2012/vol.16
ピックアッププレイヤー:田坂祐介/鄭 大世
今シーズン初めのプロフィールでは、これから身につけたいものとして「語学」を挙げていた。
静かに温められてはいたが、思いの輪郭ははっきりしたものだった。田坂祐介のブンデスリーガ2部・
ボーフムへの移籍は急展開ではあったが、決して突然ではなかった。
■田坂祐介〜ブンデスリーガ2部・ボーフム
「プロになってからの目標として、海外でプレーしたいという思いはありました。そのために何が必要かと考えると、それが語学だったので、習得したいなと思ってそう書きました。まずは英語を覚えたいなというのはあり、自分なりには勉強してはいたんです」
そんなMFのもとへ届いたのは、ドイツからの誘いだった。
家族に相談した。先輩選手らチームメートにも、当然話した。相談というよりは、確認に近い作業だったかもしれない。風間八宏新監督の下でも先発を残し、結果を残していた。それでも止まらぬ挑戦への思いを、仲間は理解し、背中を押してくれた。「行かないで後悔するより、行って思い切りやってきた方がいいじゃないか、と言ってもらいました」。思えば、皆そうしてプロの門を開いてきた。
話が決まるときには、往々にして早く進むものだ。オファーが届いてから1週間ほどで、自分の中で答えを整えた。出発も慌ただしいものとなった。「23日(月)の深夜にドイツに出発。メディカルチェック後の正式契約となります」。クラブからの発表は、日本を発つ3日前のことだった。
ドイツでも慌ただしかった。到着すると、リーグ開幕まで2週間を切っていた。体づくりの1次キャンプは当然終わっていたが、日本のシーズン中だったのは幸いだった。戦術を身に染み込ませる2次キャンプでは、3日間だけ練習に合流し、4日目にはキャンプ最後の試合に出場した。開幕戦は週末に迫っていた。試合を重ねながら選手同士、お互いの特徴を知り合うのがベストだと判断した。
ドイツ2部でのプレーは、思い描いたとおりの部分もあれば、想像と違うこともある。もしかしたら、ドイツ料理に例えられるかもしれない。果てしなく続く、イモと肉の連鎖。「大味だな、と思いましたね(笑)」。
思った以上に、フィジカルが前面に打ち出される舞台だったが、だからこそメイド・イン・ジャパンが映える。出発直前まで、麻生のグラウンドで流した汗が意味を成す。
「技術的なことは、ものすごく活きています。僕はそこで勝負していかないといけないと思っています。風間さんがよくおっしゃっていたのが、『受けるボールがどんなに悪くても、触ったら必ず止めろ』ということ。大雑把なサッカーの中で、自分のところにしっかりボールが来ることはあまりありません。そういう中で、技術はとても大事です。ボールや流れが悪い中でも、自分がブレずにやれたら何も問題ない。それはフロンターレで培ってきたものが活きている部分だと思います」
ただし、誰にとっても話がきれいに進むわけではない。順位表でどこかが上がれば、どこかが下がらねばならない。それがシーズン序盤は、ボーフムの役回りとなった。
田坂にとっても、事が順風満帆で進んだわけではない。開幕戦から先発を任されたが、ジレンマも抱えていた。「試合に出ること自体は達成できているけど、数字的な部分や内容に関しては全然満足していない。もっとチームに変化を与えられるというか。特に攻撃の主導権を自分が握っていけるようなプレーをもっとしないと」。
9試合を終えてチームの総ゴール数が5つでは、ボーフムが下位に沈むのも当然だった。そして第10節のヘルタ・ベルリン戦、田坂は先発から外された。「なんでか分からないんですけどね。考えないようにしましたが、イライラしてしまいました」。それも宿命なのだろう。小野伸二に鄭大世、乾貴士と、Jリーグからこのクラブへ来た男たちは、助っ人として招かれてきた。
だが、下を向いてなどいられない。目標がある。「ヨーロッパのトップリーグでプレーしたいんです」。今のチームで昇格できるのが、もちろんベストなのは間違いない。だが、次善の策も考えなければならない。フロンターレの先輩FWも、日本代表に再び選出されたドリブラーも、そうしてブンデスリーガ1部へ羽ばたいていった。「ドイツでもいいしスペインでもいいし、とにかくトップリーグでプレーしたいんです」。実力で居場所をつかんでいく。それが助っ人というものだ。そしてその先に、もう一つ欲しいユニフォームがある。「日本代表というのは、選手である以上、常に目指さなければいけない場所だと思っています」。
