんな遠慮はしてほしくはないと考えた政之さんの言葉もあり、福森は藤沢から通える桐光への進学を決める。
桐光に入学した福森は1年時に1つの挫折をしている。2008年に行われた大分国体の神奈川県代表から漏れてしまったのである。
「選考会は中2くらいから参加させてもらっていました。ずっと入り続けていて、最後まで残っていたんですが最終メンバーの18人を選んだ時に、外された5~6人に入ってしまいました。全国大会だったし神奈川県代表が優勝したので悔しかったです」
そんな福森を身近に見ていた桐光学園サッカー部の佐熊裕和監督は「残念がっていたとは思いますが、国体が全てではないですしね」とその当時を振り返る。そして福森はこの挫折をバネに力を発揮し始める。
福森の代は彼らが2年になった時、8人ほどの選手がメンバー入りしていた。そしてこの2年時の高校選手権神奈川県予選で桐光は決勝へと進出。しかし桐光は敗れてしまう。決勝で敗れた悔しさはあっただろうが、それは高校3年時の選手権予選敗退の比ではなかった。フロンターレのオフィシャルホームページに掲載されている福森のプロフィールの中に「サッカー人生で一番悔しかった試合」として「高校最後の試合」が選ばれているからだ。
「あれは選手権予選の桐蔭学園戦でした。絶対に負けたくなくて、延長を含めて点は決められなかったんですが、得点も決められず0-0でした。それでPK戦になって5人目のぼくのところにノーミスで回ってきて、あれは緊張しました。でも決めることができたんですが次の選手が外してしまって。
負けた時に何が起きたのかが分からなくて、涙ひとつ出ませんでした。呆然としちゃって。周りは泣いているんですが、そのあとロッカールームでの監督の話で、負けたんだなと実感してきました」
準々決勝だった。どうしても勝ちたかった試合で「普通にあっさりと負けてしまいました」と福森は話す。
政之さんはこの日のことを覚えているという。
「悔しいという表情は見せていたんですが多くを語ることはなかったですね。6番目に蹴って、止められたのが1学年下の子だったんです。試合を振り返ると彼の事を話すことになる。だから黙っていたのかなと思います。試合が終わった時、一番先にその子のところに行っていた気がします」
呆然としていながらも年下の後輩に対する気遣いを見せる。そんな、心優しさのある選手だった。
福森は高校入学時と同様、高校を卒業するにあたり、大学かプロかの選択を迫られている。父親の政之さんは、桐光を選ぶ時と同様に彼の背中を押したという。
「心配だったのでフロンターレさんのディフェンス陣の経歴や代表歴を調べて見せたんです。オファーをもらっているけど、代表経験がある人たちの中でできるのかどうかを問うたんです。でも一番最初に言ったのは、やりたい道に行けばいいという事でした。その部分は高校を決める時と同じでした。これはチャンスでそれを掴むのかどうか。大学に進学し、卒業する時にオファーを待つのか。だけど4年後にオファーが来るとは限らない。だからそれを決めるのはお前自身だと、そういう話をしました」
その一方で、桐光の佐熊監督は福森には大学進学を勧めたと話す。
「あまり『オレがオレが』というところはない選手でしたから、競争してわがままなところが必要なプロの世界でどうかなとは思いました。ですから卒業するときにはプロよりは大学を勧めました。4年の大学生活でプロが見えてくれば、という事も話しました」
相反する意見の中、福森はプロ入りの道を選ぶ。
「チャンスがあるときに掴まないと、先はわからないから。今行けるんなら行って挑戦しようと思ったんです」(福森)
フロンターレでの新体制発表会見では「開幕スタメンを狙う」と宣言し、その度胸にどよめきが起きた。しかし、ポジションは待っていて転がってくるものではない。開幕に向けて体調を整えるシーズン序盤は、若手もベテランもなく奪いに行くもの。しかし、大きな言葉とは裏腹に、福森はポジションを奪い取る力強さを見せられなかった。そんな福森に物足りなさを感じていたが、加入初年度のシーズンを振り返り、福森は父の政之さんとの会話の中でこんな会話をしたという。
「『昨季のフロンターレはけが人が多くいたので、激しくプレーしてケガをさせたら大変なことになる。だから思い切って行けない』と話していました。もちろん、誰かをケガさせてでもポジションを取れといいたい訳ではありません。そこは本人なりにチームのことを考えているのかもしれないですが、ただ、プロとして行かなければならないところはあると思うんですよね」(政之さん)
個人のことよりも苦しいチーム事情を優先させようとするあたりに、福森の心の奥にある優しさが見え隠れしている。そしてそうした優しさを理解しているからこそ、佐熊監督は大学での経験を勧め、プロとしてやっていけるのかを案じるのである。
お兄さんに追いつこうとしていた小学校時代の福森は闘争心と向上心の塊だったという。しかし、政之さんはフロンターレに入ってからの福森に、それらの激しさが欠けているように感じると話す。ちなみに福森自身は「闘争心は出ていると思っています。負けたくないという気持ちが強くて、目の前の選手に負けたくないという気持ちはあります。でももっと行かないといけないのかもしれません」と自らについて口にしていた。
昨季は3試合で途中出場。父の政之さんは「ちょっと経験させてもらったということで、舞い上がっていましたね」とそれらの試合を振り返る。しかし福森は楽しめていたと話す。
「デビューしたのはアウェイの新潟戦で、すごく緊張していました。試合中に名前を呼ばれた時に『ああ、オレかぁ』と思いました。ピッチに入るまですごい緊張してたんですが、入ってからは緊張は一切消えて、ほんとにこのピッチに立っているんだなと。時間が過ぎるのがすごく早くて楽しめましたしいい経験ができました。あの時はCKも蹴らしてもらって。すごい信用されているという事も感じました」(福森)
