CLUB OFFICIAL 
TOP PARTNERS
  • ホーム
  • F-SPOT
  • ピックアッププレイヤー 2017-vol.15 /DF4 井川祐輔選手

KAWASAKI FRONTALE FAN ZONEF-SPOT

PICKUP PLAYERS

Chinen,Kei

DF4 井川祐輔選手

Love 4 Frontale

テキスト/隠岐麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Oki,Marina photo by Ohori,Suguru (Official)

2006年にフロンターレに移籍加入し、それから12年。
井川祐輔が、フロンターレに貢献してきたことは“フロンターレらしさ”とイコールである。
12年間の井川とフロンターレにとっての、かけがえのない日々。

 2017年12月11日、フロンタウンさぎぬまで退団選手のお別れ会がサポーター団体主催で行われた。

この日は、スケジュールの関係で井川のみの参加だったこともあり、「ワンマンライブ(笑)by井川」のような和やかな雰囲気の中で行われた。井川からの挨拶の後には、急遽質問コーナーが行われたり、サポーターひとりひとりときちんと向き合って話をしていたこともあり、ずらりとできた行列に「寒いだろうから」と井川は温かい飲み物をサポーター全員に振舞った。

 そんなところも、優しい兄貴としてクラブスタッフやチームメイト、サポーターから慕われた原因だっただろう。そして、サポーターがプレゼントとして用意していたたくさんのメッセージには、「イガちゃん、また帰ってきてね」というものと「イガワダアキコが楽しかった」というものが多かったように思う。

 そう、井川祐輔は、フロンターレらしさを体現する選手のひとりとして、私たちを楽しませてくれた存在だった。

優勝と退団

 2017年12月2日、フロンターレ初優勝。井川は等々力のスタンドから子どもたちと一緒に試合を観ていたという。

「DAZNで鹿島対磐田戦を見ながら、二元中継みたいな感じで試合を観ていました。気づいたら、横にいた選手たちがいなくなっていたんですよね。試合が終わって、優勝したと分かった時、選手たちがピッチにダーッとなだれこんだので、あっ、そのために下にいたのかって。子どもたちもいたので試合が終わってから、ふたりを連れて下におりました。

 それからピッチに入っていいよと言われたので、おそるおそる入りました。うれしかったけど、正直に言えば自分が全然ピッチに立てなかったシーズンだったなって悔しさがあったので、100%で喜べたとは言えません。でも、その後、ケンゴがヒーローインタビューを終えてピッチに戻ってきて、彼と抱き合った瞬間、涙がぶわーっと出たんですよね。彼は15年、僕は12年間思ってきたものが抱き合った瞬間に解き放たれて、その時に『俺、心から喜んでいるな。フロンターレを愛してるんだな』って痛感させられました」

 井川祐輔の退団は12月6日に発表された。もちろん、本人はそのことをもっと以前からわかっていたから、井川にとっては、2017シーズンは、リハビリを終えてからピッチに立つことを目標に変わらずに、ひたむきににトレーニングに取り組んできた。

「年齢も年齢だったし、怪我もしたし、しょうがないかなって割り切っていた部分もありましたけど、やっぱり寂しさがありましたね。チームが優勝争いをするなか複雑な部分もありましたけど、自分がやらなくちゃいけない部分は改めてきちんとやっていこうと思って取り組んでいました。やっぱり、最後に等々力のピッチに立ちたかったし、子どもたちと一緒に入場したいなという思いがあったので、練習が終わってからプラスアルファのトレーニングをしたり、ピッチに立つための努力は怠らずにやろうと心に決めていました」

 優勝が決まって翌12月3日、フロンターレは毎年恒例の麻生グラウンドで解散式を行った。そこで、井川は挨拶をすることになっていた。

「あの日、麻生グラウンドまで車を運転しながら、なんて挨拶しようって考えて、その時点でウルウルしていました。いろいろ思い返しちゃって。結局、『12年間』って言った後しゃべれなくなっちゃって、久々に泣きましたよ」

 それは、どんな涙だったのだろうか? 感極まったという表現が合うのだろうか?