居場所を自ら離れた責任も感じている。
「僕はタイトルを取るために入ったし、そうできるチームだと思ってフロンターレに入団しました。そうならなければいけないと思っていたし、毎年タイトルを取るとファンに公言しながら、取れないまま移籍するのは心残りがありました。今年も大きな目標を掲げて臨んだシーズンでしたから、ファンの皆さんには申し訳ない気持ちでいっぱいでした。でも、自分が選手としてどうあるべきか、どう成長していきたいか考えたときに、やはり海外に行って思い切りチャレンジしたいなと思ったんです。僕ももう27歳ですから、なるべく早く決断して前に進んでいかないと時間はないので」
移籍発表から出発までの短い間に、川崎のサポーターが壮行会を開いてくれた。フロンタウンさぎぬまでの手作りのパーティーは、田坂の想像を遥かに超えていた。集った人々は、実に500人。その温かさは、決して忘れられるものではない。「フロンターレを飛び出た以上、ただでは帰れないと思うし、フロンターレのサポーターや関わっている人々に、海外に行ったことで成長したなと思ってもらいたい」。
居場所を離れた覚悟が、ある。
■鄭 大世〜ブンデスリーガ1部・FCケルン
川崎の公式サイトにプロフィールを最後に記したのは、もう2年半も前のことになる。自分の性格の欄には一言、「ガラスのハート」と記した。見かけよりもナイーブなストライカーは、想像以上の厳しい時間を経験している。
ガラスの表面には、無数の傷がついているのかもしれない。だが、「もう慣れましたよ」と鄭大世は笑う。
ドイツで迎える3度目の開幕戦。ドイツで2チーム目のユニフォームを来て、大世は先発のピッチに立った。名門の背番号9を背負って。
だが、雨が降り出すのは突然だった。ゴールパターンを繰り返していた、ある日のトレーニング。センターフォワードが縦パスを落とすと、ボールはサイドへ展開される。ウィンガーにはセンタリングという選択肢もあったが、すべて内へと切れ込んでシュートを放っていた。こぼれ球を押し込むだけの役回りは、センターフォワードには物足りないものだった。周囲も不満だらけの中、「自分が一番年上だったので」と発した言葉は決して悪意あるものではなかった。
「コーチ、これじゃあオレたちは全然ボールに触れませんよ。オレたちにはチャンスがありませんよ」
一瞬で、大世の頭上に雷雲が沸き上がった。コーチの激怒が、監督へと伝播する。「大世、それが嫌なら、今すぐ家に帰れ。オレたちはお前のためだけに練習しているのではない!」。道は暗闇に閉ざされた。
「間が悪かったんです」と大世は、遠い目で今年の話を続けた。チームメートも「お前が言ったことは間違いじゃない」と慰めてくれた。だが、リーグ開幕5戦未勝利の状態での発言は、いかにもタイミングが悪かった。大世がベンチからも外された初戦は負けたが、次の試合から結果が出始めた。大世にとっては悪い方向へ、歯車が噛み合ってしまった。こぼれ球を押し込む機会さえ、失われたのだ。
「練習でボールを奪われなかったのに追わなくて、監督にブチ切れられたこともありました。ドイツはチームプレーをすごく大事にするから、もちろん悪意はなかったけれどもそういう面で乱す行為をしてしまった。だから、こういう状況になっているということは、ある意味自分では納得しています」
川崎でのルーキーイヤーを除いては、怪我以外の理由でこれほど試合から離れたことはない。
川崎時代は、今もまぶしい。だから、懸命に顔をそらす。等々力のピッチを駆け回った時代を、大世は「栄光」と表現した。
中村憲剛からは極上のパスが届いた。ジュニーニョはセンタリングはプレゼントだった。ブルドーザーのようにDFを弾き飛ばす背番号9に、ファンは特大の声援を送ってくれた。結果と自信の好循環が生まれていた。
その根底が揺らいでいるという。
「ずっと悩んでいるんです。For the team(チームのために)なのか、For the goal(ゴールのために)なのか」
FWの役割は多い。ポストプレーにビルドアップ、守備の重要性だって理解している。だが、ゴール前でのエネルギーの消費につながることも体感している。川崎時代はゴール前で体を張り、「ミスってナンボ」で許された積極性はFWの特権ととらえていた。だが、欧州ではプラスになるとさえ思っていたエゴも、ドイツでは許されないものだと学んだ。
