MF14/中村憲剛選手
テキスト/羽田智之(報知新聞社) 写真:大堀 優(オフィシャル)
text by Haneda,Tomoyuki photo by Ohori,Suguru (Official)
2014年12月6日、Jリーグディビジョン1第34節が午後3時30分に同時キックオフされた時、
中村憲剛は川崎市内の病院に入院していた。2003年に川崎フロンターレに入団してから、最終節をスタジアム以外の場所で迎えるのは初めてだった。
タブレットのJリーグオンデマンドで神戸と戦うチームを応援し、5試合ぶりの勝利を見届けた。
その時、病室のテレビはガンバ大阪が優勝した場面を流していた。
ただただ悔しかった。サッカーができない自分に対して悔しかった。
プロに入ってからシーズンの終盤は必ず試合に出ていたし休んだことがなかったので、病室にいることに違和感しか感じなかった。
2004年の鳥栖戦(2004年11月27日、〇3-0、鳥栖)は累積警告で出られなかったけど、それ以降の最終戦は常に出てきた。
「なんで、ここにいるんだろう」。みんなが頑張っている姿を見ていたら、そんなことがふと頭によぎったりして、今まで当たり前のようにやってきたことがやれていないモヤモヤ感はすごくあった。それはまだ解消できていないし、忘れられないと思う。むしろ、この悔しさは忘れちゃいけない。
2014年は史上最高の1年になる予感があった。プレーもいっぱいして充実していたし、サッカーが楽しくて、ボランチとして人を剥がす醍醐味を味わったし、結果もついてきた。フロンターレの評価も高くなって、そういう意味でも手応えをすごく感じていた。もし怪我がなかったらと考えたりして余計に悔しくなった。
憲剛は12月2日に入院して4日に手術を受けた。
左足関節骨棘障害。左足首の骨に棘ができ、それが骨や神経などに当たると腫れや痛みを引き起こす。手術は棘を削って骨をきれいにするもので約2時間を要した。2010年2月25日に骨折した下あごの整復手術を受けているものの、足の手術は初めて経験した。左足首の負傷で半年苦しんだ。
そのきっかけになったのは4月22日のアジアチャンピオンズリーグ(ACL)蔚山現代戦(〇3-1、等々力)だった。後半25分、自陣深くの左サイドで相手のクロスに左足を投げ出した際、力が入ってない左足首にボールがヒットして負傷した。その衝撃で骨に異変が生じた可能性がある。足首の痛みだけでなく、それに伴う怪我にも悩まされた。
普通に走っているとズキンとくるようになってしまった。そうなると足首が腫れて左足首の動きが悪くなる。動きが悪くなると、ふくらはぎ、太もも裏、腰なんかに負担がかかってしまう。特にふくらはぎを痛めると踏ん張れなくなる。そんな状態がずっと続いた。中断で少し休んだから回復したけど、8月末からまた痛みが出始めて全体練習に加わることができず別メニューも増えた。試合だけ出るということもあったからコンディションもなかなか上がらなかった。
仙台戦(9月27日・第26節、△1-1、等々力)のアップで腱が痛くなった時は「ダメかも」と思ったけどなんとかやった。次の新潟戦(10月5日・第27節、●0-3、デンカS)はひどかった。動けない、蹴れない、イメージと違う。自分にイライラして味方に当たったりして。精神状態は最悪だった。家庭にも普段は持ち込まないんだけど、イライラを持ち込んでしまい、ちょっとしたことで怒りっぽくなっていた。
チームメートや家族には本当に申し訳なかった。しっかり休むべきだったのかもしれないけど、優勝したかったし、その可能性もあった。サッカーへの手応えもあった。優勝争いするなか、足が悪くなりパフォーマンスも落ちた。だましだましで、やっては休みやっては休みを繰り返していた。試合に出ないといけないと思ってプレーしていたけど、いない方がいいんじゃないかとも考えたりした。その葛藤がすごくあって、心身ともにいい状態ではなかったと思う。さらに、清水戦(11月2日・第31節、●2-3、等々力)で逆の足を痛めた。この右足首の捻挫が予想以上にひどかった。3週間の中断で右足を治して鹿島戦(11月22日・第32節、●1-2、カシマ)で復帰したかったけど無理で、ホーム最終戦の広島戦(11月29日・第33節、△1-1、等々力)も練習に合流して判断する予定だったけどとても合流できるレベルにならなかった。