「感極まるって、うれしい方の表現の時に使いますよね。どういう涙だったんだろう? 悔しさなのか、寂しさなのか、何かよくわからない入り混じりすぎて訳がわからなかったですけど、でもやっぱりポジティブの方向じゃなくて、悔しさ、寂しさがあって、優勝できた嬉しさもあったのかな。だって、12年って短いようで長いですからね」

 その後、選手たちはグラウンドにおりて集合写真を撮影した。それからシャーレを掲げて記念撮影会がはじまり、しばらくして、なんとなく自然な流れでケンゴ&井川の長年クラブを支えた功労者ふたりが、シャーレをサポーターに向かって掲げた。おそらくふたりは、そうすることがサポーターが最も喜ぶことだとわかっていたのだと思う。掲げたふたりの先に、歓声をあげるサポーターの姿があった。

「まだ退団の発表がされる前だったから、サポーターから『来年も頑張ってね』ってたくさん声をかけてもらって複雑な気持ちでしたけど、自分の中ではこれが最後だなって思っていたので、ひとりひとりちゃんと握手をして、心の中で『ありがとうございました』って気持ちを込めてやりました」

 12月5日Jリーグアウォーズ。念願の優勝チームとして選手全員でタキシードを着て登壇することができた。ケンゴ、悠がチームを代表してトロフィーを授与され、その次に日本サッカー協会会長杯を井川が受け取った。

「思わず、『えっ、俺?』って言っちゃったんですよね」と井川は笑うが、12年間チームを支えてきた井川がその役を務めるのは当然のことに思えたし、そういうクラブの良心や配慮に共感したサポーターも多かっただろう。ちなみに、インタビュアーの平畠啓史氏が、最後に井川のインタビューをしたのも粋な計らいかのように見えたが、後にテレビ番組で、もちろん発表前だったため退団することは知らなかったと明かしている。12年間クラブを支えてきた選手に優勝の喜びを聞こうという、サッカーを愛している人なりの心意気だったのだろうと思う。

DF4 /井川祐輔

フロンターレのエンターティナー

 井川祐輔は2006年に名古屋グランパスから移籍してきた。

その年の新体制発表会見で、坊主に近い髪型だった井川は、「僕は関西育ちなので、クラブハウスでは選手を沸かせ、等々力では皆さんを沸かせるように頑張るので、応援よろしくお願いします」と宣言した。

「それね(笑)、前のプレハブのクラブハウスで選手、スタッフの前で挨拶する時に同じことを言ったら、シーンってなって、俺、どえらいところに来てしまったって思ったんですよ。関西育ちとしては、くすくすって笑ってくれたり、何言っとんねん!ってツッコミがあるかなと思ったら、みんな真顔でシーンって。友だちもいないし、どうしよって思いました」

 とはいえ、それは最初の挨拶だけのことで、井川はあっという間にフロンターレに溶け込んだ。地域密着を掲げて地道にホームタウン推進活動に取り組んでいたフロンターレは、井川が加入した頃に、ちょうど時期を重なるようにエンターテインメントな要素の蕾が膨らみかけていた。

ヲタ芸ならぬンタ芸を初めてファン感で披露したのは、2007年のことで、当然ながら、井川もそのメンバーのひとりというより中心にいた。モバフロで始めたブログ『脱! メタボ日記』、新体制発表記者会見での「井川田アキコ」としての生オーケストラをバックにした歌唱等など、サポーターを楽しませるために一生懸命だった。

「最初は、まだビッグクラブじゃなくて、階段をひとつひとつのぼる段階に携われたのは大きかったですね。それに、やらされてる感じはなくて、自分がやりたいって言ってやらせてもらっていたし、関西人なんで楽しませることは好きだったから。サッカー選手はもちろんピッチで活躍してなんぼですけど、それだけじゃダメだと僕は思っていて、だからこそフロンターレが掲げる地域密着とか理念が好きで、いろんな人たちに支えられて自分はお金をもらってピッチに立たせてもらっているということを根底に持っていないといけないし、率先してやってきたつもりです」

 その最たるものがファン感謝デーだろう。

 それにしても、ファン感ですが、毎年、毎年、どんどんクオリティーが上がっていきましたね?