「もちろんゴールを決めれば周りは何も言いませんが、毎回決められるわけじゃない。ゴールを決めていれば自信を持ってプレーできるし、他の部分でもうまくプレーをさばいたり効果的なプレーをできるかもしれない。でもゴールが奪えず強引にシュートを打って決まらないと、ものすごくチームで浮くんですよね」
ピッチ外でも悩まされることはあった。ケルンへの移籍には、浦和の監督も務めたフォルカー・フィンケのディレクター就任が大きかったと思っている。フィンケの頭には、目の前のドイツのピッチだけではなく、等々力で暴れる大世のイメージが強かったに違いない。だが、一つのプラスが、他方ではマイナスに転じることもある。メディアがフィンケと監督の確執を報じる中、出場機会が多かったとは決して言えなかった。
ディレクターと監督はチームを去ったが、その後での“アクシデント”発生である。しかも全治が不明である事実が、さらに重くのしかかる。
ガラスのハートには酷に思える状況だが、それでも大世は声のトーンを変えずに語る。「ケルンへの移籍など、常にその時ベストの選択をしてきたと思います。判断する時に常に考えていたのは、後で後悔をしないようにしようということ」。ピッチ上でのプレーバランスも、今トレーニンググラウンドでどう振る舞うべきなのかも、すべては今の自分の判断次第だ。「根底の部分が揺らいでいる。フロンターレからボーフムに移籍したときは自信満々だったのに」と言いながら、こう続けた。
「ゴールに対する意識だけは忘れないようにしています。周りにため息つかれようが、それがなくなったらオレじゃなくなると思っています。パスとで迷った時には、シュートなんて入らない。オレは貪欲さだけが売りでここまでやってきたんだから」
思い出すことがある。自分で選んだ、人生の分かれ道。
「フロンターレでは憲剛さんとジュニーニョにおんぶに抱っこでした。だから、ボーフムに行った時からが独り立ちだと思っていました。海外でどれだけ通じるかというのを、自分で答えを出したかったので」
だからこそ川崎時代の映像を、目の前からも頭の中でも再生しないよう務める。
「あの時を懐かしく思うということは、現状に満足していないということ。過去じゃなく、未来のために頑張らなくちゃいけない。だって、絶対にドイツでは憲剛さんのパスも、ジュニーニョのセンタリングも来ませんから。待ってはいけない。今、自分が何をすべきかを考えないと」
■前へ、前へ、前へ...
「Keine Zeit(時間がないんだ)!」。日本から来た記者に、おらが街の日本人選手との記念写真を見せようと携帯電話をいじるレストランの店員に笑いかけ、田坂は小走りで練習へと向かった。
レストランを出る前、小さな街での大きな冒険に挑む田坂は、「壁は大きいですよ」とつぶやいた時にもやはり、笑顔を浮かべていた。その数日後のリーグ戦は後半頭からの出場だったが、続く試合ではしっかりと先発の座を取り戻し、勝ち点1獲得に貢献している。
「人間は常に変化していかないといけない。今が変化が求められる時期じゃないかと思うんです」
そう話した大世は背筋を伸ばしてカフェの扉を押し開け、仲間たちの戦いぶりを目に焼き付けるためスタジアムへと向かった。そのカイザースラウテルン戦から10日後の第12節アーレン戦、大世は67分に交代で8試合ぶりのリーグ戦のピッチに立った。輝かしい舞台の内と外を隔てるラインを踏み越える一歩は、大世にとって、とてつもなく大きなものだったに違いない。ガラスのハートなど、もう返上だ。
男たちは、プロフィールを更新しながら、前へと進む。
11月23日、ケルンはホームにボーフムを迎える。
profile
田坂祐介[たさか・ゆうすけ]
巧みなボールテクニックを駆使したドリブル突破が武器のMF。パスセンスや運動量も兼ね備えており、守備的なポジション以外ならどこでもこなせるユーティリティプレーヤー。2012年7月よりVfLボーフム(ドイツ)への移籍を決断。新天地でもチームの中心としてプレーし更なる飛躍を目指す。http://www.vfl-bochum.de/
profile
鄭 大世[ちょん・てせ]
強靱なフィジカルと爆発的なシュート力を持った規格外のストライカー。空中戦の強さに加え、前線で体を張ってチームの攻撃の起点となるプレーが持ち味。朝鮮民主主義人民共和国代表のエースストライカーとして成長し、2010年6月のワールドカップに出場した。2010年7月よりVfLボーフム(ドイツ)へ移籍。長年の夢だった海外への夢を叶える。現在はFCケルンでプレーする。http://www.fc-koeln.de/startseite/