FW9/杉本健勇選手
テキスト/いしかわごう 写真:大堀 優(オフィシャル)
text by Ishikawa,Gou photo by Ohori,Suguru (Official)
187cmという恵まれた体躯。各年代別の日本代表にも選出され、U-17W杯やロンドン五輪で世界も経験した。
なにより22歳という若さがある。誰もが期待したくなる逸材・杉本健勇のルーツと内に秘める情熱に迫った。
「仮定法」と呼ばれる、現在の事実ではないことや実現不可能な願望を表現する際に用いる英語の文法の例文として、有名な一節だ。実際には私は鳥ではないし、どれだけ強く願っても私は鳥にはなれない。当たり前だが、人は自分の以外の”誰か”になることができないのである。
「もし俺が健勇だったら」
今年、練習後の取材で大久保嘉人がそんな風に仮定して、その期待を話してくれたことがある。もちろん、そこには「もっとやれるはず」という意味が込められている。170cm、33歳のJリーグ2年連続得点王が羨むだけのポテンシャルを杉本健勇は持っているのだ。
その期待から、大久保が苦言を呈することも日常茶飯事だ。例えばファーストステージ第13節のサガン鳥栖戦の試合後。この試合で杉本は自身初となる1試合2ゴールを挙げて勝利に貢献したが、大久保は彼の足りない部分を遠慮なく指摘した。
「健勇にはずっと言っている。もっと身体を張らないとダメだって。今日はたまたま点が取れたのは良かったけど、これからそれができればフロンターレはもっと点が取れる。逆に、それができなければ点は取れないから」
杉本健勇のポテンシャルに期待しているのは、チームメートだけではない。
例えば、今年9月に行われた2018年ワールドカップのアジア2次予選に向けた日本代表メンバー発表でのこと。選出しなかったFWについて、ヴァヒド・ハリルホジッチ監督がこんな風に語る一幕があった。
「このリストには入っていないが、3〜4人のクオリティが高い選手がいます。そしてもっともっと有能なFWが必要です。例えばスギモト。杉本もかなりの能力があると思います。フィジカルもあって空中戦にも強くて、効果的なプレーができるのではないかな、と。テクニックのクオリティも高いですし。ただ、このリストに入るにはもっともっとやってほしいと思っています」
移籍後初ゴールを決めたアルビレックス新潟戦をハリルホジッチ監督が視察に来ていたことがきっかけで、5月の代表短期合宿に呼ばれていた。それを差し引いても、日本代表の監督が名指しで奮起を促すのだから、よほど目にかけている存在なのだとわかる。
そう、彼は期待される男なのである。
もっといえば、まわりが期待したくなるような存在なのだ。まわりから期待されるような人生を歩んでこなかった自分にはわからない感覚だが、これはこれで大変に違いない。一体、当の本人はどんな気持ちなのだろうか。
「まわりから期待されているのは感じています。自分としては嬉しいですよ。でもまだその期待に応えきれていないですから…今は『みとけよ』という気持ちでやってます」
杉本は理想とするストライカーにはズラタン・イブラヒモヴィッチの名前を挙げている。ただズラタンや大久保嘉人のように、歯に衣着せぬ発言でメディアを騒がせることはしないストライカーだ。あくまで闘志を内に秘めて燃やすタイプである。
「特に理由はないですけど、大々的には言いたくないんですね。自信がないわけじゃないし、強気なコメントをするのが恥ずかしいというわけではないですけど、ちょっとスカす感じが好きなんです。ええかっこしいやから」
そう言って、穏やかに笑った。
杉本健勇が生まれ育ったのは大阪府大阪市生野区だ。自身のブログタイトルは「生野魂」。地元に対する思い入れはすこぶる強い。
小さい頃から運動神経は抜群。背も高い活発な少年に両親はやりたいことを何でもやらせてくれた。バレーボール、空手、水泳、そろばん…と、スポーツから習い事まで幅広くやっていたやんちゃ坊主は、小学4年生のときに大怪我をする。
マンションで遊んでいたら、不注意で3階から落下し、右腕を80針も縫う大怪我を負ったのである。その傷跡は、いまだに残っているほどだ。この一ヶ月ほどの入院で、杉本少年はブクブクと太ってしまった。このままだと相撲取りへの道まっしぐらになってしまうことに危機感を覚えた彼は、退院後に野球かサッカーをすることを決断する。野球か、サッカーか。日本の少年にとっては、ごく自然な二択だ。