ボールを蹴ったらイメージの半分ぐらいの距離しか飛ばなかった。踏ん張ることもできないし2014年はもうプレーできないとあきらめるしかなかった。2015年シーズンの開幕に間に合わせるためにも手術のタイミングは迫っていたから決断しないといけなかった。もちろん手術しない選択肢もあったけど、先生からは棘が神経に当たらない可能性より、はるかに当たる可能性の方が高いと言われた。34年間足にメスを入れたことなかったからメスは嫌で。自分勝手な思い込みだけど感覚が変わったりしそうな気がして。先生から内視鏡でやれそうと聞いてすごく気が楽になった。
2014年シーズン、川崎フロンターレは2月26日、4季ぶりに出場したアジアチャンピオンズリーグ・貴州人和戦(〇1-0、等々力)から始まった。続く、3月2日のJリーグディビジョン1の開幕節・神戸戦(△2-2、等々力)を引き分け、同8日の第2節・広島戦(●1-2、Eスタ)、同12日のACL蔚山現代戦(●0-2、蔚山)、同15日の第3節・大宮戦(●3-4、等々力)、同19日のACLウエスタン・シドニー戦(●0-1、パラマッタ)と、公式戦4連敗を喫した。そして、同23日の第4節・FC東京戦(〇4-0、味スタ)で、憲剛と大島僚太が初めてダブルボランチを組み、リーグ戦初勝利をあげた。
序盤はあまり良くなった。大宮戦の後に選手だけでミーティングをして、このままじゃいけないと確認し合った。もっとユニット(集団、組織)、チームで戦わないといけないと。それまでは一体感がないというか前と後ろが連動していなかった。前が出て行っても後ろがついてこない。逆に後ろが守備ラインを整えても前が戻れてないとか。個々はすごく頑張っているのに、そのパワーがユニットにチームに結びついていなかった。
攻めは後ろからだし守りは前からだから、みんなでサッカーをやろうよと話した。洋平はじめベテランがうまくやるとか技術はすごく大事だけど球際の激しさとか戦う気持ちをもっと出そうって話した。ウエスタン・シドニーには負けたけど、みんなの共通理解は見えたし、後半から出てこれまでとは違うなと変化を実感した。
そしてFC東京戦。この試合はターニングポイントになったと思う。(ワールドカップ)中断までのチームのかたちが決まった。僚太と初めてダブルボランチを組んで、賢太郎が右の前に入り、彰悟が左サイドバックでデビューした。4-4-2。オーストラリアからの移動を含めた中3日で紅白戦もほとんど出来ずにぶっつけ本番だったけど、ダブルボランチは違和感なくやれた。蔚山現代戦や大宮戦でも僚太は右の前で出ていたけどボランチの横までおりてきていたし、2人の関係は何の問題もなかった。守備もやりつつボールも持てるしカウンターもはまるというサッカーがFC東京戦でやれてすごく自信になった。
FC東京戦からワールドカップ中断前最後となる5月18日の第14節・横浜F・マリノス戦(●0-3、等々力)まで、リーグとACLの併せて15試合を10勝2分け3敗で駆け抜けた。2月26日の貴州人和戦から数えると、82日間で21試合を消化した。疲労と負傷がチームを襲い、小林悠、レナト、大島ら主力が怪我で離脱する試合もあった。憲剛も4月22日の蔚山現代戦で、後々まで苦しみ、手術するきっかけにもなった負傷をおった。ACLはラウンド16でFCソウルと2戦合計4-4となったが、アウェーゴールの差により、8強入りを逃した。
いろいろな組み合わせでなんとかしのいでいた感じだった。中国から帰ってきて、悠とレナトと僚太が一気に戻ったけど浦和(4月19日・第8節、●0-1、埼玉)に負けてしまった。このあたりは総力戦だったなあ。もうはるか昔のことのように思える。マリノス戦が終わった時は1年が終わったぐらいの感覚だった。それほどたくさん試合をした。
風間さんが監督になってから初めてACLに出たけどアジアで戦える自信もあったしね。ウエスタン・シドニーが優勝したんだから優勝も狙えたはず。今思えば、FCソウルとの第1戦(5月7日、●2-3、等々力)が痛かった。これを勝っていれば違っていたかも知れない。第2戦(5月14日、〇2-1、ソウル)との間に鹿島戦(5月10日・第13節、〇4-1、等々力)があるのも大変だった。リーグ戦はもちろん大事だったし、マリノス戦も含めたこの中断前最後の4連戦は一番きつかった。ACLに出たら連戦は宿命だけど疲労はピークに達していた。