ルーキーイヤーの途中出場3試合を楽しみ、迎えた2012年はフロンターレにとって波乱の幕開けとなる。リーグ戦をわずかに5試合消化した時点で監督が代わり、8節の広島戦から風間八宏監督が指揮を執ることとなったのである。風間監督は「固定観念に囚われることがない」と公言し、またけが人が続いたこともあり積極的に若手を登用する。そうした流れの中、福森は13節の仙台戦で初先発の大舞台に立つこととなる。
「前日はあまり緊張しなかったんですが、当日起きたらすごく緊張してきました。あと何時間後には試合が来るんだという事を考えてしまって。緊張のピークは入場する時でした」そしてその緊張は昨季の3試合と同様に試合が始まるとすぐに消える。ただ、これまでの試合と違っていたのは、それが過去3試合で経験したプレー時間を1試合で超える90分間のフル出場になったという点だった。福森はミスをしてしまうのである。
「1回目のミスが(西部)洋平さんへのバックパスがずれてコーナーキックにしてしまった場面でした。それでちょっと焦ってしまいました」ただそこでチームメイトは粛々とそのミスをカバーする。「ミスもあったと思うんですが、それは周りのみんながカバーしてくれました」このコーナーキックを無事に切り抜けたこともあり、福森は平常心を取り戻し、パスミスをしても「そういうものだ」と割りきったという。そうした中、試合は一進一退を繰り返す。先制したフロンターレは仙台に追いつかれ逆転を許すという展開の中、61分に登里享平が同点ゴールを決めて試合は振り出しに。そして迎えた90+2分のことだった。中村憲剛がボールを持ったタイミングで左サイドのスペースに顔を出し、パスを引き出す。ボールをもらった福森はゴール前の矢島卓郎に視線を送る。
「ヤジさんが走ってきてくれたので、自分はただ合わせるだけでした。焦りも緊張もなく、平常心でやってました。ただシンプルにヤジさんのところに上げようと思っていました」
相手GKが飛び出せず、なおかつ走りこんだ矢島にピンポイントで合うという絶妙なクロスが入る。
「全体練習後にマル(谷尾昂也)に付き合ってもらい、自主練をしていたんですが、その時のセンタリングはミスばかりだったんです。あのクロスは何十本かに1本出せるかどうかというものなんじゃないですかね。だから自分でも驚きました。点が決まった時はしばらく何が起きたのかわかりませんでした」
矢島が合わせたクロスは仙台のゴールネットを揺らす劇的な逆転弾となった。
現在の福森のプロフィールには嬉しい話と悔しい話として、中学校と高校の試合が掲載されている。もちろん仙台戦を終えた今、サッカー人生で一番嬉しかったのは、初ものづくしだったその仙台戦になったと胸を張る。ただ悔しさは、そこに深く関わることでしか体験できないものである事を理解した上で「悔しいことがあったら本当はダメだと思う。だけど試合に出る事で感じる悔しさがあると思う。そういうのはいまはわからないですが、そういうのを見つけて行けばさらに上を目指せるのかなと思います」と述べていた。実戦経験の中で感じられる悔しさは、彼をプロサッカー選手として一段階高いところに押し上げてくれるはず。だからこそ、これからもポジション取りに挑戦し続けてほしいと思う。
福森家には元旦の恒例行事があったという。1月1日のお昼過ぎ。自宅近所にある小学校の校庭を訪れ、PKによる蹴り始めを行うのである。政之さんは二人の兄弟に対し「今年のサッカーの運勢を占うぞ!」と宣言してPK勝負に臨むのである。このPKがその年の最初のひと蹴り目。だからそれまでは絶対にボールを蹴ってはならなかった。福森が小学校の間続けていたというこの恒例行事は年々口コミで広まり、いつしか多くの友人が集まる行事となったのだという。この初蹴りを含め、楽しみながらサッカーをする事で、自らがプロサッカー選手になる足がかりをつけてくれた父と兄。そして家族を支えてくれた母親に対する感謝の気持として、福森は初めて手にした出場勝利給を家族3人で分けてほしいと伝えている。しかし「そこまで考えているのかと驚きました」と振り返る政之さんに「それはお前のものだから」と拒否されたと苦笑いしていた。そして、また遠慮される事を承知の上で、仙台戦の勝利によって支給された勝利給で家族に何かできないかと思いを巡らせていた。
フロンターレは監督が変わり、新しい理論をベースにしたサッカーを展開している。そのサッカーに順応できるのか政之さんは確証を持てずにいた。しかし、福森は楽しんでいる。
「つなぐサッカーなので楽しいです。一人ひとりが一個のボールを失わないように意識して、風間監督も失わないようにといつも言っている。だから選手一人ひとりが集中力を高くしてボール回しをやっています。失わないようにどう攻めるのか。すごく楽しいです」
福森が使っている楽しいという言葉は、どのレベルにあるものなのだろうか?
少なくともサッカーを始めたばかりの子ども向けの楽しさとは違うものなのだろう。戦いの舞台へと赴く選手たちは、死ぬほどの苦しみの末にある勝利を味わい、そして楽しむ。果たして福森の楽しいは、どこの段階にあるものなのだろうか。
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[ふくもり・あきと]
精度の高い左足のキックが武器のDF。プレースキックのレベルはチーム内トップクラス。センターバックだけはなくボランチでもプレーし、積極的にタテにボールを入れてチームの攻撃を活性化させる。プロ1年目で公式戦出場を経験。さらなる飛躍を誓う。1992年12月16日/神奈川県藤沢市生まれ。183cm/73kg。>詳細プロフィール