「最初は野球をやろうと思っていたんですよ。まわりの友達がみんな野球をしていたので、自分も野球をするつもりだった。たまたま従兄弟から電話がかかってきて、『サッカーしよう』と言われた。それでやってみたら楽しかったんですよね。そこからはサッカーです」
夢中になって毎日サッカーを楽しんだ。高学年になると、FC ルイ ラモス ヴェジットという地元のチームに入る。その名の通り、ラモス瑠偉氏が立ち上げた少年団だが、ここが杉本にとってサッカー人生の原点とも言える場所になった。
監督である金尚益さんの指導はとにかく厳しく、とことん怒られた。そのうち、サッカー自体が嫌になって、仮病をよそおい練習を休もうとしたこともあった。だが母親にお願いして休みの電話を入れてもらっても、金監督には「ダメです。一回、連れてきてください」と見抜かれ、強制的に連れてこられていた。本当に体調が悪くても、おかまいなしだった。
「でも、そこで鍛えられたんですよね。金さんじゃなかったら、楽しくサッカーをしてるだけだった。あの人じゃなかったらサッカーをやめていたし、プロにもなっていない。金さんと出会ったことが自分の人生の転機になったと思ってます。ホンマに感謝しています」
そんな環境の中、朝から晩までサッカーに明け暮れると、少しずつうまくなっていた。中学に上がるときには、ガンバ大阪のジュニアユースに入りたいと強く願った。トップチームがとにかく強かったこと、さらに2002年の日韓ワールドカップで活躍した稲本潤一がガンバユース出身だったからである。しかしガンバのテストを受けたい意思を伝えたとき、金監督から返ってきたのは、「お前はセレッソにいけ!」という無情とも言える返事だった。
「ガンバにいきたいのに…」と思いつつも、金監督の言うことは”絶対”である。「わかりました」と二つ返事でテストを受けに行き、その結果、セレッソ大阪のジュニアユースに在籍することになった。それに伴い、今度はセレッソ大阪に所属していた大久保嘉人のファンになったというのが、なんとも少年らしいエピソードだ。ジーコジャパンにも選出され、負けん気の強いエースストライカーの荒れたプレーは杉本少年の憧れになった。
中学に入ると、杉本は各年代の代表合宿に呼ばれ、メキメキと頭角を現していく。ただ当時の自分については、「デカいだけで、めちゃくちゃ下手でしたよ」と振り返る。
例えば、中学一年生のときに初めて呼ばれたジュニアユース代表合宿は、今でも忘れられない。宇佐美貴史、宮市亮、高木善朗といった有名な顔ぶれがそろっていた。まわりは選抜やナショナルトレセンなどで顔なじみのようだったが、杉本はトレセンにも選ばれたことのない選手だった。彼らに混じって練習をやってみると、周囲のあまりのレベルの高さに目を丸くした。
「衝撃でしたね。『なんやこいつら?』と思いました。あれは忘れもしないですよ。正直、かなわんな…と思ったし、同時に『こいつらにどうやったら勝てるんやろ?』とも思いました」
ただそこでやる気を失わず、彼はその悔しさを自分に向けた。チームに帰ってからは、ひたすら練習に明け暮れ、特に足元の技術を徹底的に磨いた。そして代表に選ばれたら、またそこで刺激を受けてチームに戻って練習に励んでいく。この繰り返しによって、自分を高め続け、先頭集団である彼らとの差を徐々に詰めていったのだ。
杉本が育ったセレッソ大阪は、育成組織の優秀さに定評があるクラブである。上の年代には、柿谷曜一朗、山口螢、扇原貴宏がいる。下の代には南野拓実。これだけのタレントが輩出され続けている詳細は省くが、下部組織が強くなっていったのも、ちょうどこのへんの年代からである。「自分たちの年代でガンバに勝ったときは、セレッソにいってよかったと思いましたね」。杉本が高校2年時にはクラブユース選手権で優勝を果たし、大会MVPに選出。2009年にはFIFA U-17ワールドカップに出場を果たしている。
セレッソ大阪では、トップチームの練習場の隣にジュニアユースの練習場がある環境になっている。トップは身近だが、両者を仕切る網を隔てて、そこには高い壁が存在しているのだ。下部組織の選手たちは、その網の向こう側に足を踏み入れることを夢見るのだが、その壁を越えることができる者は、ほんのわずかである。しかし杉本は、自分がプロになれないなんて微塵も思わなかったという。
「僕は『プロになりたい』というよりは、なれるもんやと思っていたんですよ。絶対になれると思っていた。なれなかったらどうしよう…とも思わなかった。なんでかは、わからないんですね。なりたいというより、なれるやろ、でした。そして実際になれた。もちろん、プロになったときはうれしかったです」
2010年には、トップチームとプロ契約を結んだ。