激動の日々を送っているなか5月12日を迎える。FIFAワールドカップ・ブラジル大会に臨む日本代表23人が午後2時から発表された。憲剛は羽田空港の駐車場に停車したチームバスの中でチームメートと共にテレビ画面を見ていた。5月14日のFCソウル戦(〇2-1、ソウル)への遠征途中だった。川島、西川、権田…。ザッケローニ監督がゴールキーパーから読み上げていく。中盤に入った。遠藤、長谷部、青山、山口、大久保…。憲剛の名前が呼ばれることはなかった。2010年南アフリカ大会、初戦のカメルーン戦(2010年6月14日、〇1-0、ブルームフォンテーン)で、本田圭佑が先制点を決めた時、憲剛が言った「決めたら、こっちに来いよ」という約束を守り、ベンチに駆け寄ってチーム全員で喜び合った。ピッチ内外で代表チームに貢献することも出来たはずだが、それは叶わなかった。
この年は、この日(5月12日)に向けてメディアをはじめ日本全体が代表一色になっていた。
誰がブラジルに行くのか。大枠は決まっているから、あと数枠に誰が入るのか。フロンターレでいうと、嘉人だったり、俺だったり、悠だったり。そういう雰囲気のなかでやってきていた。あの日までは、メンバーに入ればもちろん嬉しいし、入らなければ仕方ないし、それはそれでいいかなとも思っていた。
でも違った。発表は年齢順だったはず。青山選手が呼ばれた時点で終わったなと思った。ワールドカップは終わってしまったなと。そしたら、山口選手の次にすぐ嘉人が呼ばれてバスの後ろの方がわーっと沸いたんだよね。俺は前の方に座っていた。その時はマジで嬉しかった。嘉人が入った!って。ただ、正直どんな顔をすればいいのか分からなかった。自分自身すごく悔しかったけど、すごく祝福したいという気持ちがあった。いつものように俺の後ろに悠が座っていて、俺の両肩をぱんぱんと叩いたんだよね。あいつなりに励ましてくれたんだと思う。うなずくしかなかった。
その後は取材とかも受けたけどあまり覚えてない。搭乗ロビーで奥さんに連絡したのは記憶にあるけど、何を話したかな。周囲には誰もいなかったと思う。周りもなんて声をかけていいか分からないもんね。メールとか来たものには返事したけど抜け殻みたいだった。でも、よく考えたら1年間代表には呼ばれていない選手だから、呼ばれないのは当然といえば当然なんだけど。ただ、最後の方は周囲の期待もすごく感じていたし。ホテルに着いて部屋に入ったぐらいから記憶があるんだよね。1人になって。その時は何もやる気が起きなかった。なんで韓国に来たのかなとか考えたりして。FCソウルと試合するのは分かっていたけど実感がなかった。奥さんには出来ないって言ったと思う。そしたら、気持ちは分かるけどそれとこれとは別だからやりなさい、と言われた。
時間が経つにつれて、この4年間はワールドカップを目指してやってきたんだなと。こんなに喪失感があるとは想像していなかった。その日は部屋にいて、次の日練習でボールを蹴ったら、不思議だけど、その瞬間はそういうの一切忘れていた。ボール回しとかやっていると楽しくてサッカーって楽しいなぁ、いいなぁって。試合会場に行ったり、誰かと話したり、ご飯食べたりして、咀嚼(そしゃく)するじゃないけど落ち着いてきて。それで正直な気持ちをブログに書いた。じゃないと試合に向かえなかった。
もちろん今でもブラジルに行きたかったと思っている。ベンチでもやれることはあった。スタメンで出たいけど、もともとあの代表ではスタメンで出たことはほとんど無かったし、若い選手だけでは絶対に戦えないと思っていた。前回大会を経験して、うまくいったチームを知っている。サッカーでも、途中から出ても仕事が出来る自信はあった。それこそ嘉人といいコンビネーションを出せると思っていた。2010年より成長したし成熟した。いろんな意味でパワーアップして臨める機会だと思っていた。日本の力になりたかったというのが正直な気持ちです。
ワールドカップのメンバー発表後、最初の試合となった5月18日の横浜F・マリノス戦、スタンドには「GO KENGO」という大段幕が掲げられた。
アップ中だったから涙を見せるわけにはいかなかったけど、一瞬目が潤み風景がぼやけた。出場する嘉人より先に(大段幕が)出るなんて。ありがたかった。声援の音量もすごかった。頑張れと心の底から言ってくれているようだった。みんな同じように悔しがってくれて。サポーター、みんなの声と気持ちが等々力に充満していた。それだけにその試合で負けたのは本当に悔しかった。ソウルに負けた後でもあったし。けれど、あの段幕には本当に感謝しています。感謝してもしきれないです。
7月にJリーグディビジョン1がワールドカップの中断から再開すると、川崎フロンターレは好調な滑り出しを切った。