「最初、ヲタ芸をスタッフから提案されて見せてもらった時は、『けっこう難しいやん』って思ったんですよ。でも、だんだんハードルが上がっていって難しいよ!って思いながらも、意外にできる自分たちがいて(笑)。今考えたら、(2015年の)嵐に比べたら、ヲタ芸の頃なんて楽だった。懐かしい。キャンプの時に、みんなで集まって練習してて、どっちが本業なのかなって思う節もありましたけど、でも楽しかったですね。最初の頃の算数ドリルとかスタッフには僕をこういうキャラにしてもらったと思うし、(伊藤)宏樹さんとも一緒にいろんなことをやりましたね。まあでも、やっぱり好きなんですよ、こういうことするの。目立ちたがりっていうか、やりたがりなんですよ」

クラブがひとつひとつ手作りで、企画力を発揮して楽しませ、そうしてフロンターレカラーが培われていった。サポーターの記憶の中にも、選手としての部分だけでなく、「楽しませてくれたイガちゃん」という印象がとても大きいように思う。

「そうやって言ってもらえたらうれしいですね。サポーターからもそう言ってもらって、貢献できたんだなって改めて思えたところがありました。プレーではケンゴが先頭に立ってみせてましたけど、こういう裏方のところは先頭切ってやってきたつもりだし。そういうところで井川っていうキャラが印象に残ったと言ってもらえることは、人としてうれしいですよ。本当にフロンターレに来れてよかったです」

 そう熱を持って話してくれる井川が、フロンターレにいるのが当たり前だったけれど、来年からはいなくなる。その事実は、フロンターレらしさが少し薄まってしまうような気がして、少し不安になる。

 

「何を持ってフロンターレらしさかって言われたら分からないところもありますけど。雰囲気ですからね。抽象的すぎていえないけど…、でも、しょうがないことだけど、時代の流れとか新陳代謝はあるから、僕たちが知っているフロンターレらしさっていうのは必ず淘汰されてしまう部分はあるでしょう。でも、ちょっとでもDNAとして残ってほしいし、残してほしいなと思います。(伊藤)宏樹さんがクラブにいるし、ケンゴも伝えることができるだろうけど、それこそケンゴがいなくなったらどうなっちゃうんだろうって。仕方のないことかもしれないけど、残してほしいなって切に願いますね」

 井川が言わんとしている継承とは、おそらく井川が加入した頃、まだ今のようにサポーターが等々力を埋め尽くすようなこともなく、選手たちが率先して地道な活動をし、そうしてひとりずつサポーターが増えていった頃から積み重ねてきた日々のことだろう。

「それこそ宏樹さんとか、周ちゃん(寺田周平 U-15監督)とかヒデちゃん(佐原秀樹 U-12監督)とかがいろんなことを率先してやっている姿を見て、こういうチームなんだなと思ってやってきたつもりです。フロンターレはイベントが多かったりするから、選手のなかにはそれが大変だと思う人ももちろんいると思うけど、それがフロンターレなんだし、会社だから、そういうことをして地域密着の活動を大切にして、サポーターに支えられて自分たちがいるっていうのを感じなくちゃいけないと思う。

 実際、そうやってサポーターと触れ合うと『あの時のプレーよかったよ、ありがとね』と声をかけてもらうことで、感謝をもらえる立場なんだなって認識することができました。でも、それを先輩たちが伝えても伝えただけではわからないことだし、実際に自分がやって、それを感じなければいけないと思う。やらされていると思ったらそれは絶対に伝わると思うし、そういうマインドチェンジは必要だと思う。そうすると、それがフロンターレっぽいねっていうことにつながるんだと思う」

 井川が見てきた先輩たちは、クラブの草創期から知っているから、それこそイベントに行ったら数人しか集まらなかったというような時代のことも聞いてきたし、それでもフロンターレを知ってもらうために汗をかいて頑張ってきたことを知っている。決して今の環境が、ある日突然整ったわけではないことを知っているからこその言葉なのだろうと思う。

「今、この環境が当たり前じゃないんだっていうのを若手も知らなくちゃいけないと思うし、僕の前に頑張っていらっしゃった歴代の選手、関係者の皆様がいて今があるっていうことを改めて教えていかなくちゃいけないんじゃないかなと思います。クラブがこうして大きくなって、等々力も改修され、以前は遠かった寮も近くになり、プレハブのクラブハウスはこんなに立派になった。あの、プレハブ時代のクラブハウスの写真を一番目立つところに飾っておくのがいいんじゃないですかね(笑)。環境がめまぐるしく変わっていっても、根底にあるフロンターレらしさを残してもらえたらなと携わった者として願っています」