当時のセレッソ大阪は、まさに上昇気流の真っ只中といった時期で、レヴィー・クルピ監督の元、前線には清武弘嗣、乾貴士、家長昭博、アドリアーノなど豊富なタレントがそろい、攻撃的なサッカーを展開していた。2010年シーズンの公式戦出場はなかったが、翌2011年にはリーグ戦15試合に出場し2得点。2012年には、出場機会を求めてJ2の東京ヴェルディに期限付き移籍をしている。この移籍は彼にとってキャリアのターニングポイントになった。ロンドン五輪が開催される年だったこともあり、周囲からは「五輪に出るために移籍したのではないか?」とも言われたが、実際には違うようだ。
「枠の問題で出れないから移籍して五輪に出れたと思われてますけど、それは違うんですよ。自分は五輪に出れるなんて思っていなかった。もちろん、出たいと思ってましたが、自分は予選もほとんど出てなかったですから。それよりも、まず試合に出たかったんです。試合に出て自分自身が成長したかった。そのタイミングでヴェルディからオファーがあった。その結果、ヴェルディで活躍できて五輪にも出れたと思ってます。コンスタントに試合に出て、点を取って勝つ。そのサイクルが幸せでしたね。そういう気持ちを取り戻せた。あのときはホンマにサッカーしかしていなかったし、その環境が楽しかった」
セレッソ側の要請もあり、夏までのわずか4ヶ月の移籍だったが、そこで18試合に出場し5得点と活躍。ヴェルディが昇格争いを演じた原動力となる輝きを見せた。
「もちろん、まだまだ足りないところはあったけど、充実していた。ヴェルディのサッカーもあっていた。監督のケツさん(川勝良一)は、めちゃくちゃ怖かったですね。昔の金さんと同じぐらい怖かった(笑)。でも怖い中にも愛情があるんですよ。そういう監督が僕は好きなので」
そして五輪代表のメンバー発表の日。当時19歳である杉本健勇は最年少のサプライズ選出となった。ただ発表の瞬間は、仲の良い後輩である杉本竜士の家で寝ていたというのが、なんとも彼らしい。
「寝ていたら代理人からめっちゃ電話がかかっていていたんですよ。『まさか?』と思ってインターネットのニュース見たら、自分が選ばれてた。『竜士、起きろ!おれ、選ばれたぞー!』、『マジッすか?』、『…やべぇ、やべぇ』とか、選ばれたときはそんな感じでしたね」
そのロンドン五輪。日本代表は、グループリーグ初戦で優勝候補・スペイン代表を撃破し、ベスト4まで勝ちあがる歴史的な快進撃を見せている。だが杉本個人は無得点に終わっている。
「チームとしての一体感がありましたね。それを試合を積み重ねていくたびに実感できた。ひとりひとりが自信を持ってやっている。人には言わないけど、チームが成長しているとわかった。チームがひとつになると本気で思えば、ミエナイチカラというのがあるんですね。でも最後、韓国に負けてメダルを取れなかった。それに個人としても結果を出すことができなかった。完全に不完全燃焼です」
ロンドン五輪を終えると、再びセレッソ大阪の選手としての戦いが始まった。
昨年2014年シーズンは、クラブはかつてないほど注目を集めた船出となった。まずは2010年のワールドカップ得点王であるディエゴ・フォルランの加入。年俸6億円とも言われる超大物外国人ストライカーの獲得に加え、柿谷曜一朗や山口螢などA代表の人気選手などが在籍。応援する女子が急増する「セレ女現象」などと取り上げられ、とかく話題を振りまくクラブとなった。
「選手は冷静でしたよ。うかれるわけでもなく、逆に注目してもらっているので頑張ろうと話してました。それに、結果がついてこないと、チヤホヤされているからと言われるので。でも勝たれへんかった…みんながどんだけやっても、うまくいかない。それは本当に悔しかった。『なんでや?』という思いがありました」
フタを開けると、優勝候補と目されたチームはかみ合わずに低迷。成績不振で監督交代を2度行ったが、結局、最後まで上昇することなく、あえなくJ2降格という憂き目にあった。意気揚々と臨んだシーズンは、心をかきむしりたくなるような一年になった。
「自分にとって降格は初めての経験でした。落ちた事実は受け止めながら、落ちてからもまだ試合あったので、最後まで戦うことを思いましたけど、シーズンが終わってからはいろんなことを考えましたよ」
そんな中、届いたのが川崎フロンターレからのオファーである。他のクラブからのオファーや海外の挑戦は選択肢に入れず、残留か、フロンターレの移籍か。その2択しかなかった。それまでの人生で一番の決断を迫られ、来る日も来る日も考えた。
