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  • ピックアッププレイヤー 2017-vol.16 /MF14 中村憲剛選手

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Chinen,Kei

MF14 中村 憲剛選手

継承

テキスト/隠岐麻里奈 写真:大堀 優(オフィシャル)text by Oki,Marina photo by Ohori,Suguru (Official)

中村憲剛とともに優勝することはクラブの悲願だった。
そのことに込められた意味や価値は、クラブの歴史21年が継承されていくためにも深いものがあった。
どうしても必要なことで、どうしても欲しかったものだった。

その瞬間

 長谷川竜也のドリブルからのシュートが決まり5点目が入ると、ベンチから飛び出してきた新井章太が駆け寄って、くるくると長谷川の身体が舞った。それからベンチを見た新井の表情が「えっ?」と一変し、ピッチの中を走っていく姿を見て、中村憲剛は優勝したことを知った。

「あのショウタの表情の変化で分かった。あとはもう皆さんご存知の通り、泣いてました」

試合後、ケンゴは「走馬灯のように」と表現していたが、実際に顔を突っ伏した瞬間に、いろんな場面がフラッシュバックしたという。2003年の頃の等々力、2009年リーグ最終戦の柏戦、ルヴァン杯の敗戦、かつて一緒に戦ってきた監督、スタッフ、一緒に頑張ってきた選手たちの顔…。

「悔しいシーンの方が多かったですね。もうほんの一瞬で、バババババッって出てきました。走馬灯の様にって死ぬ前に体感するものだと思っていたから、優勝できたってことは自分にとってそれぐらい大きいレベルの出来事だったんだなって思いました」

 Gゾーン側で撮影していたオフィシャル・フォトグラファーの大堀優は、優勝が分かり、突っ伏したケンゴのところに一心不乱に走っていった。自らも号泣しながら、撮影したのがあの1枚だ。

 選手たちが続々とケンゴの元に駆け寄ってきた。大島、新井、家長…。そして、小林悠と抱き合って、ふたりで泣いた。鬼木監督と抱き合って泣いた。選手、スタッフひとりひとりと抱き合って、また泣いた。

「人生で一番泣いて、一番喜びが爆発した日」がケンゴに訪れた。

 2003年に川崎フロンターレの一員になった22歳のケンゴは、15年が経ち、37歳になっていた。

 中村加奈子(憲剛夫人)は、子どもたちや家族、親戚、友人たちと等々力で試合を観ていた。ハーフタイムに長男の龍剛がスマホで記録を調べて「磐田の方が攻めてるみたい」と言っていた。スコアを見たら0対0だった。状況的にも1位で迎えた最終節ではなかったし、これまでの2位だった経験を何度も観る側としてしてきたから、どちらかというと「ネガティブかもしれないけれど、万が一また2位だった時に、選手たちはまたあの辛い思いをするのだろうか」という気持ちが過ぎった。

「でも、このチームで、このメンバーで戦ってきていいシーズンだった」という思いもまた強かった。小林悠が得点王を決定づけるPKを決めた時には、涙が滲んだ。ロスタイム2、3分が過ぎた時に再び鹿島の結果を確認したら、まだ0対0だった。手が震えた。新井が走り出したのを観て、状況がひっくり返り、優勝したんだとわかった。

「隣にいた息子と抱き合って、一緒に観ていたふたりのケンゴのお姉ちゃんと抱き合って。心の準備はしていなかったから、なんだか夢のようでした」  ケンゴのそばで過ごして来てサッカーに関することでこんなにたくさん流したうれし涙は、中央大学4年の時に、サッカー部が1部昇格を果たした時以来だった。それから15年が経っていた。

初優勝はケンゴとともに

 現役選手の中でクラブ最古参となったケンゴは、15年分のスタッフ、選手、サポーターたちと積み上げてきた先に悲願を掴んだ。

「本当にたくさんの人たちが関わってきたわけで、誰かひとりでも欠けていたら成し得なかったと思う。いろんな人の影響が多かれ少なかれあり、その大きさは人それぞれだけど、ひとりひとりがクラブの土台になり、歴史、文化を創ってきたと思うんです」 初優勝を経験することなく、クラブを去った選手たちはたくさんいたし、引退した選手たちの想いは、残った選手に託される。だから、ケンゴの両肩に乗ったその想いはそうとう重いものになっていた。

