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ピックアッププレイヤー

2012/vol.11

ピックアッププレイヤー:DF5/ジェシ選手

ポルトガル、ドイツと武者修行をし、U-13日本代表から年代別の代表に名を連ねてきた
新戦力がフロンターレに加入した。
風間宏希、21歳。
サッカーと、自分と向き合ってきた日々──。

01 2012年7月28日(土)、等々力競技場。風間宏希は、初めて等々力のピッチに立った。

 ドイツから帰国し、新たな海外でのチームを探しながら、川崎フロンターレの練習に参加していた宏希がフロンターレに加入することになったのは7月1日のこと。完全移籍で弟の宏矢とともに加入となった。それから約1ヵ月後のJリーグデビュー戦。

 練習でのフォーメーションからスタメン出場が予想されたが、ハッキリとわかったのは、試合前のミーティングの時だった。

 この日、フロンターレは久しぶりに攻撃力が爆発し、4対1で勝利を収めた。

 フロンターレは、それまで4試合連続でノーゴールを続けており、この試合から宏希が出場するということもあり、注目を集めた一戦となった。前半はトップ下、そして前半途中で憲剛とポジションチェンジし、ボランチに下がった宏希だったが、「びっくりするぐらい早い時間」に、珍しく両足を攣らせて無念の途中交代となった。

 試合後、記者に囲まれたが、悔しそうな表情をみせた。

「ケンゴさんのゴールの時、うれしかったです。自分自身は、それまでの練習でいいプレーができていたなかで、試合でそれが出せなかった悔しさがあります。でも、練習をやらなきゃうまくいかないので、今、ちょっとずつよくなってきていると思うので、このまま続けていきたい」

 等々力の雰囲気とサポーターも宏希を後押ししてくれた。
「温かい人たちが多いんだなって思いました。今日はサポーターの皆さんの素晴らしい雰囲気のなかでできたことが一番の収穫です」

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原風景

 風間宏希の原風景は、サッカーにある。

「家の近所の公園で、父と近所の小学生や中学生のお兄さんたちと、サッカーをして遊んでいました。お兄さんたちは、父がいなくても僕とサッカーで遊んでくれていました」

 宏希は、父の八宏が、日本サッカーリーグのマツダSCでプレーしていた1991年、風間家の長男として生まれた。姉ふたり、後に弟の宏矢が生まれることになる。

 1993年、Jリーグ開幕。

 サンフレッチェ広島の風間八宏は、その開幕戦、開始1分で日本人選手Jリーグの記念すべきファーストゴールを決めている。その頃、3歳だった宏希には、まだ父がプロサッカー選手だという認識は、なかった。

 試合会場には行っていたが、ほとんど試合を観ていなかったという。

「父のチームメイトの子どもたちと、試合中、ほとんど遊んでいました。だからプレイヤーとしての父の記憶はほとんどないんです」

 とはいえ、物心ついた頃からサッカーは身近な存在だった。父の練習場にまだ幼い宏矢とともに連れていってもらい、練習中、サッカーボールで遊んでいた。

 「サッカーをやりたい」と初めて、自意識が芽生えたのは5歳のときのことだ。

 1996年、父の移籍に伴い、風間家はドイツへ渡る。

 宏希は、ドイツの幼稚園に入園し、町のサッカークラブであるSSファーグルンドに自らの希望で加入した。

「母親に、入りたいという話をしたら、お父さんにきちんと頼みなさい」と言われました。

 父に、言った。
「僕、このクラブでサッカーがしたいので、やらせてください」

 町のサッカークラブとはいえ、リーグ戦やカップ戦があるなど、本格的な試合のシステムが組まれており、宏希は、燃えた。技術的にもぬきんでていたし、得点王にもなってトロフィーももらった。片言のドイツ語で、サッカーを楽しんでいた。

 そして翌年、帰国。

 父の出身地でもある静岡県に居を構え、ここが宏希の「故郷」になる。

 小学生の時は、地元江尻サッカースポーツ少年団に所属。小4からは、選抜チーム清水FCにも名を連ねた。夕方の5時〜7時が少年団の練習、7時から9時は清水FCの練習という日々。そうしたサッカー漬けの日々は宏希にとって当たり前で、とくにハードだとは感じていなかったというが、小学生時代の思い出は別のところにあった。

「小学6年生の時に、毎朝、うちの学年だけ1000mを7時45分から走っていたんです。サッカーが終わると、『明日の朝も1000m走るのかぁ』って。そっちのほうがサッカーよりキツかったですね(笑)」