選手として、ひたむきに

 そうして井川が12年間でフロンターレらしさをピッチ外でも発揮していた一方で、プロ選手として2017年シーズンまでで既に17年、フロンターレ在籍年数だけでも12年と長期に渡って現役を続けていることは、特筆すべきことだと思う。それは、井川自身がフロンターレに移籍する前に経験した危機感が大きな転機になったという。

「若い時は自分の能力だけでやってきたし、それを是としてきたけど、やはり監督に求められるものがなんだろうっていうのを考えるようになりました。いくらいいプレーをしても監督に気に入られなかったら試合に出られないわけだし、今何が必要で何を求められているのかっていうのを考えることでメンタルが大人になりましたね。
 その根本のキッカケは、2005年に名古屋で期限付き移籍が終了だといわれた時ですね。それなりに頑張っていたつもりだったけど、じゃあ自分は100%でやっていたかと言われるとまだ先があると思ってやっていたんじゃないかって。でも、もうないよって言われて、やべぇ自分のサッカーが終わっちゃうかもしれないってそこですごい危機感を感じました。
 その翌年にフロンターレに来て、いつ終わるかわからないからひたむきにやらなくちゃいけないって思ったんですね。だからこそ、1年でも長くやるためには人より努力しなくちゃいけないし、自分が絶対的なレギュラーではないってことは何かが足りないから、そのために必要なことをコーチやフィジカルコーチに聞いて毎年毎年自分をアップデートしていこうとは心がけてきました」

 確かに井川に関して言えば、2006年からその年のチーム状況によって毎年毎年が試合に出るための“勝負”であったと思う。

 2006年加入当初は、本職のセンターバックではなく右サイドのスタメンだった森勇介のバックアッパーとして起用されることが多く、2008年プロ入り8年目で開幕スタメンの座を掴んだ。

 そして、その年の5月に日本代表にサプライズ選出されることとなる。その後も、菊地光将、實藤友紀、ジェシ、谷口彰悟ら様々な選手たちとセンターバックを形成してきた。2009年、2010年には選手会長を務め、2009年ヤマザキナビスコカップ表彰式での態度が問題となった時もJリーグに謝罪に行ったのは当時の伊藤宏樹キャプテンと選手会長の井川だった。

 そして2011年には、初めてキャプテンに任命されたが、この年はチームも8連敗するなど苦しい状況のなか、井川自身もコンディション調整に失敗するなど辛いシーズンを送ることとなったが、それを支えてくれたのが今の奥様である沙耶香さんだったという。

「いろんな役職もやらせてもらって感謝しています。2011年は全然うまくいかない年だったけど、いろんなことがありましたね。シーズン前のキャンプでは新燃岳の噴火がありキャンプ途中で帰ることになったり、その年は震災がありましたしね。本当にいろんなことがありました。妻には当時から本当に支えてもらいました。彼女がいたから吐き出せて聞いてもらったこともありました」

 奥様と出会い、子どもを授かったことで、井川のライフスタイルは一変した。家族を大切にし、グラウンドから真っ直ぐに自宅に帰り家族と時間を過ごし、そうした生活の中で、井川自身が言うようにサッカーに向き合う深さもまた変わっていった。フロンターレにいた12年という年月の中で、独身だった井川が家庭を持ち3人の男の子の父親となったこともまた、井川にとってのフロンターレでの大切な記憶でありトピックである。

 2013年9月14日(土)対サンフレッチェ広島戦でJ1通算200試合を達成した時は、愛する家族から花束贈呈で祝ってもらうという夢をひとつ叶えることができた。

「違う道に行きそうだったけど(笑)、妻と出会ったことでサッカーに真摯に向き合うことができたと思います。昔の僕だったら、ここまで長くできなかったと思います。本当に妻のサポートに感謝しています」

 2012年シーズン途中で風間監督が就任したことで、井川はまた新たなサッカー観と出会い、選手としての遣り甲斐と自身の成長に改めて向き合うことになる。

「変わりましたね。意志を持ってディフェダーとしてプレーするようになりました。今までは簡単にパスして終わりだったのが、自分がビルドアップをし、コントロールして組み立てるという意味で、センターバックとして幅を広げさせてもらいました」

 実際に、風間サッカーにすぐ順応した選手のひとりが井川だったし、それによってチャンスを掴んで、ビルドアップが出来るディフェンダーとしてスタメンにも名を連ねるようになった。しかしながら、同時にその頃から、怪我、リハビリ、復帰というのを繰り返すようにもなった。

