棗 佑喜 FW17/Natsume,Yuki
テキスト/江藤高志 写真:大堀 優(オフィシャル)
text by Eto,Takashi photo by Ohori,Suguru (Official)
「12分で3200mを走り切るクーパーというメニューがあるんですが、これを3本繰り返すんです。これがきつくて、なんとか走りきれるんですが、3本目はじんわりと足に来るんです。でも最初は3本で終わりだと聞いていてたので、3本目を走り終えて『よっしゃー、最後だ』とかって喜んでいたら『並べ!』と言われ『最後に2000mやるぞ!』と言われるんです。ぼくら『えっ、嘘やろ、絶対嘘やんな』という感じになるんですが、やっぱり本当で。400mのトラックを1周1分20何秒とかで走らないといけない。あれは本当につらかったです」
聞いているだけで息が上がりそうだが、この話をする棗は楽しげだった。それは厳しい経験を乗り越えたものにだけ許された表情にも思えた。たやすくは乗り越えられない壁は、それを乗り越えた人にとって財産となる。共に乗り越えた友人との絆を深くし、その過酷な思い出は楽しい記憶となる。
自ら望み、進学した駒澤大学では桁外れの走力を強いられる厳しい環境があった。とにかく厳しい練習が待ち構えていた。そんな日々の練習により、棗はメンタルが鍛えられたと話す。そうやって歯を食いしばって練習をこなした大学時代、チームを率いる秋田浩一監督からは人生につながる多くの教えを受けたという。
「サッカーはチームスポーツですし、秋田監督からは『味方が出したパスは最後まで追うように』と教えられました。自分で判断するのではなく『最後まで諦めたらダメだ』ということを教わりました。また、人生のことも教わりました。サッカーで一生生きていくわけではないということは言われました。
『もし奥さん、子どもができて、苦しくて逃げたらお前どうするの?いま、こういうので逃げているやつはいざという時に逃げるぞ』というようなことを言われて、確かにそうだなと思える内容でした」
そうやって日々の練習と指導者からの教えを受け、棗は何にでも全力で取り組む事の大事さを改めて噛み締めた。そしてそんなスタンスは、クラブ公式HPに掲載されたプロフィールからも伺える。棗は設問の一つにある「サッカー人生で一番嬉しかった試合」に対する答えとして「4年の総理大臣杯すべて」と回答している。この大会、駒澤大学は決勝で対戦した中央大学を、延長の末3-2で下し見事に優勝を果たしている。しかし棗自身は決勝戦に出場できなかった。準決勝で受けたイエローカードにより、累積警告による出場停止となっていたのである。1-0で勝利した準々決勝の高知大戦では、現在のチームメイトである實藤友紀を振り切り、決勝ゴールを決めている。エースとしてチームに貢献してきただけに、決勝戦をスタンドから応援したことによる後悔や達成感の欠落のような感情出ていても不思議ではないが、棗はそれはなかったという。
「本当に悔しさはありませんでした。もちろんサッカー選手として決勝の舞台に立てなかったことを残念に思う瞬間はあったんですが、それはすぐに切り替えることが出来ました。予選でもぼくと交代した選手が点を取ったりして助けてくれてましたしね」
優勝したこの総理大臣杯を戦うにあたり、チームには一つの目標があった。秋田浩一監督を胴上げするというもの。
「この年の頭に監督を胴上げしようと決めていたんです。だから、心から応援もできましたし、実際に監督を胴上げできた時は『よっしゃー』って感じでした。最高でした」
優勝するその試合に出場する事が大事なのではなく、その過程に関われるかどうかが、棗にとっての評価基準だった。だからフロンターレの公式ページに有る「サッカー人生で一番悔しかった試合」には、ケガのため何もできなかった「4年のインカレの全試合」と答えている。
何事にも全力でぶつかって悔いを残さない。そうしたサッカーとの付き合い方は、高校時代には始まっていた。丸岡高校での3年時。高校生活最後の高校選手権でのことだ。ベスト8に進出した丸岡高校は、ベスト4をかけて八千代高校と対戦する。現磐田の山崎(亮平)や、現千葉の米倉(恒貴)といった選手が所属する八千代との試合では、その山崎に2ゴールを許し1-2で敗戦する事となる。国立競技場への道が断たれると同時に、棗にとって高校での最後の試合となる。通常であれば号泣しても不思議ではないが、棗を含めた3年生に涙はなかったという。
