2012/vol.15
ピックアッププレイヤー:FW17/小松 塁 選手
190cm/79kg―――小松塁というフットボーラーを目の当たりにしたとき、
まず目を引くのはその恵まれたサイズだろう。しかし長身でありながら、独特のリズムで切り込んでいく
足元のドリブル技術も兼ね備えている。そんな希有なプレースタイルは、
一体どんな環境で
培われてきたのか。どんな状況でも淡々と語るストライカーの秘めたる思いとともに迫った。
2011年12月29日。
大阪の長居スタジアムでは、天皇杯準決勝FC東京対セレッソ大阪戦が行われていた。
試合は77分、谷澤達也のゴールでFC東京が勝利をおさめている。J1復帰を決めていたとはいえ、J2のクラブながら国立競技場で行われる元日の決勝戦に駒を進めることとなった。
一方、負けたセレッソ大阪はシーズンオフに入ることになる。試合後、ひとりの選手が、大きな体を折り畳み、サポーターのいるスタンドに向かって深々とお辞儀をしていた。
小松塁だった。
プロになってから約6年。その間に在籍したセレッソ大阪には感謝の気持ちしかなかったからだ。クラブの公式HPに掲載した挨拶でも、最後をこう締めくくっている。
「セレッソに関わる全ての方々に感謝します。ありがとうございました。また長居で会える日を楽しみにしています」
「最初に声をかけてもらったのでうれしかったですね。自分のプレースタイルを見て、オファーを出してくれたとのことでした。フロンターレとは何度も対戦していたし、攻撃的なスタイルもよくわかっていましたから」
ただ決断までには、本人の中で少なくない葛藤もあったという。これまでも環境を変えてプレーしてみたいと思うことはあったが、愛着のあるセレッソ大阪でキャリアをずっと積んでいきたいという気持ちもある。妻にはオファーが来た時点で自分の考えを素直に伝えたという。サッカーに関しては、夫の決定に従うのが小松家のルールだ。つまり決断は自分次第・・・だから、悩んだ。
最終的には新しい場所でチャンレジしたいという気持ちが勝り、川崎フロンターレ移籍という決断を下した。
プロ7年目、小松塁の新天地での挑戦が決まった。
実際、若き指揮官からの信頼は厚かった。
早い段階からレナトとともに新生2トップとして名を連ね、練習試合でも主力組として定着。自身のコンディションも順調な仕上がりを見せており、開幕戦となる新潟戦ではスターティングメンバーとして等々力のピッチに立っている。
「いよいよ開幕だ。これからがスタート」。開幕戦独特の緊張感が漂う中、前半11分に試合が動いた。レナトのセットプレーに實藤友紀がヘディングで合わせて先制点を呼び込んだのだ。実はこのセットプレーは、右サイドに流れた小松のドリブル突破が相手のファウルを誘って獲得したものだったである。
小松は最前線で身体を張って起点となるだけではなく、サイドから俊敏に切れ込む力強さでチームの攻撃を担い続けた。61分には、田坂祐介のスルーパスに抜け出し、決定機が巡ってきている。しかし思い切りよく放ったシュートはゴールバーに弾かれ、スタジアム中がため息に包まれた。追加点こそ奪えなかったが、1-0での完封勝利。幸先よいスタートを飾った。
試合後のミックスゾーンでは、落ち着いた語り口ながら、どこかほっとした表情で試合を振り返っている。
「監督からは攻撃の起点になることと、チームの特徴をふまえて相手の背後を狙っていけと言われてました。チームメイトも自分の特徴をわかってくれているし、チームの戦い方も始動からずっとやってきたので問題なかった。自分が決定機で決めていればもっとイージーなゲームになったと思います。最後はみんなでしっかり守って勝つことができてよかった」
開幕2連勝で迎えた第3節。等々力でのセレッソ大阪を迎えた。注目は、自ずと古巣戦となる小松に集まった。試合前には駆けつけたセレッソサポーターから、小松に対する拍手とコールが沸き起きている。
「そのときはちょうどロッカールームに入っていたんですよ。ただ試合後に、記者の方にそのことを聞きました。うれしかったですね」