 中学では、クラブチームである清水FCに所属。

 練習の初めに1時間、ひたすら基礎練習を課された。

 とめて、蹴る──。
 その、繰り返しだ。

「もちろんしっかり毎日練習していましたけど、当時は頭ではわかっていても、ひたすら基礎練習をするのは精神的にはきつかったですね。でも、今思うと、こういう練習は自分のためになっています」

「でも」と、宏希は続けた。
「あれだけやっても、まだまだなので今からでももっと(基礎的な練習を)やれるなと思う。あれだけ毎日やっても完璧にならないので、基礎は少しは身につきましたけど、技術っていうのはまだまだ足りないですね」

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 中学1年からは清水地域の若手選手育成プロジェクト「清水スペシャル・トレーニング(通称スペトレ)」に参加。このプロジェクトは、当時、低迷していたサッカー王国清水を建て直すため、小学5年生から高校3年生までの学生を約30人集めて、一緒にトレーニングをするという異例の試みである。ほとんどなくなっていた縦の交流を復活させ、清水サッカーの一体感を生み出すことも目的だった。その発起人には、清水サッカーを作ってきた顔ぶれが名前を連ね、八宏もそのひとりだった。
 宏希にとっては、この場がひとつの転機になった。

 当時高校生だった、内田篤人や多々良敦斗(現松本山雅)らとともにプレーしたり、またそうした先輩たちのプレーを間近に観る機会が定期的にあったからだ。
「うまい選手たちと勝負できたりするのが、すごく楽しかった」

「清水の高校サッカーを強くしたい」という気持ちを強く持っていた宏希は、清商へと進むことになった。その頃、なかなか全国大会に進めていなかった清商を「全国に出すこと」が最大で最低の目標となった。

 ところが、高校に入り、初めてつまずくことになる。
 怪我、だった。

 高校入学前の12月に練習中に疲労骨折。結果的に宏希が、復帰するまでには半年を要することになった。

「最初の3ヵ月は手術を回避して骨がつくのを待って、でもつかなくてというのを繰り返してしまって、そのうちに筋肉が落ちちゃってしっかり歩けなくなってしまったんです。体も動かなくて、足も遅くなってしまいました。夏に復帰してからも、また国体前に骨折して辞退することになって…。みんなの練習を観ているだけ、サッカーをやらない半年間は、自分が元に戻れるのか不安でした」

 とはいえ、2年時には、JFAプリンスリーグU-18東海2部得点王、3年時にはプリンスリーグ1部で得点王と完全復活を果たした。

 そして、宏希にとって高校時代最大の思い出は、7年ぶりに清商が全国大会を決めた高校総体静岡県決勝だった。静学との対戦は、清商に入学した弟の宏矢のゴールなどで勝利。
「高校時代で、いちばんうれしかったです」

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 海外

 宏希は、U-13からずっと各年代別の代表に選出されていた。

 確かな技術の高さは、早くからサッカー界で知られる存在になっており、Jリーグからのオファーも高校時代に届いていた。だが、宏希の希望は、「海外」か「大学」のふたつの選択肢だった。理由は、「まだ人間としても成長して、学ぶことがある」と思ったからだった。
 気持ちは、海外のほうに傾いていた。

「まだ自分は甘い人間だし、楽なほうに流されるようなところがあると思っていたので、海外であればひとりでやらなきゃいけない状況に追い込めるんじゃないかと思った」

 宏希は、進路について母に相談した。
「母に海外と大学、宏希はどっちに行きたい?と聞かれ、中途半端に海外も大学もいいかなと言ったんですよ」

 返ってきた言葉は、厳しいものだった。
「そんなこと言っている時点で、どっちにいってもうまくいかないよ。サッカーをやめてもいいし、就職してもいいし、自分が本当にやりたいことをやりなさいって言われました。母は、父がドイツで選手としてやっていた頃も知っているので、そんな甘い気持ちじゃだめだって思ったんじゃないですかね」

 宏希は、腹をくくって答えた。
 俺には、悩んでいる暇はない。
「海外に行く」

 海外のクラブへは高校卒業後の7月、ポルトガルの3部リーグ、ロウレターノへの加入が決まった。それ以前にもオファーはあったが、いきなり1部や2部のクラブに行くよりも、出場機会を求めたほうがいいという周囲からのアドバイスも決め手になった。