「2013年はアキレス腱を痛め、一時は引退しないと治らないと言われていたのが治療法が見つかり治って、それからも毎年怪我をしていましたね。昨年の夏に後十字靭帯、それのリハビリが終わって、今年やっと復帰してACLに出て、そこで内側靭帯を痛めてしまった」

 ACL広州恒大戦で負傷し、担架で運ばれ、ロッカールームで涙が出たと井川は振り返る。

「リハビリ、けっこう辛かったんですよ。後十字やった後にリハビリ頑張ってやって、でも、やっぱり年齢も年齢だからコンディションを戻すのに時間がかかるんですね。それで戻って違和感なくやっとやれた時に、膝をやってしまった。あの時は悔し涙が出てきました。何やってんだよって」

 結果的に、それが井川のフロンターレでの最後の公式戦になった。

想い

 12月11日22時も回った頃、長かったサポーターの列があと数人になり、最後までひとりひとりのサポーターとしっかりと向き合って話をする井川の姿があった。

「あれだけ長時間サポーターと触れ合う時間を持てるなんてなかなかできないので、お別れ会はフロンターレの井川として最後の活動と思ってたから、できるだけ誠意を込めて対応したいと思いました。皆さんひとりひとりが、思いの丈やフロンターレを好きになったキッカケが僕だったとか思い出の試合とかいろんな話をしてくれました。それでいろんな試合のことを思い出したんですよね。2008年、ツトさん(高畠勉)体制になり柏でタニ(谷口博之)が決勝ゴールを決めて3対2で勝った試合とか、2006年の鹿島戦でミノさん(箕輪義信)にアシストしたのは感動しましたって言ってくれたり。いろんな試合がありましたもんね。
2007年のACLのタイの遠征でサブ組で行った時、後ろから見てたらニシ(西山貴永)がヘッドで決めたと思ったら、後で聞いたら倒されてたまたま頭に当たってて、みんなで爆笑したなぁとかね。あの時、ロッカールームにものすごい蚊がいたなぁとか。ACLは天津の試合とかもハードだったしね、いろいろあったし、サポーターと話をさせてもらうなかで、12年間のいろんな場面を思い起こさせてもらいました」

 感謝を伝えようと思ったけれど、逆にサポーターひとりひとりがいろいろ思ってくれていたことを聞くことができて、本当によかった。と井川はしみじみと話していた。

「だってさ、10歳の時にフロンターレと僕に出会って、今22歳になったっていうサポーターの方もいてさ、『ええっ! 大きくなったねぇ』って。自分も歳とったんだなぁって思うけど、小学生だったサポーターが大人になってるなんて、なんかうれしかったです。そんな風に、サポーターの人生にちょっとでも携われて、ひとりの人間としてもうれしかったですし、サッカー選手として幸せなことだなぁと改めて思えました。自分の中で、フロンターレのサポーターから本当に愛されているのかなって思うところもあったけれど、本当に愛されていたんだなって、退団することになり感じました」

 サポーターも井川選手を好きだっただろうし、井川選手もまたフロンターレのことが好きだったんですね。
「好きでしたね…。フロンターレが大好きだったんですよね」

 井川祐輔がフロンターレに残してくれたものは、12年間の中で数え切れないくらいあったし、“フロンターレらしさ”という空気を創るために様々な活動や言動をピッチ内外でしれくれたと思う。そのことについて中村憲剛が言っていたことが、とても心に響いたし、井川にとって最高の餞になるのではないかなと思った。

「あいつも名古屋から移籍してきた当初は、今みたいな感じだったわけじゃないと思う。
だけど12年いて、フロンターレを継承するいい男になりましたよ。俺は試合に出て背中を見せたところがあっただろうけど、あいつは今年、試合に出なかったけど、それでも練習で絶対に手を抜かずにやっていたし、先輩の姿を見てきたから自分がそういう立ち位置になった時にもそうやってた。そういう選手がいることはすごく助かったし、だからこそ、あいつがいなくなるのはすごく痛いなと思う。そういう継承の仕方もあると井川を見ていて思う」     