「もちろん負けた悔しさはありましたが、みんなやりきった感があって3年生は笑ってました。ぼくらにもチャンスがあって、1対1も外してたりして、完敗ではなかったので。後輩は泣いてましたが、『やりきったっしょ』という感じになったんです。その放送を見た福井県民からは『清々しい』という反応や『心地よかった』という印象を持ってもらったようで、福井に帰ってからそういうことを言われました。ぼくらの気持ちが伝わったようで良かったです」
棗は山に囲まれた田舎町で生まれ育った。身の回りにはコンビニ1軒もない環境だったという。
「実家があるのが山奥の田舎町で、遊びといえば動いたり、鬼ごっこしたり。あとはクワガタをとったり、魚釣りしたり。山菜も取りに行ってました。タラの芽が好きで、そういうのはほんとうに楽しかったですね」
そんな環境の中で育った棗がサッカーを始めたのは2つ上の兄を真似て。ごくありふれた理由だった。
「小学校1年生くらいの頃に兄が始めてて、それを真似てやってみようかなと思って」
1学年が10人程度。全校生徒60人程度の小さな小学校である。サッカーを始めた棗は、野球好きの父親の影響もあり、ソフトボールクラブにも所属する事となる。
「小学校4年ごろに親からはサッカーにするのか、ソフトボールにするのかを選ぶように言われました。親が野球が好きで、ずっとキャッチボールなども付き合ってもらってたんですが、自分の中ではサッカーの方が面白いと思い、小5のころからクラブチームに所属するようになりました」
そうやって選んだ武生FCブルーキッズの練習は、棗が住む集落から一山越えた市街地にある中央公園という場所で行われた。練習のため、複数の保護者が持ち回りで車を出し送り迎えしていたという。サッカーに専念すると決めた棗ではあったが、1週間のすべての曜日で練習があるわけではなかったため、サッカーが休みの曜日に野球や陸上、サッカーを並行して行なっていたという。そうやってほぼ毎日何らかのスポーツと関わる生活が続いた。
武生FCブルーキッズ時代には、6年時に福井県代表として全国小学生大会に出場。残念ながら予選リーグで敗退したというが、全国での経験は得がたいものがあったという。また陸上でもその才能の片鱗を見せており、100mの選手としても福井県大会で優勝し全国大会にも出場している。そんな俊足の棗は、その身体能力を生かしたサッカーが楽しくて仕方なかった。
「小学校時代は基本的にFWでした。ぽんって裏に蹴って、走って決めるというサッカーで、それが本当に楽しかった。そこで勘違いしたというと言い過ぎなんですが、本当に楽しかったです」
中学校入学後も同じクラブチームの中学生年代のチームである武生FC Jr.ユースに所属すると共に小学校時代と同様、通っていた武生第5中学校の部活動にも駆り出された。
「武生FC Jr.ユースでのサッカーが中心だったんですが、中学校では野球、サッカー、陸上を掛け持ちしてました。武生市内でも僕らの中学校は孤立した場所にありましたし、人もいなかったのでやっていました」
そんな多忙な中学校時代を過ごした武生FC Jr.ユースについて「中学校のぼくらの代は県でも優勝するくらいのチームだったんですが、全国大会がかかった決勝とかで負けて悔しい思いをしていました」と話す。立ちはだかったのが丸岡FCだった。
棗が中学校3年の時、全国中学生大会への出場権を掛けて丸岡FCと対戦。その頃の福井県の中学生年代の決勝は、高校選手権の福井県大会決勝の前座として行われており、試合会場には丸岡高校の選手や関係者が居たという。そうした環境にあることを棗自身は理解しており「高校生もいましたし、頑張ろうと思ってやっていました」と振り返っている。結果的に武生FC Jr.ユースは丸岡FCに敗れるのだが、その試合後に見た高校選手権県予選決勝を戦う丸岡高校のサッカーを「いいと思った」という。丸岡高校への進学はそういう意味では必然的なものだったのかもしれない。
丸岡高校は、棗が生まれ育った武生市(現越前市)の実家からは車で2時間弱ほどの場所にあった。もちろん実家から通えるわけもなく、同じような境遇の部員と共に一軒家での共同生活を送る事となる。