 初めての海外への挑戦が始まった。

 イギリス人選手と部屋をシェアし、車で練習場に通う日々。初めて家事もするようになったが、栄養管理まで行き届かず、気づけば2ヵ月で6kgも痩せてしまったという。

「本当にその頃はダメでしたね。パスタばかり食べていたんですけど、栄養も足りていませんでした。代表でたまに帰国していたんですけど、その時にトレーナーや栄養士の方とかにいろいろ教えてもらって、それからは気をつけるようになりました」

 サッカー面は、というと、まずクラブの登録ミスがあり、2月までの約半年間試合に出られないというアクシデントがあった。出場できたのは2月から4月末のシーズン終了に限られた。そうした思わぬところでのつまずきもあったが、チャレンジに後悔はなかった。日本とは違った環境で、激しいサッカーに、意識も変わっていった。

「かなり激しかったですね。サッカーについての意識も変わりました。以前は、相手にぶつからないでプレーするのが前提だったんですけど、相手が激しくくるし、動きだしても簡単にボールがくるわけではないので、相手にぶつかる技術も得なければと、考えるようになりました」

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 考えること──。
 それは、宏希にとって、海外でサッカー選手を続けていくうえでの生命線となった。
「日本ではぶつからずにプレーすることやポジショニングを考えていましたけど、激しさのなかでやっていくためには、当たる技術も必要で、具体的には相手にぶつかるとか、相手の前に体を先に入れるとか。でも、僕もそこまでフィジカルが弱いわけじゃないし、高校時代に筋トレもたくさんやっていたので、フィジカルは本気で勝負したらふっとばされることはなかったです。それよりもスライディングとかのときに危ないのでかわす技術とかも大事でしたね」

 その後、宏希は、シーズンを終えると、ベルギーのチームからオファーが届いたが、チーム経営が厳しく移籍の知らせを待つことになり、その間、ドイツ4部のTuSコブレンツの練習に参加し、2日目で「ほしい」と獲得の意思を受け、移籍が決まった。

 ポルトガルで「激しい」と感じたことは、ドイツに行ったら甘い過去の経験に変わった。
 当たりがさらに厳しいなか、宏希の武器であり自分を助けたのは、考えることだった。

「どこでボールをもらえばいいか、味方はどこにボールを出すか、どうしたら自分が活きるかをより考えるようになった」

 そのことはもちろん日本でプレーしていた時も考えていたが、「言葉」という手助けがない分、余計に考えてプレーすることで補おうという意識が強まったのだ。

「ドイツでは英語で話せていたけど、緻密な会話はやっぱりできないので、プレーでみせなきゃいけないという感じでしたね」

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 宏希のプレーを観た人は、感じるだろう。ボールの動きのないところでのポジショニングの意識が高いことを。それは、フロンターレに加入した今も、常に考え続けていることだ。

「中盤はスペースがあまりないし、Jリーグのスピーディーな試合のなかで、ポジショニングは大切。それは意識しようとしていますけど、僕は、まだまだ遅いです」

 ポルトガル、ドイツでの2年間は、高校時代に「まだ甘い自分を厳しい環境に置きたかった」と思っていた宏希にとって、得がたい経験が得られた時間だった。

 例えばポルトガルでは、周囲ののんびりした対応にやきもきさせられ、結果的に自分で動いて、自分でなんとかする行動力を身につけた。

「ビザが必要になって書類を待っていても、『明日やる』と言われたのが来週になり、言われた日に連絡しても『また来週』となる。自分で辞書で言いたいことを調べて自分で電話して、取りに行ったりしました」

 ポルトガルでは、イギリス人選手と共同生活を送っていたおかげで、英語が話せるようになった。彼には、今でも感謝しているという。

 ドイツでは、冬には氷点下になるような気候に驚いた。朝起きると車のガラスが霜だらけになっていた。初めての経験に宏希は、あろうことかお湯をかけて、一瞬でまた氷点下の空気に触れて凍らせてしまったという失敗もあった。

「それからは器具を使って、毎朝、ガリガリと氷を削り落とすことが習慣になりました」

 この2年間で得たものは「何事も自分次第」ということだ。

「正直、サッカー面で何か大きなことを得られたかというとわかりませんが、でも、どんな環境にいても周囲に流されずきちんとやることが大事だと思いました。プレシーズンの試合でいいプレーをして、上のチームから声をかけてもらったこともあった。周りのみんなに合わせるんじゃなくて、自分は向上心をもって、活躍するために来たんだという意識は強くもっていました。生活面でも、ポルトガルでの経験があったので、何事も動じなくなりましたね(笑)」