「すごく重かったです、正直。J2時代を知る最後の選手として、引退していった先輩たちや志半ばでクラブを去った選手たちの悔しい想いも俺が背負わなきゃいけないと思ってやってきました。宏樹さんもそうだけど、去ったらもうどうすることもできないですからね。自分では挽回することができない。だからこそ、その重さたるや、という感じでした。俺はあまり気にしないようにしていたけど、優勝して初めて実感しました。もし、俺が優勝しないまま引退して、俺の分の想いが誰かに乗っかったら…って思うと、後の選手にどれだけ重くのしかかってしまっただろうかって」

 フロンターレ初優勝の悲願は、「ケンゴと一緒に」という枕詞がいつからかつくようになっていた。実際にもしも、中村憲剛が優勝できずに選手を終えるようなことがあったら、それはとても悲しいことだったし、それだけのことをやってきた選手であり優勝を経験すべき選手であると誰もが思っていた。一方でケンゴがともに歩んできたフロンターレは21年の歴史で8回もの準優勝を経験し、優勝が本当に欲しくて、欲しくて、ここまできてしまった。ケンゴもそのうち7回を経験してきた。

「21年やってきて、8回の準優勝。いつしかフロンターレは優勝できないクラブ、勝負弱いクラブというレッテルを貼られたことも重くのしかかったと思います。今年は元旦の天皇杯、ルヴァン杯決勝に負けた時は特にきつかったですね。俺のためにっていう雰囲気があると、勝ったら報われるけど、負けたら俺の存在自体が重荷になっちゃうんじゃないかなって思っていました。責任を感じたし、そもそも俺が一番長くフロンターレにいるし、たくさん準優勝を経験してきたわけだから、もう(優勝できない理由は)俺なんじゃないかって」

MF14 /中村憲剛

継承〜宏樹とケンゴ

 ひとつの転機は2013年の伊藤宏樹の引退が大きかった。伊藤宏樹がいた時は、「宏樹さんと一緒に優勝したい」とケンゴが願い、「宏樹とケンゴと一緒に」というのがサポーターの悲願でもあった。それが、伊藤宏樹引退後は、「ケンゴのために」に変わった。 「そうなんですよね。俺と宏樹さんの関係はやっぱり特殊だとは思う。濃さとかフロンターレへの愛着の強さとか。俺と宏樹さんのふたりの苦労の歴史は相当長いから」

 伊藤宏樹が加入したのは2001年。J1だった2000年にフロンターレ加入が決まったがフロンターレは1年でJ2降格が決定し、2001年J2からのスタートだった。初年度から試合に出るチャンスを掴み、4年かけてJ1昇格。2005年から前年の鬼木達よりキャプテンを引き継いだ。2003年にケンゴが加入してからは弟分のケンゴの成長を見守りつつ、宏樹はチームのまとめ役としてピッチ内外で奔走してきた。ケンゴにとっては、宏樹はいわば兄のような家族であり、安心して帰る場所があるから自由にできる、そんな関係性だった。そして、自分よりも先にフロンターレに加入していた宏樹のほうが苦労が多いことも知っていた。

「だって本当に優勝はあの人の悲願だったわけだし、あの人のほうが本当の辛さを知っていますからね。2001年と2003年って、たった2年だけどその2年はすごく辛い時代だったと思います。J1から降格した年とか、本当にお客さんが少ない状況から始まって、2003年に俺が入った時は、ちょっとうまく行きはじめた頃だったと思います。だから俺の話があの時代からよくもここまでってなっているけど、宏樹さんが優勝してたらもっと凄い話になっていたと思うんですよ。だってマイナスから始まっていたんですから。俺の場合は、今が100だとしたら+15ぐらいから始まっていますから」

 とはいえ、15から100までは85の道のりがあるけれど──。

「でも、実際そうだったと思うんです。J2からJ1昇格して、2年目で2位になって、そこからポンポンポンって20ずつぐらいあがっていった感じでしたからね。俺と宏樹さんもあの頃、もう絶対(タイトルが)獲れるだろうって言ってた。でも、甘くなかった」 2013年、伊藤宏樹の引退セレモニーで、「キャプテンは宏樹さんだから」とケンゴは、キャプテンマークを宏樹の左腕に巻いた。伊藤宏樹のチーム愛、サポーター愛を見て、ケンゴは育ってきた。