初めての古巣戦。相手を意識するなというのは無理な注文だろう。
「意識はしましたね。移籍して間もない段階での対戦でしたし、相手の選手は、ブラジル人以外ほぼ全員知っていましたから。なんだか紅白戦をしているような感じでした」
前半終了間際の47分、田坂祐介のドリブル突破から、スルーパスに走り込んだ小松は右サイドからシュートを放った。しかしこれは去年まで同僚だったGK、キムジンヒョンの素早い反応に阻まれている。試合はスコアレスのまま進んだが、終盤に一瞬の隙をつかれて失点。小松による恩返し弾も生まれることはなく、今季リーグ戦初黒星が刻まれた。
そしてこのセレッソ大阪戦での敗戦から、チームの雲行きが怪しくなっていく。
続く第4節浦和戦。小松は矢島の同点ゴールをアシストしているが、試合はドロー。後半途中に相手が2人退場したにも関わらず勝ち切ることができず、後味の悪さが残る引き分けとなった。
第5節・FC東京との多摩川クラシコでは、またも相手に退場者が出て数的有利になったが相手を崩しきれず。逆にセットプレーから失点し敗戦を喫した。指揮官の電撃解任が発表されたのは、その三日後の出来事だった。当時の心境を思い起こす。
「開幕戦からの2試合は、相手を圧倒して勝ったという感じではなかったですし、ちょっとラッキーな部分もあったと思います。勝てなくなり苦しくなりましたが、だからといって、それほど悲観もしていなかった。一つ勝ったら・・と思いながらやってました。ここから、という思いもあっただけに・・・試合に出ていた選手なので、責任も感じました」
小松塁というフットボーラーを目の当たりにしたとき、なにより目を引くのは、190cmというそのサイズだろう。身長は小学生のときから大きい方だったという。特に中学生の頃が伸び盛りで、入学時に160cm前後だった身長が、卒業時には185cmまで伸びた。
身長に注目されてバレー部やバスケットボール部に誘われることもなかったそうだ。というのも、出身地である高知県安芸市は、小松本人いわく「かなりの田舎」。通っていた小学校は各学年1クラス20人程度で、6学年全校で6クラスという小規模だ。男子が選択するスポーツも、自ずとサッカーか野球という二択になるだろう。「塁」という名前にもかかわらず、野球と無縁だったのが興味深い。
「それはよく言われます(笑)。でも名前の由来に野球は全く関係ないんです。サッカーを始めたきっかけは、2つ上の兄ですね。兄が小学生のときに始めて、自分はまだ保育園児でしたが、そのサッカークラブについていってました」
小松少年が夢中に励んだのはドリブルだった。
「ドリブルが好きでしたね。とりあえず、自分がボールを持ちたかった。ゲーム形式の練習が多かったし、ドリブルばっかりやっていました。小学生のときのポジションはセンターハーフ。中学のときにディフェンダーになったのですが、ボールを持ったら、ディフェンスの位置からもドリブルしていました(笑)。でもチームは弱かったですよ。試合で勝った記憶がないぐらい弱かった」
小松のプレーエリアが、空ではなく地上になることが多いのはご存知の通りだ。長身でありながら足元の器用さを兼ね備えており、独特のリズムでサイドから切り込んでいくドリブルには味がある。対峙するDFはさぞかしやっかいなことだろう。
「塁さんは、懐が深くてシュートもうまい。武器をたくさん持っているので、ディフェンスとしても対応が読みにくい」
これはチームメートのディフェンダー・實藤友紀による小松塁のプレー評だ。なお高知大学出身の實藤は、「塁さんは高知が生んだスターです(笑)。ただ高知なのに、大阪が長かったためエセ関西弁なのはどうなんですかね」とおどけていたことも付け加えておこう。
実は小松がFWのポジションでプレーするようになったのは高校になってからである。高知市内の高校だが、毎日朝練習があったため、実家を離れて親戚の家に下宿して3年間通い続けたという。強豪校ではなかったが、監督がとても厳しいことで有名で、練習中は毎日のように怒鳴られた。最初は15人前後の新入生も減っていき、毎年残るのは1〜2人。そんな環境の中、FWとしての技術を研いでいった。