7月12日の天皇杯2回戦・Y.S.C.C.戦(〇2-1、等々力)を勝ち、同15日の第12節・セレッソ大阪戦(〇2-1、金鳥スタ、※ACLのため、中断前に未消化だった試合)から27日の第17節・新潟戦(〇1-0、等々力)までリーグ戦4連勝を記録する。
憲剛の左足首は中断期間にケアしたことでコンディションも悪くなかった。しかし、そう長続きはしなかった。8月16日の第20節・セレッソ大阪戦(〇5-4、等々力)では、1得点するもテーピングを巻いた左足首の痛みは増してきていた。そこから万全な状態で臨める試合はなく、最終的には右足首も捻挫した。終盤3試合はメンバーからも外れ手術に至った。チームは8月9日の第19節・浦和戦(〇2-1、等々力)、第20節・セレッソ大阪戦の2連勝を最後に、その後連勝することはなかった。ヤマザキナビスコカップも準決勝でガンバ大阪に敗れた。アジア大会に出場した大島の離脱、レナトや小林の負傷、大久保の出場停止などもあったが、司令塔でありキャプテンを務める憲剛のコンディションが結果に大きく影響した。
3連敗して迎えたホーム最終戦。11月29日の第33節・広島戦(△1-1、等々力)の後、キャプテンとしてあいさつに立った。
自分が出ていない試合の後だったから、正直なんて言っていいか分からなかった。あの試合は良くも悪くも後半戦のフロンターレを象徴していた。前半は良かったけど、後半は息切れして失点してしまった。2014年はサッカーがすごく楽しく充実していた時期があった。それは自分だけじゃなくチームも。
7月はボールを握ってパスを回すことで相手を走らせ、後半にとどめを刺すというスタイルを見せられた。内容と結果が伴い等々力のチケットも完売が続いてサポーターと一緒に盛り上がれた。うまく回っていたから、そこからの落差が激しかった。自分も怪我をしてしまい調子を落とした。1年間続けられなかったことにすごく責任を感じた。自分1人でサッカーをやっているわけではないけど、自分のせいだと思っている。だから最後サポーターの皆さんに謝ろうと思っていた。でも、個人の話をする場所でもないしどうしようかと考えていた。
あの試合の観衆は1万5468人。雨だったこともあるだろうけど、やはり数字に表れるということを実感した。それでも雨の中来てくれた人がいる。セレモニーが始まる時にピッチを横断しながら等々力の景色を見たら寂しくて申し訳なくて。何を話そうかと考えていたけど、思ったことを素直に話そうと。自分の話はしないでおこうと思った。あれ以上べらべら話したら言い訳になるし。1年間サポートしてくれた感謝しかなかった。手応えを感じつつも、このままじゃいけないというシーズンだった。
憲剛にとっては初めて経験するシーズンでもあった。「二人で一人前」。そう冗談交じりに言っていた相棒の伊藤宏樹が2013年限りで引退した。
入団した時から当たり前のようにいた。あの人の隣で好き勝手やらせてもらって、宏樹さんがフォローしてくれていた。34歳になる年にして独り立ちという感じ。
成長して肩を並べるようになったかなと思っていたけど、まだまだだった。宏樹さんがいなくなって、チームをまとめる大変さをしみじみ感じた。いろんなことを宏樹さんがやってくれていたんだろうなと。若手とのコミュニケーションもそう。すごく考えたし、今も考えている。フロンターレの若手は優しいヤツが多いというか熱量が少ないような気がする。今どきなのかな。みんな内には秘めているんだろうけど、嘉人みたいに面と向かってくるような気迫は感じない。俺とか嘉人とかが何かを言って若手がしゅんとするのはやっぱり良くないと思う。言い返すぐらいであって欲しいし自分の意見をもっと言ってきて欲しい。
自分は若い頃から思っていることは言ってきた。相馬さん、宏樹さん、ジュニーニョ、マルクスとかに。当時はそれが普通だった。テセは俺にはあまり言ってこなかったけど(笑) 他の選手には言っていたと思う。田坂は俺に言い過ぎだったけどね(笑)。悠は一昨年あたりから言うようになった。パスを出すのが遅いとか、要求してくるようになった。もちろん言い合いになる時もあるけど、それは試合に勝ちたいから。だから言う。後悔したくないし。
今の20代前半とか半ばぐらいの選手はおとなしい。だから、やる時も淡々、やられる時も淡々になるのかも。クールなスタイルは全然いいんだけど、抗(あらが)うとかっていう気持ちも出していいと思う。負けたけど気持ちが見えた試合が少ないよね。負け方があまりにも淡々としていて、それはキャプテンの責任もあるし反省している。彰悟や僚太には、絶対やられないという気迫が全面に出ている選手の方が相手にするのは嫌だよという話をしている。