「プレハブ時代にお風呂で、当時、その時のクラブの現状についてとかだけじゃなくて、将来、あの人がGMになって俺が監督になるとか、あの人が監督になって俺がコーチになるとか、よく話してた。何様だって話なんだけど(笑)、それぐらいフロンターレへの愛着が強いんですよ。なので俺の中で宏樹さんとの関係は特別なんです」

継承〜ケンゴと悠

 伊藤宏樹の引退後、後ろ盾を失ったケンゴは、自分のことだけでなくチームのことをやらなくてはいけないという意味においても、多少無理をしているように見えたし、寂しさとか苛立ちも少し垣間見えるような感じがした。ちょうど時を重ねて2012年に就任した風間体制のもと、少しずつフロンターレのサッカーが再構築され、若手選手たちが成長曲線の角度をあげていくことになる。その間のケンゴは、選手として自分自身の技術や成長という面で、さらに磨きをかけた時期でもあり、クラブのチームリーダーとしては悩んだ時期だったと思う。

 その集大成が2016年の20周年であり、風間体制の最後の年であり、若手選手たちも成長し、タイトルを狙えるだけの力を蓄えるまでになった。そんな時、小林悠の移籍の話が浮上した。ケンゴにとっては、クラブの継承という意味で、小林は絶対に必要な存在だと思っていた。だから、必死になって止めた。

「絶対に悠にはフロンターレにいてほしかった。悠がフロンターレに残ることはサッカーの部分だけじゃなくて、フロンターレイズムの継承という意味で絶対(に必要)だと思っていました」

 小林は、今年キャプテンをケンゴから受け継ぎ、得点王になり、MVPを獲得し、チームに勝利をもたらし、そしてタイトルを獲得した。強い覚悟と責任感は、人をこんなにも強くするのだということを示すだけの大きなことを成し遂げた賞賛に値する活躍だった。

「悠がいなければ、俺は優勝できなかったと思います。嘉人が得点王を獲り、俺がMVPを獲らせてもらったけど、そのどっちも獲ってしまったんですからね。本当に凄いと思います。あいつも覚悟を決めて、フロンターレのためにという気持ちでやってくれたと思うし、努力もしたと思う。フロンターレのキャプテンっていうのは、そういうものなんだっていうのは悠を傍で見てて感じました」

 ケンゴと小林が優勝して抱き合って泣いた時に、ふたりにしか分からない共有した気持ちがあったと思う。その姿を見て、ふたつのことを感じた。ひとつはケンゴにとっては、あの頃、まだ若手だった小林たちを宏樹や先輩たちと引っ張り、そして今、肩を並べる存在にまでなってくれた。この時を待っていたんだな、ということ。

「待ってましたね。俺と悠は7歳離れていますからね。宏樹さんがいなくなった後、ひとりだった数年はやっぱり寂しかったし、きつかった。宏樹さんにしていたようには相談できなかったし。2016年に悠がひとりだちして、残留してくれて、今年、悠がキャプテンになり、若手が育ってきて、俺は後ろから支える立場になることができた。中堅、若手の成長がうれしかった」

 もうひとつは、ジュニーニョの存在である。ジュニーニョは彼らがフロンターレに加入した時から、プレーのアドバイスを惜しまなかった。おそらく若かったふたりに共通していたサッカーに対する向上心や貪欲さをすぐ見抜いたのだろう。時を経て、こんな場面が訪れるとはあの頃まだ想像できなかっただけに、新旧キャプテンの抱擁はそういう意味でも感慨深いものがあった。

 2017年、初優勝した等々力で、ケンゴは小林から左腕にキャプテンマークを巻いてもらった。

継承〜生え抜きの存在

 優勝をした時、ケンゴや小林が号泣している姿が映しだされていたが、クールに見える大島僚太も泣いていたし、ケンゴが突っ伏して泣いていた時に、すぐに駆け寄って労う姿もあった。谷口彰悟もユニフォームで涙をぬぐっていた。小林がキャプテンになり、ケンゴが後ろから支える体制のなか、副キャプテンだったふたりもまたピッチで明らかに昨年とは違ったチームへの関わり方をしていた。彼らにとっても涙が出るぐらいに優勝を喜べたこともケンゴにとって感慨深かったという。