「DFとして入部したのですが、『FWをやってみろ』と監督から言われました。FWは点を取ったらうれしいし、面白かった。ヘディングの練習もしたけど、うまくなかった。やっぱりヘディングよりも足元のプレーが好きでしたね」
こうしてあのプレースタイルは磨かれていったが、高校時代はさしたる実績を残したわけではなく、高校からプロに進む道はあきらめた。サッカー推薦ではなく、指定校推薦で関西学院大学に入学。大学生活を満喫したい気持ちもあり、当初は大学のサッカー部に入るかどうかも決めかねていたという。
「一週間ぐらい普通に大学生活をしてましたよ。サッカーをやるかやらないか迷ってました。ある日、大学のサッカー部にいって練習を見てみたら楽しそうだったので、次の日には入りました」
サッカー漬けの日々がまた始まった。
大学時代の小松塁といえば、こんなエピソードがある。
川崎フロンターレの広報担当者が小松塁と同学年で、関西大学リーグで対戦した経験があるそうだ。試合前、小松のプロフィールと体格を見て、空中戦が得意なストライカーだと思い込んで警戒していたら、キックオフと同時にスルスルとドリブル突破されて失点してし、呆気にとられたそうである。
大学2年生から試合に出始め、にわかに注目され始めた。4年生のときにはユニバーシアード日本代表の一員に選出。当時のキャンプには現在のチームメートである矢島卓郎(早稲田大学)も招集されている。当時の小松について矢島はこう語る。
「スピードに驚きました。塁とはそのときの練習試合で一緒にツートップを組んだのですが、速いし、高いし、巧い。自分はそのときは(関東大学リーグ)2部だったので、大学のトップレベルではプレーしたことがなかったんですよ。あのときのFWは塁、真吾(赤嶺)、一樹(原)がいて、みんなうまい選手ばっかりだった。自分はフロンターレの強化指定選手で、塁もセレッソの強化指定だった。プロにいくメンバーが多かったし、まわりのレベルが高くて、あのキャンプは刺激になりましたね」
トルコで行われたユニバーシアードでは、決勝戦でイタリアを破り優勝した。小松もその一員として貢献している。大学卒業後は、4年生のときに強化指定選手として登録していたセレッソ大阪に入団した。
実はこのとき入団してきた同期には、現在日本代表の10番を背負う・香川真司もいる。当時の香川は現役高校生。ユース所属ではない選手が高校卒業前にトップチームとプロ契約を結ぶのは、異例の出来事とも言えた。いまやマンチェスター・ユナイテッドのユニフォームに身をまとう日本の顔の話題を振ると、懐かしそうに振り返る。
「真司の凄さですか?高校生で入ってきた時点で、すでに十分凄いですよね(笑)。いつもプレミアリーグを見てますが、素直に凄いな、と思いながら見てますよ。シンジ・カガワは、日本の10番ですから」
入団元年の06年、小松は出場機会に恵まれていない。シーズン途中の10月には全国地域リーグ決勝大会突破とJFL昇格を目指していた当時九州リーグ所属のV・ファーレン長崎に期限付き移籍している。小林伸二監督(現:徳島ヴォルティス)に請われたもので、ごく短期間の助っ人だったが、真剣勝負の場で自分を磨けたことが貴重な経験となった。
07年シーズンからはJ2で戦うセレッソ大阪に復帰。クラブは世代交代による若返りを図ったが、思うように成績は上向かず、5月には監督が交代となる。代わりにやってきたのがレヴィー・クルピ監督だった。
後に香川真司、清武弘嗣、乾貴士といったアタッカーを日本代表に押し上げた名伯楽は、小松の持つ能力の高さを見い出す。古橋 達弥(現:湘南ベルマーレ)との2トップで、その能力を発揮させた。07年に12得点、翌年も16得点と小松は主力FWとして活躍し始めた。小松塁というストライカーの名前がサッカーファンにも知れ渡ったのは、この時期からである。クルピとの出会いは、小松にとってもターニングポイントになったといえる。