「丸岡では洗濯が大変でした。フロンターレでは若手選手が自分で練習着を持ち帰って洗濯してますが洗濯機は室内にありますし、全然マシです。丸岡の頃は洗濯機が屋外にあって冬は雪が降る中での作業になるんです。おまけに泥まみれのジャージを一度水洗いした後でないと洗濯機で洗えないんです。泥が付いたまま洗い洗濯機を壊してしまった事があったので」
冬などは凍えながら洗濯をし、かび臭くなるのが嫌で屋外に干していたという。翌朝、洗濯物はカチコチに凍っているのだが、それを太陽の光で解凍しなければならなかった。
毎日の食事は20時頃に練習が終わった後、帰宅する際にスーパーに立ち寄り、食材を買い込んで自炊。時間がある時は定食屋などにも通っていたという。そんな生活を送っていた棗の贅沢が、週2回ほど通っていた銭湯だった。「家の風呂はひとつしか無くて小さいので、銭湯には週末によく行ってました。人があまりいなくて、おじいちゃんとかしかいませんでしたね。今は廃業してしまったようで残念です」
親元を離れ、自らを律する必要があった丸岡高校時代は、より深いレベルのサッカーを教えてもらえたという意味でも意義深いものだった。
「サッカーの奥深い知識は高校時代に聞きました。それでサッカーにちょっとずつのめり込んで行ったんです。難しかったですが、実践的でした。ピッチ上で、総監督の小阪清吉先生にマン・ツー・マンで教えてもらいました」
身体能力だけでプレーしていた棗がサッカーの難しさを覚え、サッカーを深く理解したのが丸岡高校時代の経験だとすれば、駒澤大学では、前述のとおり走ることを通してメンタルを鍛える場となった。
小阪総監督の薦めもあり、駒澤大学に行く方向では考えていたという。ただ、進学の参考にと見た、第53回全日本大学サッカー選手権、いわゆるインカレの決勝戦のDVDに衝撃を受けた。
「DVD見て、ものすごく早いなと思いました。また、プレスとかも凄まじくて、サッカーのレベルが全然高校とは違うんです。こんなに走るんだなと思いました」
DVDで見た走力は、日々の猛烈な練習によって培われたものだった。入部してすぐに高校時代との練習量の違いを痛感した棗は、練習に付いて行くのがやっとの状態。大学に入学してからもプロサッカー選手になれるとは思っていなかったという。そんな棗がフロンターレに誘われたのが、4年生になった総理大臣杯の頃で、ここからプロサッカー選手という進路を意識しはじめる。ただ、いざ入ってみたフロンターレでの経験は簡単なものではなかったと話す。
「いろんなサッカーがある中で大学とはまたレベルも違いますし、本当にプロやなと感じた1年目でした。相馬監督(当時)のサッカーについて、頭ではわかっていたんですが、それをグランドでなかなか表現できなくて。本当に早く習得したいなと思っていました」
そんな棗にとって、プロデビューの舞台は思いのほか早くに訪れる。東日本大震災での中断開け初戦となる4月23日の仙台戦でのことだった。試合終盤の時間のない状況の中、ファール覚悟で相手選手のボールを奪いに行った。
「がーんと行ったって。でもノーファールでした。相手ベンチからは相当言われましたが、自分の中では『関係ないよ』って思いました」
今でも記憶に残る気合のこもったプレーではあったが、点を取りに行くという役割を果たす事はできず。また試合の方も逆転負けとなる。結局プロ1年目は、この仙台戦を含めた3試合、合計9分の出場にとどまった。
「毎日黙々とやっていて、出番の無さを考える暇はなかったんですが、あっさり1年が過ぎた感じです。出てないなら出てないで、役割はある。たとえば声を出してチームを盛り上げることとか。そういうことであってもやれる事はありますし必要だと思っています」
そんな1年目を終えたシーズンオフに栃木からのオファーを伝え聞く。
「栃木の方から話が来てる、と聞かされて、いろんな人の意見を聞いて、最後は自分で決断して行こうと思いました」
栃木では松田浩監督から前線からの守備を期待されてそれを実行。34試合に出場し、1ゴールを決めている。「FWとして守備をやり続けることで、それがひとつの評価として見られていましたし、そこで試合にからませてもらって感謝してます。いい、充実した1年だったと思います」。誤算があるとすればすねに痛みが出るシンスプリントが発症し、合わせて腸脛靭帯を痛めてしまったこと。そのためシーズン終盤は満足に出場する事ができなかった。