「昔は、お客さんを集めるためにとにかく必死だったし、そういう先輩たちの背中を見て俺は育ってきた。今は続けてきた甲斐あってありがたいことにお客さんがたくさん来てくれるし、クラブハウスもこんなに立派になって等々力も改修されて本当に満ち足りた環境になってきたなと感じます。俺が入った頃とは段違いの状況です。でも、そういう過去の苦労も知らないと今の強さが翳ってしまった時に崩れてしまうんじゃないかなっていう心配がある。

今の時代は、移籍が増えたし、昔は逆に移籍が今ほどなくて長く同じクラブに在籍する選手も多かった。今はそういう選手を作りにくくなっている時代であることは間違いないと思いますが、それだとクラブとしての体力がなくなってくると思うんです。

やっぱり今のJリーグの上位を見ていると生え抜きの選手を大事にしているクラブが多いと思うし、そこに移籍してきた選手たちが加わって作り上げている。そうじゃないと継ぎはぎだらけのチームになってしまいます。

そういう意味でも、悠が残ったことはこの血が脈々と受け継がれていくことにつながったと思う。リョウタやショウゴも泣いていたけど、あの涙って単に優勝したからだけじゃなくて、クラブの歴史をよくわかっているからだと思うんですよ。悔しかったこととか。

あとで観たけど、リョウタとか早めに俺のところに来てくれていて、それを観て、あぁ、育て方間違ってなかったなって思いました(笑)。こういう経験があればクラブにより愛着が沸くだろうし、自分がプロに入って一番最初に優勝したクラブってすごく大事だと思う。それを生え抜きの選手たちがまだあのぐらいの年齢で経験したことに価値があると俺は思う。サッカー面でも、サッカー以外のフロンターレらしさの部分においても今後につながっていくんじゃないかって思います」

 2017年鬼木達が監督に就任した。鬼木は、攻撃だけでなく守備でも魅せ、戦う気持ちを大事にし、練習から全力で取り組む厳しさから、隙のない戦い方を先頭切って引っ張って、チームを作ってきた。鬼木が監督として手腕を発揮したことは結果が物語っているが、JFLの時代からフロンターレで自らも選手として戦い、指導者となってからもクラブの歴史を一緒に作ってきた彼の元で初優勝が経験できたこともまた大きな意味があっただろう。

「それこそアカデミーの各カテゴリーの監督をフロンターレのOB選手たちがやり、アカデミーから選手もあがってくるようになった。俺らが入った当時からは考えられないぐらい変わったと思います。フロンターレとしての幹が少しずつ太くなってきていると思う」

 2004年J2で優勝した時にシャーレを掲げたのは当時のキャプテンだった鬼木達だった。当時の集合写真を見ると、ケンゴは優勝記念のボードの前に出て、若さが溢れんばかりに喜びを表現している。

「俺、この頃、勢い担当だったんだな(笑)」

 クラブの歴史を知る鬼木が初優勝をフロンターレにもたらしたこともまた、クラブの継承に欠かせない必然の出来事だったのかもしれない。

クラブの両輪

 12月2日、かつてのフロンターレ戦士たちの姿も等々力にあった。伊藤宏樹はラジオ番組出演のため、フロンターレU-15がこの試合のボールパーソンを務めた関係で監督の寺田周平もピッチサイドにいた。

 

 フロンターレは、創設以来、地域密着を掲げてまだクラブが地域に根付いていない時代からクラブスタッフと選手たちが協力して、ピッチ外でも地道な努力を続けてきた。その種まきが少しずつ形になり、他クラブにはないファン感謝デーや、イベント満載の家族連れでも楽しめるホームゲーム開催など、それがクラブの色になっていった。まだ後援会会員が1万人ぐらいだった頃は伊藤宏樹、寺田周平、ケンゴの3名で直筆署名を入れて手紙を送っていたが、今は35000人を越え選手とスタッフが手分けしてやるまでになった。こうした活動を常に先頭に立って引っ張ってきたのがチームのまとめ役だった伊藤宏樹だった。宏樹は、優勝を決めた後に、こんなことを話していた。