 今ではレシピ本を見て料理も作れるようになり、栄養についても理解が深まった。掃除もまめにし、依然と見違えるほどキレイ好きな自分になった。厳しい経験をつんだことで、今の環境にも感謝の気持ちが生まれた。

「フロンターレに来て、スタッフの方々の仕事の早さにびっくりしたり、寮で生活して、食事のバランスにも助かっています。ひとりではあんなに何十種類も野菜が摂れなかったですからね」

 充実した表情で、そう語った。

01 2012年、フロンターレは風間八宏監督がシーズン途中で就任し、選手ひとりひとりが練習から技術をより高めてミスをなくしていくことで、フロンターレの新たなサッカースタイルを突き詰めている。宏希の加入は、そうしたサッカーを表現していくチームにあって、新たな風となり、チームにとって刺激になったはずだ。

 ドイツから日本に帰国し、当初は三度の海外挑戦を視野に入れ、フロンターレで練習を始めた宏希。いま、振り返ると、フロンターレの練習初日から「のびのび練習をしている印象で、違和感なく入れた」という。その後、クラブから「これからのフロンターレを背負って立つ選手になってほしい」と面と向かって熱いオファーを受け、宏希の心は動かされた。選手としての自分を評価され、素直にうれしかった。

 今回、人生の節目を再度迎えるにあたり、伝えたのは母だった。

 以前の自分と違っていたのは、「相談」ではなく自分自身で答えを出してからの「報告」だったことだ。心が決まると、一途に向かっていくのは宏希らしさだ。

「僕ももう大人だし、自分で決めるべきこと。フロンターレで、このチームで活躍して貢献しようと決めた瞬間から、海外の考えはなくなったし、中途半端な気持ちでやってもいい方向に向かない。全てを賭けようと思いました」

 高校生の時、海外か、大学か、ふたつの選択肢で揺れた時、宏希は母に相談をし、一蹴された。
 もう、その時のように、決断に向かう途中での迷いのある宏希はいなかった。

 宏希は、今やるべきことをこう語った。

「攻撃のリズムを創ること、自分でも前に行くこと、このチームは中盤でパスをもらえないとリズムも創れないし生きないので、スペースを見つけてそれを活かし、周りの選手も自分自身も活きるように、やっていきたいです。もっと判断も早くしないといけないですし、前に入れるタイミングももっと意識してやっていきたい。練習から続けていくしかないと思うし、試合でそれを出していきたい」

 デビュー戦では、自分自身に満足のいく点数をつけられなかった宏希。自分の向上と練習でのスキルアップ、そして今はフロンターレでの夢を叶えるために、サッカーを追及していく日々だ。

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 父が風間八宏という偉大な日本を代表するサッカー選手であり、同じ道に進んだ宿命として、これまで「風間八宏の長男」という枕詞が、宏希がサッカーをする上で、報道などでついてまわった。両親を尊敬する気持ちとは別のところで、周囲に対して「自分だけを見てほしい」と、自分の存在意義と向き合うことも少なくなかっただろう。

「僕は、僕なので関係ないとは思っていても、高校時代や代表に入ると、常に父の名前がついてまわったけど、僕のなかでは、意識をしないようにしてきました」

 いま、フロンターレに加入し、指導者と選手という新たな局面を迎えた。
「自分が活躍すれば何もいわれなくなるだろうし、自分がどんどん活躍するために、人一倍やらなきゃいけないと思っています」

「風間宏希」として、周りから見られるように──。

そのために、サッカーと向き合い、フロンターレに貢献したい。
強い視線で、そう決意を語った。

「得点を取れて、試合を決定づけられる選手になりたい。そのために技術、体の動かし方をもっと身につけなければ。まずは、決定機で仕事ができ、チームを勝たせること。そういう仕事がしたい」

 最後に聞いた、今の夢──。

「フロンターレでタイトルを獲りたい。それに貢献したいです」

profile
[かざま・こうき]

ポルトガル、ドイツの下部リーグを経てフロンターレに加入。的確なポジショニングでボールを受け、精度の高いパスを駆使して試合のリズムを作るゲームメーカー。基本技術の高さに加え、3列目からの機を見た攻撃参加でチームの攻撃に厚みを加える。まずは試合に絡むことを目標に、チームを勝利に導ける存在感のあるプレーヤーを目指す。1991年6月19日/広島県安芸郡府中町。>詳細プロフィール

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