「クルピ監督の教えは、自由にやっていいところは自由にやってもよかったですが、緻密なところはものすごく緻密でした。クロスの入り方や、シュートコースは細かく決まっていました。中盤でしっかりボールを動かして前に行ったら、仕掛けの場面では自由にやってよかった」
セレッソ時代の小松にはこんなエピソードがある。
昨年のJ1第29節甲府戦を控えたある日のことだ。対戦相手の甲府には、日本代表でブレイクしたハーフナー・マイクがいる。試合前、そのことを記者陣から問われたクルピ監督は、こう切り返したという。
「ハーフナー・マイク? ウチには、ルイ・コマツがいるじゃないか」
相馬監督を解任したチームは、風間八宏監督が就任した。
指揮官が変われば、志向するサッカーも変わる。それは当然のことだ。そしてプロならば、その要求に応えなくては生き残ってはいけない。
風間監督がスタメンで重用したストライカーは、小松塁ではなく矢島卓郎だった。小松はベンチに入ることはあったが、ほとんどの試合で途中出場の機会が巡って来ることがなく試合終了の笛を聞いている。8月にはその矢島が戦線離脱したが、今度は若干19歳の風間宏矢がそのポジションで試合に出続けた。
小松がすごいのは、それでも淡々と日々のトレーニングに励み、自分のペースを崩さないことだ。そこには紛れもなく芯の強さがある。實藤がこんな打ち明け話をしてくれた。
「同郷ということもあり、自分は塁さんにはよくご飯をごちそうになるんです。でも塁さんはそこで愚痴とかを言ったことがない。言いたいこともあると思うけど、そういうことを言わずに、自分の持っているものをブラさ、ずっとやり続けている。その姿勢が素晴らしいですよね。そういう選手がプロでは必ず結果を出すと思っています」
「努力は人を裏切らない」
小松の座右の銘だ。高校時代の恩師からもらった言葉だという。努力は誰もがしていることだが、それを続けることが実は一番難しく、そして最も大事だからである。
小松にとって努力とは、自分を裏切らないものなのだろう。それがどんな環境であっても、である。だから、自分がブレることも決してない。
「試合に出れなくて悔しい気持ちがあったし、物足りなさもあります。でも試合に出ていないのは、自分に要因がある。練習から風間監督からは要求を受けていたので、それをしっかりと表現していくことが大事。動き方、出し手とのタイミングをよく言われますね。どこの場所に、いつ動くか。近づくのではなく、離れるか。最初の頃に比べたらプレーの幅も広がってきたと思う。でもまだまだ上手くなれると思っているし、もっともっと努力しないといけない。出ている選手がファーストチョイスになるわけだから、そこに自分が入っていかないと」
口調こそ穏やかだが、彼はこれまでどんな状況にもそうやって逃げずに立ち向かってきたのだろう。その語り口と姿勢からは、身体の真ん中をまっすぐ貫いている信念のようなものが感じられる。彼の芯の強さは、きっとそこにある。
9月8日に行われた天皇杯2回戦・徳山大学戦。
後半から出場して流れを変えたのを皮切りに、リーグ戦でも少しずつ出場時間は増えてきたが、第26節のFC東京戦で腰に違和感を感じて交代となった。ようやくチャンスと手応えを掴み始めてきたタイミングでの戦線離脱は残念でならないが、彼ならば、この試練も力強く乗り越えていくはずだ。
2012年のリーグ戦最終節。
川崎フロンターレの相手は、奇しくも、セレッソ大阪だ。
場所は長居スタジアム。
そこで、どんな小松塁を見せるのか。
楽しみである。
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[こまつ・るい]
高さとスピードだけではなく足下の技術も兼ね備えた長身FW。ヘディングも武器だが、相手の裏をとってスペースに抜け出し強引にシュートに持ち込むプレーも得意とする。熾烈なポジション争いになりそうなFW陣のなかで才能を発揮できるか。1983年8月29日/高知県安芸市生まれ。>詳細プロフィール