 だから──。
 またいつの日か必ず会えると信じて。

Message for IGA

「最初のキャンプで同部屋で、そこから仲良くさせてもらいました。ひとりの選手として、ひとりの人間として、ひとりの男として魅力がある人。すごく寂しくなります。とにかく人として好きだし、憧れもある。カチッとするところ、くだけるところ、そういうバランスの取れた人だと思います。僕とは比べものにならないくらいピッチに立ちたかっただろうし、フロンターレのタイトルが獲りたくて12年やってた分、計り知れないものがあると思う。そういう意味で、今年優勝できてよかったです」by ユウト

「フロンターレに来て最初のキャンプで同じ部屋になりお世話になりました。本当にすばらしい人間性でグラウンドでも私生活でも一緒にいて影響力の高い選手でした。練習での引っ張る姿勢もそうだし、人間性にも一緒にやっていて見習うところがたくさんありました。感謝しかありません。今回、別れることになったとしても、また必ず会えると信じています。これからもよろしくお願いします。ありがとうございました」by ソンリョン

「長くやられてきましたが、すごくつらい時でもひたむきに黙々と頑張っている井川選手の姿から、怪我を治して出ようという思いが伝わってきました。例え、試合に出られなくても一生懸命練習に取り組んでいる人柄を尊敬しています。きっと、後輩や周りを考えてやっていたのだろうし、熱いものを持っていた選手です。これからもいい関係でつきあってくださいね」by 池田トレーナー

「イガちゃんに? とくに言うことないです(笑)。ケンゴさんの次にフロンターレの象徴だと思う。後ろからチームを鼓舞している姿が目に浮かぶし、キャプテンもやったり、チームが苦しい時期、いい時期も知っている数少ない選手のひとり。正直ほんとにいなくなる実感がわかないです。イガちゃんが選手として、クラブの伝統をあるべき姿として実践してくれたことを伝えていきたい。昔は、ファン感のステージにもよく一緒に出ましたね。イガちゃんは出たがりだから(笑)。ファン感のステージには、最近は出てなかったけど、「練習きついからなぁ」とか言いながら、本当はやりたい気持ちをちょっと抑えてるな、と感じてました。あと、坊主から長髪までいろんな髪型をして楽しませてくれた。今また髪が伸びてるけど、腰までいこうかなって言ってたから、ケツぐらいまで伸びたら、帰ってきてね」by タサ

「何より井川と最後ピッチで抱き合って、泣いて、優勝を喜べたことは忘れない。2006年加入当初は、すぐ移籍するのかな?って思ったけど(笑)、あれよあれよと12年。いて当たり前の存在だったからいなくなるのは寂しい。でも、サッカー界は狭いし、また一緒にやれるだろうから、さようならとは言わない。プロの世界だからずっとやれればいいけど、みんなわかっていること。でも、井川がやってきたことはフロンターレに残るし、井川なしでは今シーズンの優勝もできなかった。悔しい思いもしただろうけど、サブ組でも腐らず一生懸命やることで若手にみせてくれたものもあるし、チームのためにやってくれたと思う」by ケンゴ

「井川は、チームがJ1に定着しても、まだお客さんが定着していなかった時代からチームに尽力してくれた選手。僕がチームキャプテンや選手会長をやっていた時に、井川も率先してチームを盛り上げアイディアを出して協力してくれましたね。ファン感、ブログ、グッズとかいろいろやったなぁ。今のフロンターレの形や雰囲気を創ったのは、間違いなく俺です(笑)。いや、井川と一緒にやってきたと思う。ピッチ外のことも一緒に盛り上げたし、ここまで根付いていない時代にやってきたから今があると思っています。今考えるとアホなこともやってきたけど、あれが今につながってるんだな、と思う。生え抜きじゃないけど生え抜きっぽい井川、フロンターレで12年、プロとして17年、すごいことです。今年の優勝は、チームを離れる前にこういういい思いをしてうらやましいし、満員のスタジアムで優勝を経験できたことはすごいことだと思います」byヒロキ

profile
[いがわ・ゆうすけ]

チーム在籍12年目のセンターバック。長年のキャリアを生かした対人戦とカバーリングで強さを発揮する。ビルドアップの意識も高く、最終ラインのコントローラーとして攻撃の起点となる。日々の練習から声を出し、若手を鼓舞。チームの基盤を支える1人でもある。

1982年10月30日
千葉県成田市生まれ
ニックネーム:イガ

>プロフィールページへ

PAGE TOP

サイトマップ