「悩みましたね。セレッソ大阪というクラブは、自分にとって一番大事なクラブです。それは今も変わりません。チームのことを考えて残る選手もいましたし、楽しさを取るならセレッソにいたほうがよかったと思ってます。大阪は地元が近いし、仲の良い仲間もたくさんいる。居心地は抜群だし、サッカーが終わってからも楽しいことがある。楽しい方を選ぶなら、セレッソでした」
そこで「…でも」と言葉を続ける。
「逆に言えば、そこに甘えてしまう自分もいると思った。自分のことをほとんど知らないチームに行って、サッカーに集中する環境に自分は身を置くべきだなと思った。自分が選手として上にいくために、フロンターレで勝負したい。そういう気持ちが強くなりました。移籍するということに関して良いイメージがあったし、出て行く勇気ですよね。それを決断できたことに関しては、自分に対して誇りをもっています」
こうして杉本健勇は川崎フロンターレへの移籍を決めた。ポジション争いのライバルには、少年時代に憧れていた大久保嘉人がいるが、それもまた願ってもない環境だった。
「ヨシトさんやユウくん(小林悠)など強力なフォワードがいて、そういうポジション争いがあるのは百も承知でした。そういう中で自分がチャンスをつかめれば、目標としているところにより早く到達できる。そういう気持ちでした」
ポジションは被っても、彼らと自分はタイプの違うストライカーとも言える。彼自身が理想とするのは、やはりイブラヒモヴィッチだ。
「点も取れてパスも出せてポストプレーもできる。なんでもできるじゃないですか。あともベンゼマも好きなんですよ。何が好きかというと、ゴールを取るけど、そこまで貪欲じゃない。パスのほうが確率が上だったら、パスも出す。良い意味で、まわりも生かしている。自分もそういう選手になりたいんですよね」
2015年も、シーズン佳境を迎えている。二桁得点を目標としていただけに、リーグ戦6得点という現状は不本意な結果だろう。期待に応えられたシーズンとは言い難い1年になりそうである。
「まだ全てが終わったわけじゃないけど、全然満足してないです。チームとしても、個人の結果としても。残りも少ないので、チームのためのアシスト、決定的なゴールをできるように。課題としては、自分はまだ波がある。悪いときでも決定的な仕事ができるようにしていかないといけない。悪いときにどういうプレーができるか。そういう質をあげていきたい。悩むことや考えることも多いですけど、ここにきて前まではできなかった動きや型が学べたので、そこはすべてプラスに捉えています」
今後、杉本健勇がどんなキャリアを描いていくのか。
それは誰にも、杉本自身にもわからない。彼がストライカーとして期待されただけの花を咲かすことができず、このまま終わっていく可能性だって決してゼロなわけじゃない。そんな選手などごまんといる世界だからだ。
「自分はよく『ポテンシャルがある』と言われます。でも、もし自分がこのままで終わったら、『ポテンシャルがあったのにな…』と言われると思います。爆発的に点を取って活躍する。そして海外にも行きたい。ポテンシャルがある選手ではなく、実力のある選手だと言われるようになりたい。そのためにも、今は『なにくそ』と思って、努力するだけです」
最後に漏れたこの「なにくそ」という感情は、もしかしたら、今の彼に一番必要な要素なのかもしれない。実は大久保嘉人に「杉本健勇に足りないものは?」と聞いたところ、彼なりに奮起を込めたこんなエールを送ってくれたからである。
「気持ちを見せて欲しいよね。アイツは良いものを持っている。体格があるし、スピードもある。足元の技術もあるし、競り合いだって強い。でも試合中に『俺が絶対に点を取ってやる』とか、そういう気持ちが見えない。試合中に言っているんだけど、それも響いているかもわからない。だから、そういう気持ちを出して欲しいね。本当に、もったないよ。気持ちを見せてくれれば、絶対に変わるから」
もし自分が健勇だったら。
ときにそんな仮定法で表現され、周囲に期待される男の物語は、いまも現在進行形で進んでいる。このままで終われないのは、誰よりも本人が一番よくわかっている。
セレッソ大阪から完全移籍で新加入。長身ながらスピードと柔らかいボールタッチに定評があり、各年代別の日本代表に選出されているように、能力の高さは誰もが知るところだ。さらなるステップアップを目指し、自ら選んだ道はフロンターレへの移籍。大いなる可能性を秘めたストライカーが新天地で新たなチャレンジに挑む。
1992年11月18日/大阪府、
大阪市生まれ
ニックネーム:けんゆう