「クラブの成長とともにあったケンゴは象徴みたいな存在だったから、今日、満員の等々力での優勝は、これまでの物語を考えると感慨深いものがありますね。フロンターレが取り組んできた活動に対して、だからタイトルが獲れないんじゃないかと言われたこともあったけど、これで価値が生まれる」

また、これまでブーイングをしないフロンターレのサポーターのことを、「甘いのではないか」と揶揄されることもあったが、寺田周平が引退する時にこう言っていたことを思い出す。

「チームが負けたらサポーターは厳しくすべきだし甘いと言われることもあるけど、僕はそうは思わない。逆に負けたにも関わらず応援してくれるのは申し訳なくて、次の試合は絶対にこのサポーターを喜ばせなければいけないっていうのがすごくモチベーションになった。だからフロンターレの選手とサポーターの関係はすごくいいと思うし、サポーターが本当に応援してくれているんだなっていつも感じることができた」

 かつての選手たちやクラブスタッフもタイトルを目指しがむしゃらな日々を送ってきたが、その夢を叶えることはできなかった。しかしながら彼らが耕した道は確実につながっていたし、クラブはJリーグのスタジアム観戦者調査で7年連続で地域貢献度第1位に選ばれるまでになった。タイトルを獲れたことで、そうしたクラブの活動に新たな価値が生まれ、胸を張ってやってきたことに意味があったと認められる日がきた。その価値の重みを彼らと一緒に努力してきたケンゴは知っている。

「ただサッカーだけを追及したクラブだったら、こんなに優勝が盛り上がらなかったと思います。本当にすごかったですからね。こんなに感動した優勝はないよっていろんな人が言ってくれました。それはクラブのバックボーンをちゃんとみんなが伝えてきたからだと思うし、継承できている今だからこそ、きちんとそれをつなげていかなくちゃいけないと思います」

 実際に、メディアからの取り上げられ方も、フロ桶シャーレのフロンターレらしさだったり、ケンゴ自身のストーリーだけにとどまらず、クラブの歴史やサポーターとのつながりについても同時に触れていたものが多かった。また、フロンターレを移籍した選手や関係者からの祝福も多く目にしたし、以前にフロンターレを担当していた記者の姿も度々等々力にあった。

「ピッチの中の選手、スタンドで応援するサポーターという関係だけではなく、垣根を越えていろんな人たちと触れ合ってきたし、実際に触れ合うといろんな感情が沸くじゃないですか。愛着も沸くし。クラブを移籍した選手たちも気にしてくれるクラブってなかなかないと思うんですね。みんなすごく喜んでくれた。俺はそこも嬉しかった。それこそメディアの方たちだって今までクラブがやってきたことやつきあいを深めてきたからこそ、これだけいろいろ取り上げてくれたのだろうしね」

 試合後、あちらこちらで「おめでとう」と声をかけるケンゴの姿があった。

「もう俺にとってはハッキリ言って自分はどうでもいいぐらいの境地にいっていたし、自分の優勝は嬉しいよりもホッとした方が大きかった。俺におめでとうって言ってくれたけど、俺こそみんなにおめでとうって思った。だからいろんな人に優勝してから『おめでとう』って言いました。俺より前からフロンターレを応援しているサポーターもいるし、俺より前から長くいるスタッフは本当によかったと思う。みんなの仕事が報われたことがうれしかった。あとはやっぱり、フロンターレのサポーターを日本一にしてあげられたことが本当によかった」

 クラブは強くなった。優勝した。環境面も整った。でも、だからこそ、“フロンターレらしさ”を今、残していかないといけない。

「ケンゴがいる今だからこそ、昔から築きあげててきた歴史を伝えていかなくてはいけない」と伊藤宏樹も危惧していた。

「宏樹さんが言わんとしていることはわかります。やっぱりそういうフロンターレ成分みたいなものは、さっき言った通り、移籍の頻度も含め時代の流れとともに薄まってきているとは思います。

だから今、ギリギリのところじゃないかと思います。優勝して、自分たちがいろいろな話をしたり、昔から続けている活動をしていくことが大事で、それこそ中と外の勝利だという表現をしましたけど、今までやってきたことが無駄じゃなかったし、これからも続けていくべき。