栃木での1年を終え、今季の去就をどうするのか。フロンターレの強化担当者と面談した際、棗はもう一度フロンターレで勝負したいとの思いを伝える。面談をした庄子春男GMはその時の様子をこう振り返る。
「もう一度、フロンターレで勝負したいと。ただ、こちらからは前線は補強してて大変だぞということは言いました。また、他チームからのオファーが来ていることも伝えました。ただ、普段は口数の少ない棗が『ここで勝負したい』ということを自ら言って、それが印象に残ってます。覚悟を感じましたし、気持ちが伝わって来ました」
そうした話し合いの中で、ディフェンダーへの転向が話題に上り、スピードとスタミナとを兼ね備えたその特徴を活かす方向で話がまとまった。このコンバートに際し、棗は駒澤大学の憧れの先輩の姿が念頭にあったという。
「巻佑樹さんの影響はありますね。あの人のこと、見てますね」と話す巻という選手は、DFとして駒澤大学に入学後、FWに転向。卒業後に名古屋グランパスに加入するが、キャリア半ばでDFへと再転向。昨季の年末に現役を引退した選手だ。そんな巻の経歴を参考にしつつ「今、ディフェンスで使ってもらってるのはありがたいです。プロでディフェンスでやらせてもらえるってそんな簡単じゃないと思いますし」と棗は話している。
ちなみに風間八宏監督の下での公式戦初出場は、4月24日に行われたナビスコカップの甲府戦。起用された時のポジションはFWだった。「勝ってる状況で、DFと競り合いで勝ったら時間を使えるし、という感じでぼくは入ってました。点は取りたかったですが、使ってもらって本当に感謝してます」と試合を振り返る。
風間監督の下、試合出場を目指す棗は日々ディフェンスとしての能力を磨いているが、そんな棗に対しチームメイトが一目置く能力がある。ヘディングの強さである。
「ヘディングでは負ける気がしません。特に相手GKからのキックでは絶対に負ける気がしないです。そこは自信を持ってやってます。って少々強がっているんですが、それくらい気持ちを持ってここだけは絶対に負けないと思ってやっています」
多少の謙遜を含みつつ、自らのプレーを説明する棗だが、チームメイトの棗のヘディングへの評価は高い。紅白戦で組むことの多い高木駿は「ヘディングは相当強いですね。足も早いので、裏のカバーは任せられます。キャンプの時に比べるとうまくなってます」と前向き。最終ラインでコンビを組む事の多い福森晃斗は「身体能力が高いんですよね。ヘディングはチームで1、2を争う高さだと思います。この環境でやれているのはスゴいと思います」と舌を巻いていた。
もちろんプロとして何年もディフェンダーのポジションを張ってきた選手がいる中で、棗がここからポジションを奪うのは簡単ではない。ただ、そこは持ち前の真面目さと、何にでも打ち込める心の強さでカバーするはず。シーズンが進む中で、累積警告や不測の事態に見舞われ守備陣が手薄になることもあるだろう。そうしたいざという場面のために、とにかく準備だけは怠らないようにしている。
新体制発表会見に招待した家族にホテルを取ったという棗は、サッカーに打ち込む環境を与えてくれた両親に感謝しているという。だからこそ、そう多くはない両親の上京時には食事をごちそうしたいという。ただ、両親は「いらんいらん。そんなに気を使わなくていいよ」とその申し出を断るのだという。そんな言葉に引き下がる棗自身ではあるが本心では「めったに会えないですし、食事は食べさせてあげたいんですよね」と思っている。棗が考える親孝行が両親との会食なのだとすれば、棗の両親が望む親孝行は、公式戦のピッチ上でチームの力になる、という事なのかもしれない。絶対にクサることのない選手である。持ち前の高さ、強さを活かしチームの力になる日が来るはず。そして、チームの勝利に貢献し、そのプレーでご両親を喜ばせてほしいと思う。
栃木SCへの期限付き移籍からフロンターレに復帰。高い身体能力と空中戦の強さ、そしてしぶとくボールに食らいつく全力プレーがウリのFW。昨シーズンはJ2でもまれながら実戦経験を積んだ。強力な点取り屋が揃うFW陣の中で、自分にしかない泥臭さを発揮してもらいたい。
1988年11月18日/福井県
武生市生まれ
184cm/76kg
ニックネーム:ナツ、なつめ