試合で相手を見た時にこいつ嫌だなと思う選手がいる。昔は今より多かった気がする。みんな責任感はあると思うけど、もっと出して欲しい。俺が勝たせる、俺が決める、俺が守る、俺がゲームを作る、俺が抜く、俺がやらせない、みたいなね。ガンバの宇佐美選手は、俺が得点してガンバを優勝させると、あの年齢で堂々と言っていた。それがチームを引き上げるパワーになると思う。
俺が入団した時は個人としてもチームとしてもはい上がっていく時代だった。観客は3,000人ぐらい(2003年4月9日、J2第5節・山形戦でプロ初得点を記録した時、等々力の観衆は3,658人だった)。チーム、クラブ、サポーター、みんなでここまで作ってきた。J2時代を知っている選手はもう俺だけになった。若手は観客が入るフロンターレしか知らない。あの時がこうだったから今こうしろとか、過去を押しつけるのはあんまり良くないのかもしれないけど、みんなで作ってきた歴史は継承していかないといけないし必要なことは言っていくつもり。
悠をはじめ、賢太郎、ノボリ、彰悟、僚太とか若手はみんな頑張っていると思うから、そこにそれぞれが「自分がフロンターレを引っ張って強くする」という気持ちをもっと持って欲しいし、もっと突き抜けて欲しい。それによってベテランもさらに刺激される。俺も成長しないといけない。
憲剛は2014年12月9日に退院した。約1週間の入院期間中、意識的にたくさん食べ、運動しないと減る傾向にある体重を68.4キロと2キロほど増やした。リハビリも手術した翌日の5日午後から始めて順調に進んでいる。
手術はリラックスして臨めた。術後に全身麻酔から覚めると、ぼっーとしていたけど問題もなくて足も痛くなかった。先生から「骨を削るから、骨から出血もするし、腫れるし、めっちゃ痛いよ」と言われていたから覚悟はしていたけど腫れもなかった。「本当に手術したんですか?」と尋ねたぐらい。左足首に多少の違和感はあったけど1日2日でなくなった。
手術翌日から足首周りも動かしているし、リハビリの先生からは「いいね。熱感もないね」と褒められている。ただ、今は順調だけど今後どうなるか分からない。リハビリが進み、走ったり、ボールを蹴ったりするようになった時、最初は痛みが出るとも聞いているしね。全く痛くなかった時のように戻れるのかという不安もある。でも長くプレーするために判断したことだから後悔はしてない。一喜一憂するかもしれないけどうまくつきあっていきたい。今年ほかの怪我はあってもこの怪我はないはず。焦らず無理せず、しっかりした状態で戻りたい。1年間プレーしないといけないから。
すべては2015年のために。プロ入り13年目、憲剛は再起をかけるシーズンを迎える。
秋に苦しんだ経験を新しいシーズンの糧にしないといけない。自分をコントロールして沸点を低くせず保つ。例えば痛みによって60%しか出力できなくても、その中で出せるベストなプレーをしないといけないし、周囲の力を100%、90%引きさせるように考えないといけない。元来、試合中は直情型というか感情の起伏は激しいタイプだし、実はキャプテン向きではないのかもしれない。これまでは頭を冷やしてくれる人がいたけど、もう宏樹さんはいない。カッカするとプレーは荒れるしパスもずれる。2014年に一度経験したから、これからは自分で自分をよりコントロールしていかないと。心にゆとりというか余白を作っておかないとおいけない。
今年35歳。幸い、1つ上、2つ上の先輩が他のチームで頑張っている。下り坂と見られることに抗ってバリバリやるけど、チームを落ち着かせるという意味では大人にならないといけない。毎年毎年、優勝への思いは募っていく。優勝したいと思ってここまで来てしまった。13年間同じチームにいられるなんてすごく幸せなことだし、年々思い入れは増していく。サポーターの方でルーキーの時から見てくれている人もいる。憲剛に優勝させたいと言ってくれる人もいる。その思いに応えたい。苦しんだ分その気持ちはさらに強くなった。
みんなで優勝したい。そのために手術をしたんだ。今年こそ必ず。
フロンターレの攻撃的なチームカラーを司る中盤の大黒柱。これまでボランチでゲームを作る役割を担うことが多かったが、近年ではよりゴールに近い位置でフィニッシュに絡むプレーも身につけた。今年でプロ入り13年目のシーズンを迎えるが、あくなき向上心はとどまることを知らない。
1980年10月31日、東京都
小平市生まれ
ニックネーム:ケンゴ