だけど、続けていくためには時代の流れにうまく合わせていく必要も出てくるのかなとは思います。

でも、フロンターレらしさが薄まってしまうことを俺は望んでいないし、ただ強いだけじゃ絶対ダメ。井川が来年からいないのはそういう意味でも痛いなって思うし、俺がそういう部分を引き受けすぎているのかなっていうのも感じています。危機感も多少持っています。だからこそ、若手選手も含めて等々力で優勝を経験できたことは大きかった」

等々力で優勝した意味

 12月2日の等々力は、澄み切った空の青さがとてもキレイで、ドキドキするというよりもどこか清清しい気持ちが会場内に試合前から溢れていた。状況的にも万全の準備をして優勝を期待して…というよりも、ホーム最終戦を特別だけどいつもの空気で迎えようという気持ちでクラブもサポーターも選手も意思が統一されていたように思う。

サポーターのバス待ちからの一体感も、もはや、あ・うんの呼吸のようだった。ただひとつ、鹿島の結果次第とはいえ優勝が左右される一戦だったことは事実であり、また、そうした試合を等々力で迎えられたのは初めてのことだった。そして、かけがえのないホーム等々力での初優勝は、本当に神様からのプレゼントという言葉が大げさでないくらいの意味があった。

「本当だよね。もっと早く優勝したかったけど、ここまで待った意味はあったのかなって正直感じています。いろいろな意味があったんだなって。

優勝が決まったのが等々力だったっていうのは本当にすごいこと。これが、すごく大事。アウェイだったら、“フロンターレらしさ”という部分がこれほどまでに出せなかっただろうし、俺も15年いてこんなに爆発した等々力は初めてだったし、あんなに素晴らしい等々力の雰囲気を見て、経験したら選手も格別だと思う。

今までシーズンラストは結局優勝できなくてだいたい悲しい終わり方をすることの方が多かった。初めて心の底から笑顔で終われたのは大きいし、財産だし、パワーになりますよ。

サポーターもバス待ちから盛り上げてくれて、それを続けてくれた。そういうことを続けて勝った成功体験は大きいと思う。もちろんうまくいかない時期もあるだろうけど、ここをサポーターと一緒にみんなで乗り切ったという経験はクラブとして自信になると思います」

人間力とフロンターレの哲学

 解散式でシャーレを掲げた時、Jリーグアウォーズでふろん太のぬいぐるみを持って入場した時、優勝パレードの時、ケンゴは喜びを全力で表現していた。それは彼自身がうれしかったことももちろんあるけれど、自分が喜ぶことで応援してくれた人たちが喜ぶこともまた知っているからだ。

「エンターテイメントですから。やっぱりサッカーだけではなく、それ以外のところでも個性を持っている選手が増えないといけないと改めて思います。

優勝できなかった時期はこれじゃダメなのかな、サッカーをひたすらにストイックにやっていくべきなのかなってよぎったこともあったけど、やっぱりサッカー選手だけどいろんなことをやってサポーターに喜んでもらって等々力に来てもらって、そういう選手を育てるクラブがサッカー以外でも認知度も高まって優勝することは、価値があると俺は思います」

 まさに、“人間力”の部分ですね。

「俺はこのクラブでそこを磨かれたし、フロンターレだったからこそ今の自分があると思います。今回の優勝は、クラブの哲学の勝利だと思っているので、それは絶対に失ってほしくない。

失わないためにOB選手たちがクラブに携わってくれているし、いつか井川もきっと帰ってくると思う。今の若い選手は全体的にクールな印象があります。でもやっぱり人間くささが出て感動もするわけじゃないですか。それこそ、リョウタやショウゴも泣いた。その姿をみたらぐっときますよ、やっぱり。そういう選手であってほしい。

悠も俺に近いところがあって、泣き虫だし、感情の起伏も激しいところがある。もちろん個性もあるし、性格もあるからみんながみんな一緒である必要はないけど、でも、フロンターレに関わる人みんなを喜ばせようっていう気持ちは大切だと思う」

ケンゴがフロンターレに入った2003年と優勝した2017年の15年の間にフロンターレを取り巻く環境は大きく変わった。

タイトルを目指しながら、あと一歩のところで獲れなかったことは何度もあったが、そういう時でもフロンターレらしさは失わずに、むしろそれを支えとして踏ん張ってきた。その中心にいたのがケンゴであり、あきらめずに続け、常に危機感を持ってチャレンジしてきた先に、2016年のMVPがあり、2017年のタイトルがあった。ケンゴ程、優勝していろんな人から「おめでとう」と言われた選手も珍しいだろうし、欧州などと照らし合わせても、他クラブのサポーターからも、こんなにも優勝を祝福された選手はいただろうか。

「本当に幸せだなと思います。ツイッターやブログでも本当にたくさんの他クラブのサポーターのみなさんからメッセージを頂きました。そのことに俺自身すごく感動しましたし、感謝しました。自分ひとりの出来事ではなくなっていたんだなって。だから今、本当に幸せの絶頂かもしれません。でも、初優勝は1回だけだから、今はどんどん喜びたいですね」

二人三脚

 フロンターレの初優勝を経験し、自分が歩んできた道や、叶えられなかった選手たちの想いや、フロンターレらしさを継承するために残しておかなければいけないこと、サポーターにおめでとうと言うこと、ケンゴ自身のことではなく、大好きなフロンターレであり続けるためにフロンターレのために言わなくてはならないことをケンゴは伝えてくれようとしていた。でも、最後に感謝を伝えたいことや言い足りないことはないだろうか?

「それはやっぱり妻…の存在ですね。本当に中村憲剛を形成する上でその割合はかなり大きいと思います。面と向かって普段感謝の言葉はなかなか言えないですからね。でも、振り返るとやっぱり二人で頑張ってきたという思いが強いです。

とくに、3人目を妊娠していた時に本当に母子ともに失ってもおかしくない状況になり、その時、俺自身追い込まれすぎて、試合中に本当にひどい顔をしてたんですよ。2015年の10月末くらいですかね。奥さんが入院していた時期は、家のこともやらなくちゃいけないし、子どもたちもいるし、それまで全部おんぶに抱っこだったからあの期間でいろんなことを考えたし、

そこで俺は変な言い方だけど自立できたのかなって思います。それで帰ってきてもらって、絶対安静で寝ていなくちゃいけなかったけど、それでも妻がいるだけで安心感が全然違うし、子どもたちもそうだったと思います。あの時に今までも感謝はしていたけど、感謝の質が変わったし、本当にリスペクトしました。

今まで俺の世話をしながら、ここまでやっていたんだなって。妻が絶対安静だったので、いつもより1時間前に起きて、子どもたちを起こして弁当を作って、朝ご飯を作って、洗濯をして掃除して、練習に行くという生活が続きました。

今だったら出来ないと思う。でもあの時は俺しかやる人がいなかった。ところがその生活を続けていたらメリハリがついてサッカーも調子がよくなった。2016年の2月3月は月間MVPをもらったし、20周年のスタートとともに自分のサッカー人生を加速させてくれた出来事だった。

選手になって、二つ夢があって、子どもと一緒に入場することと、子どもと一緒に優勝を喜ぶことだった。子どもたち3人とそれができて本当に幸せだなと思います。

上の子ふたりは俺がどういうサッカー選手でフロンターレがどんな歴史かっていうのを知っているから、パパはまだ優勝したことがないんだね。どうして?って聞かれると辛かった。でも、絶対優勝するから!って言ってから早数年。

最初は俺ひとりだったのが結婚してふたりの悲願になり、子どもが産まれる度にまた悲願となり、3番目が産まれて2歳になる今年やっとみんなで喜ぶことができました。

妻は優勝できなかったとしてもその時はその時って思っていたかもしれないけど、だからこそあの人にも優勝を経験させてあげることができて本当によかったなと思います」

みんなの優勝

 

 優勝が決まった後、チームマネージャーが選手の家族がいる席に慌てて駆けつけ、ケンゴの子どもたちは後を追って走ってピッチに下りていった。加奈子も慌てて末娘を抱いて下に行くと、チャンピオンTシャツに着替えて、ケンゴの元に走っていく長男と長女の後ろ姿が見えた。そこに末娘がいないのはかわいそうだと思い、スタッフに促されてピッチを走って、ケンゴのもとに行き末娘を託した。

「優勝ができて、正直な気持ちは、『優勝って本当にあるんだな』というような信じられない夢のような感じでした。それはたぶんいままで何度も2位を経験していて、どこかで期待しすぎないようにしようっていう予防線をはっていたところもあったと思います。

 思い返せば今年の元日天皇杯決勝の時は、家族全員で現地で観る予定だったのが、前日の大晦日に長女がひどく体調を崩して嘔吐してしまい、翌日の試合はホテルでテレビでふたりで観ていました。娘から『パパが心配するから言わないで』と言われていたし、試合前なのでケンゴには言いませんでした。頑張れば神様は見てくれるのかなと思っても、またダメだった、ということが何度もあり…。だから本当に夢みたいでした。ケンゴと振り返って話をした時に、待ったかいがあったね。フロンターレは、きっとこのタイミングだったんだね、と話しました。

 子どもたちは、本当に喜んでいました。長男はサッカーをやっていますが、物心がついてサッカーのことが分かった時には、ケンゴは代表選手ではなかったし、ベスト11を獲ったことも記憶にはありませんでした。でも、昨年MVPを頂くところを見ることができました。本当にうれしそうでした。自分がサッカーをやるようになり、勝てないこととかうまくいかないことがあることも分かってきて、今では同志のような存在です。現役選手として息子とサッカーの話ができることは本当に幸せなことだと思います。

 私は、フロンターレが大好きだし、毎年そうですが、今年のチームも本当にいいチームだったので、みんなが優勝を経験をできて本当に良かったなと思います。心からうれしそうな皆さんの姿をみて、私も涙がとまりませんでした。

 翌日、解散式を終えて自宅に帰ってきたケンゴがティッシュで目頭を押さえていて、どうしたの?って聞いたら、「井川が終わるんだ」と言いました。12年一緒だった井川選手の退団は寂しかったのだと思います。

 今、ケンゴは37歳ですが、一個ボタンが掛け違えばどこかで優勝できていたかもしれないけれど、円熟味が違ったのではないかなと思います。

あの頃は自分たちも30歳近くでそれなりに成長していたけれど、VTRで観るケンゴはまだ若くて今とは違うなと感じます。いろんなことを経験してチーム全体のことをより見られるようになって、一歩引いた形で選手として優勝できたこと、本当に良かったなと思います。

もしも、このまま優勝せずに引退することになったとしても、ここまで頑張ってきたんだから焦らなくてもいいと私は思っていました。でも、ケンゴのためではなくみんなのために優勝してほしかったし、報われてほしいなと思っていました。

フロンターレに関わっていない方からも素直に感動したと言っていただき、これがスポーツの醍醐味なんだなと感じたし、みんなが純粋に頑張ってきたからこそ、そう言われるのだと思います。等々力の雰囲気は、ケンゴも私も大好きです。あの日のあの雰囲気も一生忘れないと思います」





未来へ

 37歳にして掴んだ初優勝。これから先もどうなっていくのか、また楽しみが広がった。

「いままでどこかで負けそうな自分や不安な自分がいたこともあったけど、もうここからは、いちサッカー選手・中村憲剛としてどこまで走れるかっていう戦いになる。それはまた新しいページが開けるんじゃないかなっていうのがあります。実際、俺自身、どうなるかわからないですね。タイトルが獲れたらどうなるかな、燃え尽きるのかな、精神的に満足するのかなって思ったら、そんなことなくてシャーレを掲げたらもっと獲りたいな、最高だな、もっとやりたいなってすぐ思いました」

 中村憲剛は、たくさんの人たちと一緒に刻んだ初優勝の幸せな記憶と感謝の気持ちを胸に、これからも変わることなく1日1日を全力で積み重ねていくだろう。

profile
[なかむら・けんご]

川崎でプロのキャリアをスタートして15年、チームの看板を背負って立つゲームメーカーであり続ける。2016年Jリーグ最優秀選手賞を獲得。得点とアシストという結果に直結するそのプレーにはいささかの足踏みもない。2017年12月、宿願だった初タイトルのシャーレ(フロ桶)を大粒の涙と共に等々力で掲げた。

1980年10月31日
東京都小平市生まれ
ニックネーム:ケンゴ

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